078 仮面舞踏会
「これが何かわかるかしら?」
そう言ってカレナが見せつけてきたのは、エコーストーンによく似た形をした紫色の魔導具だった。彼女はそれを愛おしそうに撫で回している。
「お姉様がくださったのよ。あなたが後生大事にしている魔道具と同じ機能を備えているの。動画の録画も、配信も可能なのよ」
「……勝手にコピー品を作られるのは迷惑なんだけど」
「簡単に複製できる程度の代物ということでしょう? 自分たちの能力不足を人のせいにしないでくださらない?」
――ほんっとうに、イチイチ癇に触る。今度は大事な開発陣までバカにしやがって。シモンがシシル様の技術を真似て作ったものを、あんたは自分の手柄のように語っているだけじゃない。
「それで、カレナさんも配信者デビューでもするつもり? やだなぁ、誰が見るんだろう」
「大勢の人が見るんじゃないかしら? だってリカちぃは大人気配信者なんでしょう? あなたが辱められる動画なんて、きっと過去最高の再生数を叩き出すわ」
「……」
何を企んでいるのかと思えば……かろうじて想定の範囲内ではあったものの、あまりにも下劣な発想に目眩を覚え、閉口してしまった。
確かにそんなものを撮られて配信なんてされた日には、リカちぃは完全に終わるだろう。せっかく根付き出した配信という文化自体も、忌まわしき黒歴史として葬られる。きっとそれはカレナにとっては最高のエンターテイメントになるわけで、あぁ、吐き気がするようだ。
「……相変わらず下衆なことばかり考えるのがお好きなんですね」
「そんなに悦ばないでくださる? ちゃんと相手役にはあなた好みの汚らわしい貧民を選んであげたのだから、好きなだけ銜え込んで楽しんでちょうだいな」
「無関係な人まで巻き込んでるの? まさか、また奴隷?」
「あら、アレはお気に召さなかった? 殺してしまったのでしょう?」
「……殺した?」
「奴隷紋の反応が消えたことは知っているのよ、隠さなくてもいいわ。ふふふ、アレが事を成したのかどうかも気になるわね。どうだったのかしら? 消される前にあなたを満足させてくれた?」
どうやら奴隷紋が消えると主人にはわかる仕組みらしい。なるほど。ソルの奴隷紋を消し去ったことをそんな風に解釈していたのか。
怒りで魔力が暴発しそうになったけれど、なんとかそれを抑え込む。目の前の女は、私のそんな努力には気づいていないんだろう。優越感と万能感に浸りきっていた。
「さぁ、お喋りはここまでにしましょうか。そんなに怖がらなくても大丈夫よ。身の程を知らない娼婦じみた女が、本来の立場に戻るだけなのだから」
「……最後に一つ教えてくれない? どうしてそんなに私のことを嫌っているの? わたし、あなたに何か悪いことでもした?」
シモンに嫌悪感でも植え付けられたのでは、という疑念もあったけれど、そうではないことを先ほど確認済みだ。デュオさんが私に好意を寄せているから? それともジュリアを心酔しているから? 言葉通り、どうしても理由が知りたくて、弱々しさを装って彼女に尋ねてみた。
カレナは煙管に口を付け、長く息を吐いた。私を見下ろすその瞳には、憎悪の感情しかなかった。
「そうねぇ……最初は本当にどうでもよかったのよ、あなたの存在なんて。でもね、デュオ様があなたに懸想する姿を見せつけられては無視を決め込むこともできないでしょう? あの配信だって、お姉様は言っていたわ。魔力が込められていると。私の言っていたことはやっぱり正しかったんじゃない。誰彼構わず媚び諂う姿が本当に浅ましくて……。キラキラとしたものに囲まれるあなたが本当に憎たらしくて……お姉様まであなたを大事にしているのだもの。嫌いよ。あなたなんて、大っ嫌い」
最後にそう吐き捨てた彼女の言葉には、嘘偽りはなかった。
これほどまでに嫌われてしまったのならば仕方ない。誰にでも好かれるリカちぃを生み出したかったのに、絶対的なアンチを生んでしまった悔しさは残るけれども……。
彼女は、取り除かなければならない。
だって、リカちぃが命を狙われるほどに誰かに嫌われるなんて、あってはならないことなのだから。
「……確認させて欲しいんだけど。ここは結界の中だから誰にも気付かれないし、情報が漏れることもない、んだよね?」
俯き加減でそう問うと、私が恐怖で震えているとでも思ったのか、カレナは眦を弧に歪めて、えぇ、えぇ、と何度も頷いて見せた。
そして何を思ったのか、バケツのようなものを手に取ると、それを私の頭の上でひっくり返した。真冬の朝のように冷たい水が頭から全身を濡らしていく。
「少し汚れていましたから綺麗にして差し上げましたわ。これでカメラ映りも良くなるのではなくて?」
ただでさえ寒い部屋だというのに体の芯まで一気に冷え込んでしまった。顔にこびりついたカピカピが無くなったのは良いとしても――少し、おいたが過ぎている。
カレナは全く気付いていない。
誰にも聞こえない。誰にも知られない。誰にも助けてもらえない。
それは――あんたにも適用されるってことにねぇ……!
私はポタポタと顎から水を滴らせながら、ゆっくりと立ち上がった。頬はまだズキズキと痛むし、体も心も冷え切っている。けれども、怒りはもう抑えきれそうになかった。
「カレナ」
私がそう呼びかけると、カレナは余裕の笑みを崩さずに私を見下しきっていた。
そしてまだ何か戯れ言を吐こうとするものだから、遮るように口を開いた。
「"跪け"」
はぁ? と言いたげに顔を歪めたのも束の間、カレナはまるで糸が切れた人形のように膝から崩れ落ち、その場にぐしゃりと跪いた。両手を震わせながら床に押し付け、頭を無様に擦りつけている。何が起こったのか理解できないでいるのだろう。「な、なんで……」とくぐもった声が漏れ聞こえてきた。
しばらくその格好でいさせている間に、私は魔力を両手に吹き付けて、それを撫でつけるように全身に行き渡らせた。冷え切った身体に温もりが宿り、ふぅ、と人心地ついた。
カレナはまだ床とお友達状態だ。解放しなければ一生そのままの体勢を強いられるだろう。一歩彼女に近付くと、「ヒィッ」という悲鳴が漏れた。
魔力をろくに持たない女にもようやく分かったのかもしれない。
敵に回してはいけない相手が、この世界にはいるということに。
――加藤蜜柑は、生まれたときから配信者だった。
絶えず記録され、誰かに見られていることが当然の生活の中で、本音を曝け出すことなんてほとんど出来なかった。せいぜい、蜜柑としての人生の終わりを迎えたあの日、抑えきれない感情を爆発させたのが唯一だったかもしれない。
それ以外の日々は、心の中でさえ誰かに覗かれているような気がして、自分自身すら欺いて生きていた。
この世界に来てからも、少しでも生きやすくするために、蜜柑以上に「いい子」であり続けてきた。リカちぃという「偶像」を完璧なものにするためにも必要なことだったから。
でも、ここなら私たちだけしかいないんだよね?
誰にも見られていないんだよね?
それなら少しくらい……自分らしく振る舞ってもいいよね?
自分の本性がこんなにも熾烈で、意地が悪いとは思ってもみなかった。だって床に額を擦り付け続けるカレナの姿があまりにも滑稽で、笑いさえ込み上げてくるんだもん。
リカとしてなら「可哀想だからもうやめてあげて」なんて思ったかもしれないのに、今の私には一片の憐憫も浮かんではこなかった。
「無様だね。憎い相手に頭を下げ続ける気分はどう?」
「小癪な真似を……! どうせこれも、シシルの魔導具か何かの力なんでしょう……!?」
「そう思いたい気持ちは分かるけどさ、いつまでも現実が見えていないのも痛々しいよ、おばさん」
「おばっ……!!」
この部屋、本当に何もないんだな。何やら喚き続けるカレナに「"少し黙って"」とお願いして、彼女が落とした煙管を拾い上げ、魔力を吹き込んで立方体の箱に変化させた。ついでに、彼女が見せつけてきたエコーストーンの模造品も手に取って、箱に腰を下ろしながら操作して赤く点滅させる。エコーストーンをいじっている間も、カレナは額を必死に擦り付け続けていた。
「"顔を上げて"」と声をかける。ぎこちなく頭をもたげたカレナの額には血が滲み、悔しさで噛み締めたであろう唇は赤く染まっていた。
「遊んであげたいところなんだけどさ、私には心配してくれる人たちがいるから、手短にすませようか」
私は足を組み、まだ跪いたままのカレナを見下ろした。少し前までは立場が逆だったはずなのに、彼女は寒さか恐怖で小刻みに震えている。遅いんだよ、何もかもが。
「"ジュリアについて全部話して"」
私の言葉に逆らえないということはさすがにもう学習したのだろう。カレナが目を見開いた。
これからあなたは大好きなお姉様のことを包み隠さず暴露するんだよ。そう目で教えてあげたら、彼女は首を振りながらも重たく唇を開いた。
「あ、あの日、お姉さまがわたくしの前に現れて声をかけてくださったの……。ミュゼが滅び、自分は生き延びたけれど、復讐を果たしたいから魔力を蓄える間、わたくしの力を貸してほしい、と」
「ジュリアに手を貸すということは、サンドリアに対する裏切りなんじゃないの?」
「ミュゼがこの大陸の覇者となるならば、サンドリアなどどうなろうと知ったことではありませんわ……! それに、計画が実現した暁には、ロウラン家を取り立ててくださると約束していただいたのですもの!」
元々ジュリアの信奉者であり、サンドリアでは下位貴族として甘んじていたカレナにとって、それは甘美な囁きだったのだろう。中身がシモンだなんて思わずに、疑うこともなく信じてしまった、ということか。
「テイラー卿もそのことをすべて知っていたの?」
「お姉様は正体を晒すことを嫌がりましたので、ただの魔導士として我が家に迎えるようお父様にお願いしましたわ……。お父様も最初は、お姉様の持つ魔力や知識を頼りにしていましたが、お姉様が奴隷を実験体として持ち始めてからは危険視するようになり……。それでも、お姉様に頂いたお香を焚くようになってからは、何も言わなくなりましたの」
なるほど、そうやってロウラン家全体をあの呪具で操っていたのか。身内に協力者がいれば屋敷を掌握するのは簡単だったはずだ。そうしてロウラン家を隠れ蓑にしながら、シモンは着実に力を蓄えていったのだろう。奴隷なんてものにも手を出して。
もし呪具が一つしかなかったのだとしたら、フォウローザに持ち込まれたとき、ロウラン家は一時的にその影響を免れていた可能性はある。だからこそ歓迎会で話したテイラー卿は比較的正常な状態でカレナを叱責出来たのかもしれない。
「それならあんたの屋敷にいた人たちは当然、あんたたちの悪巧みなんて知らなかったんだよね?」
「使用人や騎士ごときにすべてを教える必要なんて無いでしょう? あんな下賤な者たちは、主人の命令に黙って従っていればいいのよ」
……よし、彼らが関わっていないという言質は得られた。
私は小さく微笑みながらさらに質問を重ねた。