063 転送魔道具の弊害
「あ、ハウンド。おっはよー! セレス連れてきたよ~」
今日も朝から仕事をしていたのだろう。執務室に突然の光とともに現れた私たちを、ハウンドは眩しそうに見上げた。
私の腕にしっかり絡みついているのは、レーベル家のご令嬢、セレスだ。彼女の足元はふらつき、まるで産まれたての子鹿のように頼りない。
「はわわ……頭がぐるぐるして、地面が揺れているみたいですわ……」
セレスは視線も定まらず、どこかあらぬ方向を見ながらか細い声で呟いた。その声は微かに震えていて、今にも倒れてしまいそうだ。
「そうだよねー。慣れてないと辛いよね。これ使って」
気分の悪そうな彼女の背中をそっと擦りながら、片隅に置いてあったふかふかのクッションへとゆっくり座らせる。
クッションに沈み込むと、セレスは「柔らかいですわ……」と力の抜けた声で呟き、まるで子どものようにそれを抱きしめた。
証拠の動画は手に入れたし、スイガ君が戻り次第、必要な書類も届く予定だ。
今日すぐにでも編集を始めるために魔道具を使ってセレスを転送してきたのだが、まさかこんなに魔力酔いを起こしてしまうとは想定外だった。
何度か瞬きをしていたハウンドも、ようやく視界が整ったらしい。私に目を向けると、表情を少し曇らせ、何か違和感を感じ取ったような視線を向けてきた。
「ご苦労だったが……なんかお前、様子がおかしくないか?」
「そう? いっぱい寝たおかげかも。なんかすっごい気分がいいんだよね。昨日は調子が悪かったから、余計にそう見えるんじゃないかな?」
昨夜はいつの間にか眠り込んでしまった。でも、今朝目が覚めたら胸の中のもやもやが消えていて、何に悩んでいたのかすら思い出せない。
思いっきり笑顔を作ってみせても、ハウンドの表情は晴れない。おもむろに彼の大きな手が伸び、指先が私の頬にそっと触れた。
その瞬間、私は反射的に彼の手をぱしりと払い落としていた。
一瞬、空気が凍りついたような感覚がした。自分の中に広がる戸惑い――「え?」と驚く気持ちを隠せない。なんで、あんな反応を?
自分でも理由が分からず、誤魔化すように首を傾げる。
「どうしたの? ゴミでもついてた?」
「……いや、なんでもない」
ハウンドは少し不機嫌そうに手を引っ込めた。その鋭い視線が私を観察するように追ってくるのを感じつつ、気にしないふりをする。
クッションでうつ伏せになっていたセレスに水の入ったグラスを差し出すと、彼女はしんどそうに体を起こし、ごくごくと飲み干した。顔色はまだ優れない。どうやら、もう少し休ませてあげたほうが良さそうだ。
「セレス、出発は一時間後くらいにしようか。無理せず、ゆっくり休んでいて」
「ご迷惑をおかけします……まさか、こんなに魔力酔いを起こすなんて……」
その言葉に、私も初めて転送魔道具を使ったときのことを思い出した。あのときも、くらくらとした感覚にしばらく悩まされたものだ。
セレスも魔力が強い方だと聞いているけれど、それでも相当な負担がかかっているのだろう。
「……おい、ちょっと来い」
「え、どうしたの?」
突然、ハウンドが私の腕を掴み、そのまま有無を言わせず部屋の外へと連れ出した。
外で待機していた騎士に無言で顎をしゃくり、遠ざかるよう指示を出している。どうやら人に聞かれたくない話らしい。
掴まれた腕が少し痛くて、「離してよ」と文句を言ってみたものの、ハウンドは聞く耳を持たない。なんなのよ、さっきからもう――。
「お前、何をした?」
「何をって、何よ? さっきから変だよ? ちゃんと寝てないんじゃないの?」
「俺のことはどうでもいい。……何かお前、おかしいだろう。様子が違う」
真剣な目でじっと見つめられる。心配そうなその視線が、なんだかむずがゆい。
――まぁ確かに、フレデリカの美少女っぷりを考えれば見惚れちゃう気持ちは分かるけどさ?
「大丈夫だってば。さっきから人のことを変人扱いしないでくれます? そんなことよりさ、ハウンドって魔力を受け付けないんでしょ? 転送魔道具を使ったら、一人だけ取り残されたりしないかな?」
魔力を受け付けない体質なら、魔道具にも影響するんじゃないだろうか? ふとそんな疑問が浮かんだ。
もし彼だけが転送から弾かれたら、かわいそうだし、一人で往復するのも現実的ではない。魔塔がどこにあるのかすら分からないのだから――。
「あー……どうだろうな。試したことがないから、何とも言えないな」
「じゃあさ、この時間でちょっと調べてみようよ。庭園から執務室に戻ってみない?」
「それは構わんが……」
まだ考え込んでいるハウンドの背中を軽く押す。彼の反応はどこか煮え切らないものだったけれど、私は気にせず笑顔で前へ進んだ。
すれ違う騎士やメイドさんたちが、微笑ましそうな視線を向けてくる。何か変だ。今日の私は、いつもと違う気がする――。地面がふわふわしているような感覚。高揚感が止まらなくて、まるで空を飛んでいるみたいだ。
庭園に出ると、目に入るのは休眠期を迎えた薔薇たちの姿。ついこの前まで咲き誇っていた花が、葉ごと枯れている。今では枯れたツタと鋭い棘だけが目立っていた。
久しぶりに感じる外の世界。冬の気配を含む冷たい風が、胸いっぱいに吸い込んだ空気とともに鼻腔をくすぐる。この世界にも季節があるんだと、改めて実感した。
「じゃあちょっと私に掴まってくれる?」
「掴んでりゃいいのか?」
「うん、肩でも腕でも、どこでもいいから」
彼の手がしっかりと肩に乗ったのを確認し、私は魔道具を振った。――瞬間、ついさっきまでいた庭園から、一瞬で執務室の中へと戻った。
肩に乗ったままだったハウンドの大きな手の感触がまだ残っている。見上げると、彼は眉をしかめ、少し戸惑った表情を浮かべていた。
「良かった、大丈夫みたいだね。……気持ち悪かったりする?」
「いや、問題ない。なんか変な感覚があっただけだ」
「そう。……あ、もう手は離して大丈夫だよ?」
「――ああ、すまん。そうか」
指摘されるまで気づかなかったのか、ハウンドはようやく肩から手を離した。魔力がない彼に魔力酔いは起きないとしても、何かしらの違和感を覚えたのだろうか。こればかりは慣れてもらうしかないだろう。
ひとまずハウンドのことは放っておいて、私は放置していたセレスに目を向けた。
「セレスはどう? ちょっと落ち着いた?」
「ええ、だいぶ。……ですが、本当に素晴らしい魔道具ですね。代償こそありますけれど、こんなに一瞬で場所を移動できるなんて、驚きですわ」
セレスはまだ顔が少し青ざめていたが、その声には感嘆の色が混じっていた。
「ねー、シシル様の作る魔道具って本当にすごいよね。慣れれば魔力酔いもしなくなるし、これが普及してくれたらめっちゃ便利なのにね」
「いえ、こんな高度な魔道具を扱うには、使い手の魔力が強力か、相当器用な方でなければなりません。普及させるのは、そう簡単ではないでしょうね……」
「そうなんだ? まぁ、すぐには無理でも、いつかもっと使いやすくなればいいよね」
そう言いながら時計をちらりと確認する。もう少し休ませてあげたいところだが、のんびりしていられるほどの時間はなかった。
「そろそろ魔塔に行こうと思うんだけど、大丈夫そう?」
セレスは少し疲れた表情を浮かべながらも毅然とした声で「はい」と答えてくれた。その健気な姿に申し訳なさを感じつつも、こちらも急がなければならなかった。
「それじゃあ行こうか。セレスはまた腕に掴まって。ハウンドは肩をお願いね」
今日何度目になるか分からない魔道具を振り、一瞬で視界が切り替わる。私たちは今度は魔塔の入り口に立っていた。
目の前には、まるで天を突くようにそびえる巨大な塔。セレスは再び口元を押さえ、顔をしかめながらその頂を見上げる。無限に続くような高さに目を奪われ、彼女の大きな瞳がさらに見開かれた。
「ここが魔塔……これがシシル様の……」
「そうだよ。すごいよね? でもシシル様の部屋がどの辺りにあるのか、私もよく知らないんだよね。やっぱり天辺かな?」
セレスは返事をする代わりに、少し体を前後に揺らしながら疲れたように深呼吸を繰り返している。ううん、やっぱり転送の連続は負担が大きいか。次に誰かと一緒に転送するときは、もっと考えてあげないといけない。
一方、魔力酔いとは無縁なハウンドは、腰に手を当てながら同じように塔の頂を眺めていた。
「ハウンドは来たことあるの?」
「無い。こんな場所に用がないからな。ロベリアも来たことは無いだろうな」
「あら、それなら私は……とても貴重な経験をさせていただいているのですね。……うぷ……」
セレスを支えながら扉をくぐると、床には複雑な紋様の魔法陣がいくつも刻まれている。
私たちが何の躊躇もなくその中心に足を踏み入れると、一瞬でシシル様の研究室へと転送された。
セレスは再び魔力酔いを起こしたのか、顔色がさらに青ざめている。慌てて鞄から飴玉を取り出し、彼女に手渡すと、セレスはぐったりとした表情のままそれを口に入れ、ゆっくりと転がしていた。
「……こんなにマナが豊富で安定している場所、滅多にありませんわね。さすがは魔塔……ですわ」
「大丈夫? 深呼吸すると少し楽になるかも」
「ありがとうございます。それにしても……本当に見たことのないものばかり。これがシシル様の研究所なのですね」
セレスは興味津々といった様子で室内を見回している。
一方、ハウンドは棚に並ぶ魔晶石や、床に無造作に転がる試作品を一瞥して、眉間に皺を寄せた。
「ただの悪趣味なガラクタにしか見えんがな……」
彼が軽く悪態をついたその時、背後から小さな「――ヒッ!」という悲鳴が聞こえた。この声は……トーマ君だ。
振り返ると、彼は驚いたように目を見開き、フードを慌てて目深にかぶり直している。私たちの訪問に明らかに戸惑っている様子だ。おそらく、同行者がいることをシシル様から聞いていなかったのだろう。――相変わらず報連相が甘い師匠と弟子だ。
「ごめんごめん、トーマ君。今日は編集作業に来たんだけど……こちらはレーベル家のセレスティア。それから、フォウローザの領主代行のハウンドだよ」
「せ、セレスティアと申します……失礼、少しまた気分が……」
セレスは顔色をさらに悪くしながら軽く頭を下げると、口元を押さえた。
ハウンドは部屋を見渡しながら、不機嫌そうに問いかける。
「爺は?」
「師匠はまだ準備中です……リカちぃが来たら、勝手に始めていいと言われています」
トーマ君は私の後ろにそそくさと隠れる。ハウンドを直視できずに小声で説明するその様子は、彼の人見知りな性格を考えれば無理もない。相手がハウンドとくれば、なおさらだろう。
私はセレスとトーマ君の手を引き、少し離れたところへ移動した。
「こっちはこっちでやってるからね」と軽く声をかけると、ハウンドは頷いて再び棚の方へと目をやった。
場所を移した私たちは、まずトーマ君が撮影した奴隷たちの動画をセレスにも見せることにした。セレスはまだ魔力酔いから完全に回復していないのか、顔色は優れない。それでも、動画を観る彼女の瞳には衝撃が走り、その表情は徐々に悲痛なものへと変わっていった。
「違法奴隷を扱っているとはいえ、多少は人道的な扱いをしているのではと、少しでも期待した私が愚かでしたわ。同じ人間相手に……どうしてこんな酷いことができるの……」
セレスの声は震え、感情を抑えきれない様子だった。
動画に映るのは、痩せ細った奴隷たちの虚ろな目、薄暗い檻の中での過酷な環境――その光景はあまりにも生々しく、私も改めて胸が締めつけられるような気持ちになる。
彼らを救うためにも、この動画をどう扱うか慎重に考えなくてはならない。
「この動画をそのまま流すわけにはいかないから編集が必要だよね。ショッキングな場面にはモザイクを入れて、セレスのナレーションを加えようと思うの。それから、スイガ君が持ってきてくれる証拠リストもカットインで差し込む形にしたいんだけど……トーマ君、できる?」
「……なるほど。それを実現するには、映像全体を一度抽出して、不要な箇所を削除しつつ、必要な要素を追加する作業が必要ですね。魔法陣の中で作業すれば負担は軽減できますが、それでもかなりの魔力と時間が必要になります。……大丈夫そうですか?」
その説明を聞いて、内心で目眩がするような感覚を覚えた。パソコンやスマホで行う動画編集とはまるで勝手が違う。マナを使い、大量の魔力を消費する編集作業――まるで想像がつかない。
「じゃあ、作業を分担しよう。セレスは音声収録をお願い。台本はないけど、大丈夫?」
「お任せください。動画の内容に基づいて、私の言葉でロウラン家をしっかり糾弾いたしますわ」
自信に満ちた声で答えるセレスに、私はエコーストーンを手渡した。
「これで収録ができるよ。通信もできるようになるから、今後はこれで連絡を取ろうね」
「まぁ……! ありがとうございます。これが私の初収録になるんですのね。ますます気合が入りますわ!」
セレスはすっかり元気を取り戻したようで、エコーストーンを両手で大切そうに抱え、宝物のように扱っている。
操作方法を教えると、すぐにコツを掴み、初めてとは思えない手際の良さを見せた。
――問題は、私の方の編集作業か……。
作業量の多さに頭を抱えながらも、私は意を決してトーマ君へ向き直った。