047 人をダメにするクッション
あれからすっかり大人しくなった参加者たちに無理やり締めの挨拶をして、配信者向け説明会は無事に幕を閉じた。
今日は仕事はお休みだから彼の元へ行く必要はない。でも、一仕事終えた安堵感からか、小休憩した私の足は自然と執務室へ向いていた。
「お疲れ様~。さっきは煩くしてごめんね?」
執務室に入ると、端に置かれた大きなクッションが目に留まり、自然と体が引き寄せられる。これは以前にシシル様から貰った "人をダメにするクッション" で、私の休憩用に持ち込んだものだ。
全身を預けても余裕があるほどの大きさで、一度倒れ込むと簡単に動けなくなってしまう。邪魔だと何度か言われたけれど、結局そのまま置かせてもらっていた。
「ったく。次からは防音の結界でもかけておけ」
ハウンドは私を特別歓迎するわけでもなく、かといって追い出すこともなく。いつものように小言を漏らした後、すぐに資料に視線を戻した。
「また仕事してる。ハウンド様ったらお仕事が好きすぎない?」
すでに定時をとっくに過ぎているというのに、彼は席から離れる気配すらない。机の脇には空になったお皿とコップが無造作に置かれている。どうやらサラはまだ回収に来ていないようだ。
「別に好きなわけじゃない。やるべきことをやってるだけだ。……それで、今日の説明会でよさそうな奴は見つかったのか?」
「うん、感触の良い人が多かったよ。あ、そうだ、サントスさんもいたんだよ! あとはえーと、リリーさんとか」
「サントスが? あいつが何をするってんだ?」
「恋愛相談だって」
「…………」
あ、無言になっちゃった。自分で聞いてきたくせに聞かなかったことにしたのか、少しの沈黙の後に再びカリカリと書類にペンを走らせる音が響く。
外はすっかり暗くなり少し肌寒くなってきた。私はクッションの温め機能をオンにして、ぬくもりに包まれながら深呼吸した。
「まだ申請書はこれからだけど、前向きに検討してくれたのはサントスさんも含めて五人だったかな。詳細はこれから聞くつもりだけど」
「その数が多いのか少ないのか、俺にはよくわからんな」
「うーん、出だしとしてはいいんじゃないかな。これから希望者も増えるかもしれないし」
何よりもこれで私以外のコンテンツが増えるのだ! 特にサントスさんの恋愛相談はずっと気になっていたんだから、今から楽しみで仕方ない。
契約書の取り交わしなどの細かい業務は、アレクセイ商会から派遣されたスタッフに任せることができる。配信者も増えることだし、配信ギルドの運営も徐々に軌道に乗ってきたと言えるだろう。
「あ、あと収録できる時間が十五分になったのと、動画配信も可能になるらしいの。まずは私が先行して試してみるつもり」
説明会の直後にトーマ君から新機能の搭載について連絡があり、詳細を聞いた瞬間に私は歓喜の声を上げてしまった。
ただ、ハウンドは私の報告に複雑な表情を浮かべていた。
彼が顔出し動画に乗り気でないことは知っていたけれど、"フレデリカ"のことを考えればその心配も理解できる。でも、配信事業を推し進める以上は認めてもらうしかない。
「……まぁ、仕方ないな。それがお前の望みなんだろう?」
「うん」
「変なのが湧いたらすぐに教えろ。お前専属の騎士を増やしてもいい。あまり肌を晒す服も着るな」
「はーい、分かってるってば」
そう返事しながらも、クッションに身を預けているとだんだんと温かさが体に染み込んできて、眠気が押し寄せてきた。あぁ、こういう心地よさって、炬燵みたいで懐かしい……。
「……おい、寝るなら自分の部屋に戻れ」
「うん……」
瞼が重くなり、無意識に目をこすりそうになって慌てて手を止めた。まだメイクを落としてないしお風呂にも入らなきゃいけない。アレクセイさんにも連絡を取らなきゃいけないし、やることが山ほど残ってる。そう考えると、少しだけ眠気が引いてきた。
クッションから起き上がろうとしたとき、ハウンドが目頭をマッサージしているのが目に入った。そういえば、目の下に隈ができている。もしかして、また寝ていないの?
「ハウンド、疲れてるね」
「お前らがうるせぇからだろうが。せっかくの仮眠の時間だったってのに、邪魔しやがって」
なるほど、だからあんなに機嫌が悪かったのか。寝ようとしていたところを邪魔してしまったのなら悪いことをしてしまった。
「今は何がそんなに忙しいの?」
「西も落ち着いたし、今度は教会の辺りの整備を進めたくてな。一度潰して、孤児院や診療所を作る計画を立てている」
「わ、いいね! でも教会を取り壊していいの? せっかく補修してたのに」
「あんなのは応急措置だろ。今までは手が回らなくて放置していたが、孤児院や診療所が建てば教会は無用の長物だ。それにあの場所自体、元々あまり良い環境じゃない」
たしかに、森は鬱蒼としているしマナも恐ろしく淀んでいる。教会での魔獣騒動はあの一度だけだったとはいえ、また何があるかもわからない。改修しても祈る神もいないのであれば、いっそ壊してしまうほうが合理的か。
「どうせならさ、あの森を切り開いて公園を作るのはどう? 子どもたちには安全に遊べる場所も必要でしょ?」
「ふむ、悪くないな」
「あとさ、学校はどう? そろそろ本格的に教育を進めてもいいんじゃないかな。先生はサンドリアから招いてもいいんだし」
簡単な算数や国語の配信で地力はつけてくれてるかもしれないけれど、やっぱりちゃんとした教育は必要だ。学校に集まって集団行動に慣れるのもいいだろう。フォウローザには先生がいないかもしれないけど、今の私たちにはサンドリアから招くという選択肢もある。
色々と考えていたら、ハウンドは「学校?」と驚いた表情で目を丸くしていた。
「それは……貴族が通うもんじゃねぇのか?」
「私の世界では誰でも行けるよ。むしろ義務教育っていって、中学三年生……ええと、十五歳までは学校に通うのが当たり前なの」
「そんなに長く? 仕事はどうするんだ?」
「学校を出てから働く人が多いかな。大体の人は二十歳過ぎまで学校に通うよ。早くに働く人もいるけど……けっこう少数派かも」
「そうか……。お前の世界は本当に平和なんだろうな。徴兵制もないんだろう?」
「少なくとも日本ではなかったね……」
他の国では聞いたことがあるけれど、日本ではもう昔の話だろう。徴兵か……今のところこの世界では戦争の心配はないものの、魔獣は増えてきている。最低限の防衛力を確保するためにも、希望制での軍事訓練を考えてもいいかもしれない。勉強が苦手でも運動が得意な子たちにとっては輝ける場になるかもしれないし、兵士への道も開けるだろう。
「配信事業以外にも、やりたいことがいっぱいあるね?」
「そうだな……。お前がやりたいようにやればいい。ここは――お前の領地なんだから」
ええ? そんなわけないでしょ、と私は思わず笑ってしまった。ここはあくまでもフォウ家に連なるロベリア様の領地のはずだ。領主不在が長すぎて、私たちが好き勝手やっている今の状況こそが異常なんだから。
ハウンドはそんな私を何とも言えない表情で見つめていた。咳払いを一つすると、「そうだな」と、また繰り返す。彼の指先が眉間を押さえている。何だろう。いつもより口が重たそうだし、今日は特に疲れているように見える。
ロベリア様はハウンドからの再三の要請を無視して戻ってくる気配がない。配信ギルドのスタッフは増えたけれど、領地運営の人員は変わらず。むしろ移住者が増えたことでハウンドの負担は一層重くなっているのかもしれない。
「ハウンドって、休みたいとか思わないの?」
「……あん? 休んだらその後が面倒だろうが。結局、仕事が増えるだけだ」
「そうだけど……私、ハウンドが休んでるところ見たことないなって」
そう。私は定期的に休みをもらっているけれど、ハウンドが休んでいる姿は一度も見たことがない。執務室にいないと思えば、視察に行ったり見回りをしたり。そんなに仕事が好きなのかと思えば、二言目には「面倒くせぇ」。睡眠時間も四時間以下。いくら働きざかりのタフネスと言っても限界はあるだろう。
「私からもロベリア様に戻ってきてってお願いしようか? だって本来はロベリア様がやるべき仕事なんでしょう?」
いくら魔獣の討伐や人探しがあるとはいえ、こんなに長く不在にして良いはずがない。ロベリア様はエコーストーンを置きっぱなしだけれど、レオさん経由で連絡を取ることはできるはず。そもそも、ハウンドがここまで負担を抱えていることをロベリア様は知らないのかもしれない。
一言くらい伝えてもいいんじゃないか……そんなことを考えていたけど、彼はそれを遮るように口を開いた。
「あいつにやらせると仕事が増えるだけだ。事務作業は壊滅的に向いていないし、そもそも戻る気も無い。俺が一度戻れと言ったのはお前のことを相談するためだったんだが……もうお前もこの世界に慣れちまったし、急ぐ必要もなくなった」
「ううん……。でもだからって、そんなにハウンドが一人で抱え込む必要あるの?」
ロベリア様が当てにならない、と言うことはよくわかった。それならばもう少し人手を増やせばいいのに。ハウンドと過ごす時間が増えるにつれ、彼が実際にはほとんど誰にも頼らず、全てを自分で抱え込んでいることが分かってきた。
「お前は気にしなくていい。この領地を安定させるのは俺の責任みたいなものだ」
「責任? ハウンドに何の責任があるの?」
「……だから、気にすんなって言っただろうが。邪魔すんならさっさと部屋に戻れ。お前だってやることが色々あんだろう」
ああ、まただ。彼の心の奥に踏み込もうとすると、いつもこうやって壁を作って距離を取ろうとする。
それがとっても、面白くない。
ハウンドはペンを置いて立ち上がり、私に無言で手を伸ばしてくる。これは――私を追い出そうとしているに違いない。
なんだか素直に部屋に戻るのも癪だったから、私は思い切って彼の腕を引っ張った。普段なら私の力なんて全く通じないはずなのに、今日はバランスを崩したのか、そのまま彼は私の上に倒れこんできた。
「――っ……おい、あぶねぇだろ」
「いたた……あ、ほら。このクッション、触り心地いいでしょう?」
私の隣に手をついてバランスを取ったハウンドの右手は、クッションに沈んでいた。無言で何度かそれを触ると、彼は「柔らかいな」とだけ呟いた。……この人、疲れすぎて語彙力も落ちてるんじゃないの?
「もう、仕方ないなぁ。ほら、このクッション貸してあげるからちょっと休んでみてよ」
「はぁ? そんな真似ができるわけ――」
「いいから! これ、今度売り出しを考えてるの。だからちょっとお試しだと思って、ね?」
私は半ば無理やりにハウンドにクッションを譲り、その傍らに座った。最初は少し抵抗していたけれど、やはりその寝心地の良さには勝てなかったのか、次第に彼は大人しくなっていく。
「あったかくて気持ちいでしょ?」
「……そうだな」
ふぅ、とハウンドは短い息を吐いて静かに目を閉じた。
そうだよ、このまま寝ちゃえばいいんだよ。「いいこ」 と小さく呟きながら、前髪にそっと触れ、硬い髪を指で梳く。
興が乗って、ふと小さな声で歌いだす。誰かが小さいころに歌ってくれた子守唄を。
リズムに合わせて、彼の胸のあたりをトントンと軽く叩く。――あの頃はまだ、ママもこんなことをしてくれたんだよな。あの手がとても心地よくて、安心感に包まれながら眠りにつくのが好きだった。
「ねーむれ……ねーむれ……」
トン、トン――。
穏やかなリズムで繰り返すうちに、ハウンドの呼吸がゆっくりと落ち着いていく。
通して歌い切るころには、静かな寝息が聞こえてきた。
私は心の中で、小さくガッツポーズを取る。えへへ、寝かしつけてやった。彼の胸が穏やかに上下するのを感じるたび、不思議と心が満たされる。
眉間に寄った小さな皺を、指先でそっとなぞってみる。ハウンドは寝ているくせに無意識に顔を横に向けた。まるで反抗してるみたい。彼らしい仕草に思わずくすっと笑ってしまう。
クッションの温かさがじんわりと体に染み渡り、先ほど感じていた眠気がまた私を包み込んだ。
欠伸をひとつ、小さく噛み殺して、私はハウンドの隣に体を預ける。クッションは十分な大きさで、彼と私を優しく受け止めてくれた。ぬくもりが体中に広がり、その心地よさに思わずため息が漏れる。
――あぁ、まだメイク落としてないな。ふとそんなことが頭をよぎったものの、もう気にする気力も残っていなかった。明日やればいいや……。ぼんやりとした思考が浮かび、そのまま霞んでいく。
そっと彼のグローブからのぞく指先に触れてみる。クッションの温かさが伝わったのか、彼の指もほんのりと温かい。
なんとなく、自分の指を乗せてみた。
そして、静かに目を閉じる。
やさしい眠りが、私をそっと連れ去っていくようだった。