044 豊穣祭
日本とは気候も暦も違うからこの世界の正確な季節感は分からない。分かることは、この領地では今が小麦の収穫時期だということだ。
早朝の涼しさの中、薄くたなびく朝もやが畑全体を包み込み、昇る朝日が黄金色の小麦畑を徐々に照らしていく。その幻想的な光景に私は目を奪われていた。
「まぁ……! なんて素晴らしいんでしょう!」
シアさんも両手を組んで感嘆の声を漏らしている。今日は初収穫にあわせて行われるちょっとしたお祭が開催され、私たちお屋敷の住人も招待されていた。シアさんに早朝から揺り起こされて眠気まなこで小麦畑へやってきたというのに、今は目が冴えるほどの美しさにただただ圧倒されている。
「まさかここまで成長するとはな……今年は一体どうなってやがる」
そうハウンドが独り言ちると、ハウンドの隣に立つシシル様も欠伸をしながら畑を眺めていた。以前、マナがこの一帯で増えていると報告したとき、珍しく興味を示して今回同行することになったのだ。
「なんじゃ、お主には分からんのか。この娘の力が影響しておるんじゃよ」
「のう?」と同意を求めるように振られましても、私には何の心当たりもない。ハウンドも怪訝そうな顔でシシル様を見下ろしている。
「こいつの力って……どういうことだ?」
「この領地のマナは、十年前のアレのせいで全て吸い尽くされておった。時間とともに少しずつ回復はしておるが、それだけでは説明がつかぬほどにこの豊かさは異常なんじゃが……」
十年前のアレ、というのはシモンが引き起こした禁術のことだろう。人々の魔力だけでは飽き足らず、土地に満ちていたマナまでも根こそぎ吸い上げられていたらしい。そのせいでかつてはマナに恵まれた肥沃な土地だったこの領地も、作物が育ちにくくなってしまったという。……なるほど、呪われた地と言われるのも理解できる。
「今、各地でマナの量が増加しているという報告が相次いでいてな。その共通点を調べた結果、分かったことがある。報告された場所の近くには、例外なくエコースポットが設置されておったんじゃ」
「へぇ! エコースポットに使われている魔晶石が影響しているってことですか?」
「だから言うておろう、お主の力によるものじゃと。お主の声が、マナを引き寄せておるのじゃ」
私の声がマナを引き寄せる……? 全く理解できずに思わず首をかしげる。ハウンドも同じように肩をすくめて「訳が分からん」と言いたげな表情だ。魔力に関しては本当に専門外なのだろう。
「光に群がる虫みてぇなもんか?」
「例えが酷くない?」
「まぁ、あながち間違いでもなかろう。強い輝きに惹かれるのは、虫けらも人間もマナも同じじゃ。ただ……それだけでは説明がつかぬ部分もある」
シシル様は言葉を切り、再び黄金色の小麦畑に視線を移す。見慣れぬハーフエルフの存在は領民にいらぬ憶測を呼ぶかとも思ったけれども、農夫さんたちは彼には目もくれずに畑の中に道具を運び込んでいる。みんなどこか嬉しそうな表情なのは、この景色に彼らも喜びを感じているからだろう。
「リカ様、今年の祝福の束をお願いできませんか?」
突然の声に振り向くと、ダグさんが装飾が施された美しい白い鎌を手にして立っていた。「祝福の束?」と聞き返すとハウンドが簡潔に説明してくれた。
「収穫の最初の一束のことだ。この豊穣が続くことを祈って、最初の一刈りを偉い奴がするんだよ。ちょっとした儀式みたいなもんだな」
「偉い奴っていうなら、ハウンドの方が適任なんじゃないの?」
この場で一番偉いのは領主代行であるハウンドのはずだ。一応彼に遠慮してそう提案すると、ダグさんの表情があからさまに曇り、ハウンドは呆れたように私の頭を軽く小突いた。
「阿呆か。こういうのはお前がやるべきだろ。無駄に気を遣うんじゃねぇよ」
「そ、そうですね。ハウンド様にはまた別の機会にお願いするということで」
「あ、じゃあ、私でよければぜひやらせてください!」
ダグさんを困らせるのも申し訳ないし、ハウンドも私に譲ってくれるようだ。私は彼から白い鎌を受け取り、ダグさんの後に続いて黄金色の畑に足を踏み入れた。
「お、リカちぃじゃねぇか! 来てくれてありがとうな!」
「今年の豊作はきっとリカ様のおかげですよ!」
農夫さんたちが笑顔で声をかけてくれる。その明るい表情に私も笑顔になって手を振り返した。ダグさんの指示に従い、慎重に鎌を握りしめる。初めて持つ装飾の美しい鎌は少し重いけれど、手に馴染む感触が心地いい。
恐る恐る腕を振ると、ざくり、と小気味よい音がして小麦の穂先が刈り取られた。ふっくらと実った穂先を見た瞬間に歓声と拍手が一斉に湧き起こる。温かな祝福の音に包まれる中、「何か一言いただけませんか?」とダグさんが無茶振りをしてくるものだから、刈り取った束を右手に掲げ少し声を張り上げた。
「こんな素敵な光景は初めて見ました! みなさんが愛情を込めて育ててくれたおかげです、本当にありがとうございます。この小麦がフォウローザの特産品として親しまれるよう、私も配信でいっぱい宣伝しますね!」
その言葉に農夫さんたちは大きく頷き、さらに大きな拍手が送られてきた。作物もマナも不足していたこの土地に、新しい希望の光が生まれている――そう思うと、自然と胸が熱くなる。シシル様の言葉がどこまで本当かは分からないけれど、この領地にマナが満ちて再び豊かになる未来を思うと、少し目も潤んでしまった。
「さすが、こういうのは得意なもんだな」
元の場所に戻れば、ハウンドがそんな軽口を叩いてくる。……確かに、ハウンドがこの鎌を振るっていたら、ホラー映画のワンシーンみたいだったかもしれない。適材適所とはこういうことかと思わず笑みがこぼれた。
農夫さんたちは昇りゆく陽光の中、鎌を手に取り「よいしょ!」という掛け声とともに黄金色の小麦を丁寧に刈り取っていく。
刈り取られた小麦は次々と束ねられ、風が抜ける特設の干し場へ運ばれる。「今年は最高の出来だ!」と笑う声が響く中、農夫さんの一人が何かの魔道具を動かし始める。もみ殻が風に舞い、小麦が選り分けられていく様子は目を見張るものがあった。
集められた小麦は木組みの倉庫へと運ばれていく。その一連の作業に感心して、私は時間も忘れて見入ってしまった。「そろそろ戻るぞ」というハウンドの声も耳に入らないくらいに、初めて目にする光景に夢中だった。
「……ハウンド。何かが向かってきておる」
「あん? そりゃどういうことだ?」
不意に、シシル様が遠い空をじっと見上げた。その視線を追うと、突き抜ける青空の奥に、何やら黒い影が見える。複数の鳥が編隊を組んで飛んでいる――かと思えば、その中に一羽だけ異様に大きなものが混じっている。あれは……本当に鳥なのだろうか?
その巨大な影に違和感を覚えて目を凝らしていると、ハウンドが急に声を張り上げた。
「小屋へ避難しろ!」
異変に気付いた農夫さんたちが空を指さし、「魔獣だ!」と恐怖をはらんだ声が次々に上がった。
「魔獣……!? どうしてこんなところに?」
「おおかた、虫けら同様にマナに吸い寄せられたのじゃろう」
シシル様は冷静にそう言いながら私とシアさんを庇うように広範囲の結界を張る。透明な膜がふわりと広がると同時に、農夫さんたちは手にしていた鎌や小麦を投げ出し、慌てて小屋の中へ駆け込んでいった。
ハウンドが腰にぶら下げていたクロスボウを取り出し、素早く矢を装填する音が響く。金属的な冷たい音が緊張感をさらに高めていた。
「チッ、多いな」
「全て吹き飛ばすか?」
「……小麦に影響が出ちまう。派手な魔法は止めてくれ」
「そうは言うがのう……」
魔獣の一群が畑を覆うように近づいてくる。その中でも最も大きな影が鋭いかぎ爪を構え、ハウンドに急降下してきた。瞬間、矢が空を裂いて放たれ、正確にその巨影の胴体に突き刺さる。バランスを崩した魔獣は小麦をなぎ倒しながら畑の中に墜落し、シアさんの口から「あぁ!」と悲鳴が漏れた。
魔獣たちは手当たり次第に逃げ遅れた人たちに襲い掛かろうとしている。その都度ハウンドが矢を放ち、シシル様が範囲を最小限に留めた魔法をぶつけるものの、小麦は穂を撒き散らし、魔獣の死骸の傍から黒いマナが噴き出した。
「シシル様、あの黒いマナは何!?」
「周囲のマナを蝕むものじゃ。あれに触れるとマナが穢れる。魔獣が忌み嫌われる理由の一つじゃな」
「そんな……!」
せっかく回復した大地が、みんなが心を込めて育てた小麦畑が、黒い毒に侵されていく。その様子を見ているだけで、胸の奥から怒りが込み上げ、体が震えた。
――この十年、どれだけの人が苦しみながら、それでも諦めずに未来を繋いできたのか。それを……どうしてこんな酷いことができるの!?
美しい黄金色が黒く染め上げられていく光景を目にして、思わず叫び声を上げた。
何を考えたわけでもない。ただ、声が出た。
「――いかん! 耳を塞げ!」
鋭いシシル様の声が飛び、指先が空中で素早く円を描く。直後、背後から小さな悲鳴が聞こえたと同時に、空を飛ぶ鳥たちが不自然に旋回し、ふらつきながら遠くへ飛び去っていった。
……逃げたの? 脅威が去ったことに安堵し、はぁ、と吐息が漏れる。
空を睨みつけていたハウンドが私に振り返るなり顔を歪める。足早に近付いてきたかと思ったら有無を言わさずにそのマントで私の上半身を覆い、急に視界が真っ暗になった。
「ハウンド? どうしたの?」
「おい、シア! 無事か!?」
私の問いかけを無視し、彼は低い声で叫んだ。シアさんが魔獣の攻撃を受けたの――?
心臓が跳ね上がり、駆け寄ろうとするが、ハウンドは私をその場から動かせないよう押さえ込んだ。「見せてみなさい」というシシル様の落ち着いた声と、それに応じるようにシアさんが呻き声を漏らす。マントの中で閉ざされた視界では何も分からず、私の鼓動だけが耳の奥でやけに響いた。
「ハウンド……何があったの……?」
震える声で問いかけると、マントの隙間から彼が私をじっと見た。その表情には焦りと困惑が交じっている。
「……まだ駄目だ」
「駄目って……何が?」
「瞳の色が変わってる。誰にも見せらんねぇ」
その言葉に、ようやく理解した。私の叫びに何らかの力が乗ってしまったのだ――そのせいでシアさんを傷つけてしまったのだと。
「爺、シアはどうだ?」
「少し耳の中を傷つけただけじゃ。他の連中にも影響はない。……娘よ。見事、と言いたいところじゃが、結界が間に合わなければ鼓膜が破れていてもおかしくはなかった。制御を学ぶ必要があるぞ」
シシル様の言葉に、頭の中がぐわんぐわんと揺れ動く。私の力のせいで、シアさんを傷つけた。他の人だってもしシシル様がいなければ大変なことになっていたかもしれない……!
「私は、大丈夫です! お嬢様は魔法で魔獣を追い払ってくださっただけです! だから、どうか気にしないでください!」
耳を傷つけて自分の声量が分からないでいるのか、シアさんは私を庇うように叫ぶ。何か言葉を返そうと思っても、ハウンドはまだ私を離してはくれなかった。
「ダグ、そっちは無事か?」
「こちらは大丈夫です! 被害はありません!」
「魔獣が急に逃げて行ったぞ? リカ様が何かしてくれたのか?」
「早く死骸を片付けねぇと土壌が侵されちまう!」
小屋に逃げ込んでいた人たちが表に出てきたのだろうか。慌ただしい足音と声で一気に賑やかになり、周囲の空気が再び動き出す。
彼らを救えたという安堵感がわずかに胸を満たす一方で、シアさんを傷つけてしまった罪悪感が、それを打ち消すように広がっていく。震えそうになる手を握りしめていると、ハウンドが低く宥めるように呟いた。
「よく聞け、お前は何も悪くない。少しばかり運が悪かっただけだ」
その言葉に少しだけ救われる気持ちがした。でも、心の奥に広がるざらついた感覚は簡単には消えそうにない。
「リカとうちのメイドが負傷している。悪いがいったん屋敷に戻らせてもらうぞ。すぐにうちの者を手配するから、被害状況をまとめておいてくれ」
「リカ様も……! だ、大丈夫ですか!?」
「深刻な傷じゃない。だが、魔獣を追い払ったのはそこの爺――魔導士シシルだ。リカじゃない。妙な噂が立たないように気を付けてくれ」
「わ、分かりました……」
「……でも、リカ様が何かしてくれたよなぁ……?」
「しっ、何か事情があるのかもしれないだろ……」
ハウンドは立ち上がり、私を背負いながら素早くマントを掛けて姿を隠した。その隙間から辛うじて見えたシアさんは、耳を押さえながらも微笑を浮かべ、シシル様の問いかけに小さく頷いている。
「シア、悪いが歩けるか?」
「はい、大丈夫です」
ハウンドが差し出した手を取ったシアさんの耳から、一筋の真っ赤な血が首筋へと伝い落ちる。身がこわばったのが伝わったのか、「落ち着け」とハウンドの声が耳を掠めた。
「シアさん……!」
「大丈夫ですよお嬢様。まずはお屋敷に帰りましょう、ね?」
痛みを抱えながらも私を気遣うシアさん。その優しさがかえって胸を締め付ける。
これ以上謝罪を重ねるのは、彼女の負担になるかもしれない――そう思い、私はハウンドの背中に顔を埋め、こぼれ落ちそうな涙を必死に拭った。
屋敷に戻ると、シアさんはすぐに休憩室へと運ばれた。出血はあったもののシシル様が最初に張った結界のおかげで傷は浅く済んだそうだ。そう報告を聞いたとき肩から力が抜けるようだった。
でも――自分の力が原因で大事な人を傷つけた。その事実が胸に重くのしかかる。
自室の鏡を覗き込むと、いつもの空色に戻った瞳が映っていた。
「――恐らく先ほどの魔獣は先遣隊。魔獣どもも学習をしたじゃろうから、すぐすぐにまたあの地に来ることもあるまい」
よほど酷い顔をしていたんだろう。ベッドに腰かけていたシシル様が、気遣うように穏やかに声をかけてくれる。
「あれはなんだったんだ? 呪詠律とはまた違う力だっただろう?」
「ただ、声に魔力が乗っただけじゃ。それであの威力じゃぞ? マナが満ちた地にいたというのも理由の一つじゃろうが……娘、いつの間にそこまでの魔力を蓄えた?」
「……全然、身に覚えがありません……」
何度聞かれても分からない。その「蓄える」という感覚自体が自分には掴めていない。マナが満ちた場所にいたと言われても、空気が美味しいな、とか、体が軽いな、程度の実感しかないのだ。
「……仕方あるまい。研究日には魔力の制御を叩き込むぞ。このままではいつ暴走してもおかしくない」
「お願いします……」
何一つ反論する余地もなくただ頷くことしかできない。ぐすぐすと鼻を鳴らしていると、不意に控えめなノック音が響いた。
「――お嬢様、失礼します」
「シアさん! ごめんなさい、私のせいで本当にごめんね……!」
おずおずと入ってきたのはシアさんだった。その左耳にはガーゼが貼られていて、痛々しい姿に胸が締め付けられる。
わけの分からない力で傷つけられたにも関わらず、彼女は私を恐れることも無く駆け寄ると、ぎゅっと抱きしめ、背中をそっと撫でてくれた。
「大丈夫ですよ。本当に大丈夫なんです。……お嬢様は、皆を守るために力を使っただけじゃないですか」
「でも……私がうまく使いこなせていないばっかりにシアさんが……!」
「お嬢様のお力のことは存じ上げておりません。ただ、それはきっと尊い力なんです。だからどうかご自身を責めないでください。農夫の皆さんと小麦畑を守ってくださったのは……お嬢様なんですよ?」
シアさんの優しい言葉が、固く閉じていた心をそっと解きほぐしてくれる。彼女は私の涙をそっと拭いながら、穏やかに微笑んでくれた。
……どうしてそんなに優しくしてくれるの? その笑顔に耐えきれなくなり、私は彼女の胸に顔を埋めて大きな声で泣いた。