035 空席の執務室
魔塔からお屋敷に戻ったらハウンドの姿は見当たらなくて、執務室には掃除をしているサラの姿だけがあった。
「あ、サラ。ハウンドって今どこにいるか知ってる?」
「ハウンド様なら教会の視察に行かれましたよ。お帰りは遅くなると仰ってました」
「そうなんだ……。あ、今朝なんか機嫌が悪かったみたいだけど、私と喧嘩したせいだと思うんだよね。なんか、ごめんね」
「そうだろうと思ってました。ちなみに、魔塔に行かれたことについても相当お怒りのご様子でしたよ」
「…………」
どうやらハウンド様基準では魔塔はNGだったらしい。これはまた帰ってきたらお説教コースかもしれない。
そのことについてもきちんと弁明しようと思っていたのに、夜になっても彼は戻らなかった。せっかく謝る準備をしていたのになんだか拍子抜けだ。
エコーストーンで連絡してみようかとも思ったけれど、私からそこまでするのもなんだか癪で、少しの意地が勝ってしまった。
翌朝、執務室に行っても、やはり彼はいなかった。いつもいるはずの席が空になっていることに妙な違和感を覚えてしまう。彼の自室かと思うくらいここに詰めていることが多いからだろうか。主を待つかのような静かな彼の席が、少し寂しそうにしている。
昨日は休みと言われたけれど今日は特に指示もなかったから、一人で先に仕事を始めた。けれども、お昼の時間になっても彼は姿を見せない。作業を進める手がふと止まり、不在の席に何度も目を向けてしまう。そこに仏頂面で仕事をする彼の姿がないのが、どうにも落ち着かない。
「なによ、人には連絡しろって口うるさく言うくせに……!」
これ以上意地を張っても仕方がない。エコーストーンを手にしてみると、いつもなら少し顔を見せないだけでも彼のほうから頻繁に連絡が来るのに、今回は着信が一件もない。代わりに、パノマさんのチャンネルの更新通知が届いていた。内容はギルドクエストについてだからもう毎回は聞いていないけれども、なんとなく再生ボタンをタップした。
『昨日の緊急クエストは無事完了しました。皆さん、ご協力ありがとうございます。これにて中央区東付近の規制は解除されますが、もし魔獣の痕跡を見かけましたらギルドまでご連絡ください。続いて本日のクエスト案内です――』
緊急クエスト、魔獣、中央区東付近……。その言葉を耳にした途端、全身の血の気が引いていく。そこは、教会がある辺りだ。
まさか、あの場所に魔獣が出現したの? 教会にいる皆や子どもたちは無事なの? ひょっとしたらハウンドもそこにいたんじゃないの……?
慌てて昨日の投稿を確認すると、緊急クエストの内容が配信されていた。
『緊急クエストのご案内です。中央区東の教会にて調査と住民避難の補助をお願いします。人数に制限はありません。調査については戦闘の可能性もあるため、ご自身の力量に応じて受諾ください。責任者は領主代行、ハウンド様となります。現地ではハウンド様の指示に従って行動をお願いします』
これだけでは詳細までは分からないし魔獣のことについても触れられていない。戦闘の可能性があるとは言ってたから、もしかしたら調査の途中で魔獣が現れたのかもしれない。この中途半端な情報では何がどうなっているのかさっぱり分からなくて、次第に苛立ちが不安に変わり、焦燥に駆られた。
確認しに行きたくてたまらない。でも、今はお屋敷から出ることを禁じられている。ハウンドやスイガ君に連絡を入れてみてもどちらも応答はない。こうなるともう、仕事どころではなくなってしまう。
「あ、忙しいところごめんね。ハウンドはまだ帰ってきてないよね……?」
「申し訳ございません、帰りが遅くなるという知らせは頂いているのですが詳細までは……。ですが、ご安心ください。リカ様のことは我々がお守りしますから」
執務室の前で待機していた騎士のおじさんから頼もしい言葉は頂いたものの、詳しくは知らない様子だった。
昼が過ぎても日が傾き始めても、彼は戻ってこない。私もエコーストーンで彼の居場所がわかればいいのに。もどかしさで何度も通信をかけてみても応答はないままだ。
サラが夕食をどうするか尋ねてくれたけれど、私は無言で首を横に振った。動き回ってもいないし何かを食べる気にもならない。「ハウンド様なら大丈夫ですよ、タフなんですから!」と励ましてくれる彼女に、作り笑いしかできなかった。
「……どうして帰ってこないのよ……」
自分がこんなにも誰かの安否を気にする日が来るなんて思いもしなかった。良くも悪くもパパとママに連絡を取る必要性を感じなかったし、誰かに用があるときはスマホを使えばなんらかのアプリで簡単に連絡が取れたからだ。そもそも、この世界に来るまでは、他人に対してこんなに強く関心を持つことすらなかった。
だって両親はあんなんだし、友達とも表面的な付き合いばかりだった。仲の良い配信者もいたけれど炎上や生活環境の変化で音信不通になることも少なくない。タイムラインに並ぶ人たちは顔も何をしている人なのかも分からない。リスナーは大切な存在だけど、個人としてのつながりとはまた違う話だった。
――あぁ、私って本当に馬鹿だ。誰かを本気で心配するってこういうことなのかと、今になるまで気付かなかった。
時間が経つのが遅く感じられる。今日の分以上の仕事が終わったけれども自室に帰る気にもなれず、観葉植物から葉っぱを引きちぎって無心で魔晶石を作っていると、不意にギィっと扉が開いた。のっそりと部屋に入ってきたのは――ハウンドだった。
「ハウンド!」
「うぉっ! ……なんだ、居たのか」
まさか私がいるとは思わなかったのか、私の声にハウンドは少し驚いたようだ。彼の顔には小さな切り傷がいくつもあり、黒尽くめの服にもわずかに汚れがついている。ブーツは別のものに履き替えたのかいつものものとは違うし、腰のベルトにあったはずのナイフがいくつか無くなっていた。どことなく血の匂いも漂っている。
「パノマさんの配信を聞いたの。教会に魔獣が現れたの?」
「あー……まぁ、そうだ。ったく、配信ってのは伝えなくていいことまで伝わっちまうもんだな」
「……隠そうとしてたの? なんで? 一体何があったの?」
詰め寄る私をハウンドはそっと押し戻し、疲れた様子で中央のソファにどっかりと腰を下ろした。昨夜もほとんど眠れていないのか全身に疲労の色が漂っている。私はその隣に腰を下ろし、彼が怪我をしていないか確認するため体を寄せた。
「お前が感じた視線の正体を調べに行ってたんだ。スイガが張り切って奥まで調査したら妙な魔法陣が見つかってな。嫌な予感がしたからギルドに緊急クエストを出したんだよ。騎士も何人か連れてはいたが、教会の避難対応には人手が足りなかったからな」
今日の配信で完了報告がされていた緊急クエスト、それがこの件だったということか。
「そこで戦闘があったの……?」
「そうだ。若い冒険者が不用意に魔法陣に触れやがった途端に魔獣がわんさか出てきやがって、ちょっとした戦場のような有様だったってことだ」
「それで怪我をしたの? どこも痛くない? スイガ君も無事?」
見たところ体の方は大丈夫そうだ。顔に軽く触れて傷の具合を確認すると、深くはなさそうだった。
「汚れるから触るな。……俺たちは無事だ。前衛に出た騎士が何人かやられたが、骨が折れたくらいで済んでいる。そのまま教会にぶち込んできたからそのうち治んだろう」
「そう……」
骨が折れたくらいっていっても十分に重症だと思うのだけれど、ハウンドは何でもなさそうに平然としている。そして私の手をそっと引きはがされたので、再び彼の体に手を伸ばすと、「そんなにじろじろ見るな」と少し鬱陶しそうに手で払われた。
「その魔法陣から魔獣が召喚されたってこと? なんでそんなものが……」
「さぁな。ただ、お前が昨日感じた視線とも関係があるかもしれん。……お前たちが報告してくれたおかげで大事には至らなかった。感謝する」
もしもあの時、報告せずに黙っていたら。誰も知らぬ間に魔獣が召喚されて教会が襲われていたかもしれない。――私を説得してくれたスイガ君のおかげだ、本当に感謝しなくちゃいけない。もし教会の人たちが危険な目に遭っていたら、私は自分を許せなかったはずだから。
「……泣くな。別に誰も責めてやしない」
そう言われて、私はようやく自分が涙を流していることに気がついた。
だって、心配だったんだもん。
ハウンドがいなかったことも、すごく心細かったんだもん。
鼻をすすりながら顔を上げると、「ぶっさいくな顔だな」とハウンドに小さく笑われる。失礼なやつだ。こんなにも心配していた美少女に対してよくそんなことが言えるものだ。
「誰が何の目的でそんなものを仕掛けたのかはわからん。調査をしても限界があるし……しばらく様子を見るしかなさそうだ」
ハウンドの言葉に、今度は別の不安が押し寄せた。私が「屋敷から出るな」と言われたのは危険が迫っている可能性があったからだ。魔獣は討伐されたとはいえ根本的な問題は解決していない。もしそれが理由でずっと外に出られないとしたら……?
私の不安な様子に気づいたのか、ハウンドは滲み出た私の涙を指でそっと拭い、そのままふんわりと手を私の頭に置いた。まるで小さな子どもを宥めるような、穏やかな仕草だった。
「もう出るなとは言わん。この間は俺が悪かった。あの時は焦って冷静さを欠いてたんだ」
――まさかハウンドが謝ってくれるとは思わなかったから、堰を切ったようにまた涙が溢れてしまった。「なんで泣くんだよ」と少し焦ったような声が聞こえてくる。
「私も酷いことを言ってしまってごめんなさい……。ハウンドは私を心配してくれただけなのに」
「いや、言い過ぎたのは確かだ。……お前を一人の人間として尊重しているつもりだったが、俺の独りよがりだったことには違いない。それに、もう少し意見を聞くべきだった」
「ううん。私、誰かが心配してくれるっていう気持ちに慣れてなかったみたいで……今日ハウンドがいなくて、本当に心配だったの」
こうして自分も心配する側になって初めてその気持ちを理解した。彼もいつもこうやって気を揉んでくれていたんだと。
鼻をぐずぐずしながら話す私に彼はなんとも落ち着かない表情をしている。「そんなに素直だと気持ち悪ぃな」と余計な一言を言われて、少し涙が引っこんだ。
「そう思うんなら今後もきちんと報告してくれ。万全の体制で手配はするが、それにも限界がある」
「わかった……」
「それならもう泣くな。お前は、阿呆みたいに笑ってる方がお似合いだろうが」
そんな憎まれ口を叩かれて思わず笑ってしまう。こんなにも優しく頭を撫でてくれている癖に、この人もたいがい素直じゃない。
「……それで、爺のところに行ったんだろう。それについては不問としてやるが、妙な手紙の件は何かわかったのか?」
「あ、シシル様はいなくって、エコーシリーズの今の開発者のトーマ君に聞いたんだけど……その便箋に呪術が込められてたみたい。人の心を弱らせる効果があるんだって」
「…………」
ハウンドは無言で重い溜息を吐いた。教会の魔獣、アレクセイ商会の不審な動きに加えて、今度は呪いの手紙の問題まで出てきたのだから無理もない。正直、私も嫌なことばかりで全部投げ出したい気分だった。
「心当たりなんかあるわけねぇよな……」
「ないねぇ……。そういえば、ミュゼのシンパが各地にいるって話も聞いたんだけど、ハウンド様なら当然知ってたよね?」
「チッ、余計なことまで吹き込みやがって……」
やっぱり、知ってて隠していたんだ。私は彼に疑惑の目を向けたが、ハウンドは特に言い訳もせずふんぞり返っている。完全に開き直ってるな、この人……。
少し前の私なら「また隠し事をして!」と怒っていたかもしれない。でも、今の私は冷静に対処することを覚えた。心の中で六秒カウントをしてから、穏やかにハウンドに微笑みかけることにする。
「ミュゼのことと関係あるんでしょ? 知っていることがあれば教えてくれる?」
「別に隠していたわけじゃねぇぞ? 俺もそんなには詳しくないし、そういう奴らがいるっていうのを耳にしたことがあるだけだ。だからお前にも伝えなかった。……これは俺は悪くないだろ?」
「うーん……そういうことにしておいてあげる。でも、ミュゼの人は呪術が扱えるみたいだし、そのシンパたちも気にかけておいたほうがいいかもね」
「次から次へと面倒なことばかりだな……。スイガが十人いても足りやしねぇ」
ハウンドはそうぼやきながら、大きな欠伸をした。疲労が限界に近づいているのだろう。そろそろ休ませてあげないといけない。
「まさか、これから仕事するつもりじゃないよね? 今日はもう寝なよ」
「明日までに確認して決裁しないといけない書類があるんだよ。それだけでも終わらせねぇと」
「アレクセイ商会の支店関連の書類でしょ? それならもう終わらせておいたから明日の朝イチで確認すればいいじゃない。ほら、早く部屋に戻って!」
まさかの私の言葉に彼は目を丸くしていた。書類の不備をチェックしてハンコを押すくらい私にだってできる。誰の手ほどきで成長したと思ってるのよ。他の事務仕事だって、気を紛らわせるために全部片づけてしまったんだから。
「私だってちゃんと成長しているんだから、ね?」
そう言うと、彼は今まで見たことのない笑顔で「よくやった」と言ってくれた。……そんな顔、もっと別の場面で見たかったんだけどなぁ。