021 謎の少年スイガ君
ぽつぽつと降り出した雨に気を取られたのか、それともただの気のせいだったのか。森の奥には何もいない。
しばらく気配を感じたほうを見ていたけれど、特に何も変わったことは起こらない。……やっぱり気のせいだったのかな。少しホッとしながらも、なんとなく、嫌な感覚が纏わりついている。
気を取り直して教会で傘を借りて帰ることにした。おばさんは二つ返事で貸してくれて、「本当に一人で大丈夫かい? なんなら泊まっていってもいいんだよ?」とありがたい申し出までしてくれたけれども、残念ながら配信の準備がまだ残っている。明日になってしまっては間に合わないから、感謝の気持ちだけ伝えて教会を後にした。
外に出ると、雨は一層強くなっていた。
小麦畑を抜ける頃には冷たい雨が頬を打ち、足元を跳ねる雨粒がブーツをしたたかに濡らしている。ぬかるんだ道に足を取られ、歩くたびに靴が泥に沈んでく。歩くのがしんどい。こんなに雨が強くなるならもっと早く切り上げておけばよかった、なんて後悔しても後の祭りだ。
教会を出たときにハウンドには一報を入れておいた。私の位置も彼には把握されている。だからそこまで心配はしていない……はずだけど、もしあんまり遅くなるとまた迎えに来てしまうかもしれない。忙しい彼の手を止めるのは申し訳ないし、何よりもまた小言を言われるのも避けたい。そう思うと自然と足が速くなる。
まだ止まない雨が全身を伝い顔に髪が纏わりつく。歩くたびに泥が跳ねて、足元の感覚はまるで重りを引きずっているみたい。早く帰りたい。そう気持ちが急いていると――。
「――キャッ!」
足元にあった大きな石を見落としてしまった。勢いよくつまずいて、傘も手放し、受け身も取れずに顔面から水溜まりに突っ込んでしまう。バシャッ、と跳ねた水が冷たい泥と一緒に顔に広がり、瞬間的な痛みと共に冷たさが全身に染み込んでいった。
あと少しでお屋敷が見えるのになんたる醜態……! 帰って早々にこんな姿を見られたら何て言われることだろう。洗濯してもこの泥は落ちないかな。昼間はあんなに楽しかったのに、変な視線を感じてからまるでいいことがない。雨は強くなるし、暗がりで道は間違えるし、挙句の果てに転ぶなんて……!
立ち上がる気力もなくただ俯いていた私の後頭部に、雨粒が当たる感触が突然消えた。雨が止んだのかと思って前を見れば相変わらず強い雨が降り続けている。首を傾げながら見上げると、大きな傘が私の上に差し出されていた。
まさか、彼が来てしまったのだろうか。恐る恐る後ろを振り返ると、そこに立っていたのは――見知らぬ少年だった。暗くてはっきりとは見えないけど、私と歳はそう変わらないくらいだろうか。――あ、もしかしたら、ハウンドが密かに私に付けていた兵士さんかもしれない。彼の服装は町に溶け込むようなものだったけど、その佇まいは、明らかに訓練を受けた者のものだった。
「差し出がましい真似を申し訳ございません。ですが、これ以上はちょっと見ていられなくて……」
少年は困ったように眉を下げながら私に手を差し出してくれた。泥まみれで少し気が引けたけど、彼は汚れを気にする素振りも見せずに、おずおずと伸ばした手をしっかりと握り引き起こしてくれた。
「ありがとう。……お屋敷の人、だよね?」
「はい。スイガと申します。先日よりお嬢様が一人でお出かけの際は密かに警護をさせていただいておりました。……今日は少し、無茶をされましたね」
「あはは……。えーと、その無茶を隠ぺいする手伝いとかは……?」
「出来かねますね。さぁ、まずは早く帰りましょう。この辺りも夜になると危険です」
スイガ君は私に手拭いを差し出してくれたので、ありがたく受け取って泥まみれの顔を拭く。彼はその間に落とした傘を拾い上げながら「行きましょう」と声をかけてくれた。
「スイガ君は昔からロベリア様に仕えてるの? 私、あなたのことを見たのは初めてだわ」
「厳密にはハウンド様に、です。諜報を得意としておりますので、基本的に表に出ることはありません」
ぱしゃぱしゃと水溜まりを踏む私と違って、スイガ君はまるで水面を滑るように足音ひとつ立てていない。その動作の軽やかさに感心しながら彼の中性的な顔立ちを横目で見つめると、薄めの顔だけどその端正な姿は際立っていた。……化粧映えしそうだな。そんな場合じゃないのに、ついついネタに繋げてしまう。
「先ほど、教会の森をしばらく眺めておられましたが、何かありましたか?」
屋敷に続くぬかるんだ坂道を登り切ってもうすぐ辿り着くという頃に、スイガ君が思い出したように尋ねてきた。「あの時にも声をかけようかと迷ったのですが……」と言うから、もう少しあの場に留まっていたら、あのタイミングで彼に声をかけられていたのかもしれない。
「……あ、なんかね、視線を感じた気がしたの。あんな森の中に誰かがいるはずないと思うんだけどね」
「そうでしたか。私は魔力がない代わりに人の気配には敏感ですが……特には何も感じませんでした」
「だよね。ただの勘違いだったと思う。私がもっと早く切り上げてたらスイガ君も早く帰れてたのに、ごめんね」
今日だけに限らず、『はじめてのおつかい』を無事に終わらせるためにきっと毎回神経を張り巡らせていたことだろう。一緒に行動しているわけでないとはいえ結果的に付き合わせてしまっているわけだし、もし私に何かあったら彼がハウンドに怒られるかもしれない。そう思って謝ったら、彼は少しだけ驚いたような表情を見せて、そしてすぐに、静かに微笑んだ。
「気にしないでください。お嬢様のお姿を見ていると飽きることがありませんので。もっとも、事細かにハウンド様に報告するのが少々面倒ではありますが……」
「……つまり、私の行動は全部ハウンドに筒抜けってことね……?」
「はい。その点に関しては諦めていただければ幸いです。お嬢様の警護を解かれてしまえばこの領地での仕事も無くなってしまいますので」
諜報を得意としていると言っていたから、私が外をほっつき回るようになる前は他領に出向くことが多かったのかもしれない。こんなに若いのに立派に働いていて偉いなぁと感心してしまう。
「スイガ君はあちこち行ったことがあるの? フォウローザは他と比べてどう?」
「行くとしても王都サングレイスでの諜報活動くらいです。私はここがミュゼの統治のころから住んでおりますが、個人的にはあの頃から比べて住みやすくなりました」
「ミュゼの頃から……じゃあご家族も?」
「両親と兄は十年ほど前に消えました。とても優秀な魔導士だったと聞いています」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。この人はシモンの禁術のせいで家族を失った人だ……!
なんて無神経なことを聞いてしまったんだろう。それに、どうして気付かなかったんだろう。残された一割の存在に。
「そ、うだったんだ……。ごめんなさい、つらいことを思い出させて」
「いいえ、記憶にはほとんど残っていません。それに戦乱で多くの孤児が死んだ中で私はハウンド様に拾われました。幸運だと思っています」
スイガ君の顔色が変わることは無かったけど、その言葉の裏には拭いきれない静かな悲しみがあるようにも思えた。彼が家族を失った背景には私――フレデリカの父、シモンの禁術が深く関わっているのだと考えると、表に出さないように努めながらも激しく動揺してしまう。
「そう……でも、ごめんなさい」
「……」
謝罪を重ねる意味が分からなかったのか、スイガ君は探るような目で私を見ながらも、それ以上何も言わなかった。
自分の中に、彼の家族も魔力として息づいているかもしれない――。そう考えると、私の身体が急におぞましいものに思えてくる。
冷たい雨と泥の中にあった手が、今度は罪の重さに震える。だけど、駄目だ、そんな風に思ってはいけない。私は全部受け入れると決めたはず――。
「……お嬢様、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが……」
「あ、うん、ちょっと寒くて。帰ったらお風呂入らないとね」
「もう見えてきましたよ。ああ、ほら、シアが待っています」
スイガ君は静かに「では、これで」と言って一礼すると、そのまま暗闇に消えていった。彼の姿がまるで影に溶けるように消えたことに戸惑いつつも、「お嬢様~!」というシアさんの声に振り返る。
心配してくれていたのだろう。彼女は濡れることもいとわずに私に駆け寄ると、「こんなに濡れそぼって……! 早くお入りください、お風呂を温めてますから」とタオルで包み込んでくれた。
◆ ◆ ◆
翌朝。八時の配信が無事に終わったのを確認して、恐る恐る執務室へと向かう。結局帰りが遅くなったこととスイガ君の手を煩わせたことが頭にちらつき、ハウンドにまた何か言われるんじゃないかと不安だった。昨日は疲れてお風呂の中でうたた寝をしてしまったくらいなんだけど、なんとか気力で配信準備を終わらせてからすぐに寝たから、ハウンドとは顔を合わせる時間も無かったのだ。
ドアを開けると、彼はすでに仕事を始めていた。私が入るとちらっと顔を上げて、一瞬じろりと睨みつけたように見えたが、すぐに大きなため息をついた。
「おはよーございます……」
気まずくて目を逸らしながら挨拶をすると、ハウンドは「おう」と短く返してくる。短くない時間を共に過ごしたからこそ分かるこの様子は……そこまで怒っていない!
「報告は受けている。……怪我はなかったんだな?」
「あ、うん。おかげさまで」
ハウンドは私をじっと見つめ、何かを見定めるような表情を浮かべる。でも程なくして、その厳しい目つきが少しだけ和らいだ気がした。
「ならいい。ただ、時間配分を見誤るな。……次は気をつけろ」
門限破りと報告ブッチの罪は重たいと思ったけど、簡単なお小言だけで済んだ……! 「はーい! 気をつけます!」と元気よく返事を返すと、ハウンドは再び厳しい表情に戻して「次はねぇぞ」としっかり釘を刺してきた。
「……スイガに礼を言っておけ。あんまり怒らないでやってくれと、わざわざ言ってきたんだ。淡々と仕事をこなすだけのガキが、珍しいこともあるもんだ」
「そうだったんだ……。お礼を言いたいけど、スイガ君がいつもどこにいるのか私分かんないよ」
「それもそうだな。俺も知らん」
「えええ……」
配下の居場所を把握していなくて良いんだろうかと思ったけど、「必要な時はエコーストーンで呼び出しゃいいからな」とあっさり言い放つ。じゃあその連絡先を教えてよ、と当然の要求をすると、ハウンドは眉間にしわを寄せて、まるで面倒なことを聞かれたかのように心底嫌そうな顔をした。いやいや、なんでよ。
「いいか。あいつは仕事も丁寧だし、余計な感情を挟まないところも気に入ってるんだ」
「うんうん、仕事ができる子って感じがしたよね」
「だから却下だ」
「いやだからなんで!? 話が繋がらないんだけど!」
どうしてそんなに連絡先を教えたがらないのか、本当に分からない。まだ食い下がろうとする私に、ハウンドは面倒くさそうに手で払いながら「いいから、さっさと仕事を始めろ」と無慈悲に言い捨てる。話を終わらせたいという態度をここまで露骨に取られたらこちらとしても諦めるしかない。
「どこかのタイミングでまた顔を合わせられるかな……」
そう呟きながら席に着いたけれど、昨日のスイガ君の出現はレアイベントだったんじゃないかと思う。また一人で外出したら警護してくれるのかな。でも私が危ない目に遭わないと会えないのかもしれない……? それならば……?
「……碌でもねぇこと考えてるだろ、お前」
「なんで分かんの!?」
ハウンドの鋭い指摘に思わず驚いて反応してしまった。いけないいけない、お咎めなしの状態は損なわないようにしたい。
渋々と仕事を始めようとしたら、机の端に見慣れない小さな紙切れが置かれていた。「ん?」と拾い上げてひっくり返してみると、小さな文字で『配信というものを聞いてみました。夜も楽しみにしています』と書かれている。
その右下には『スイガ』とサインが残されていて、まさかこんな形でメッセージを残してくれるなんて――。さすがは諜報員……と思わず心の中で感心してしまった。