170 至宝となりし娘
シモーネは死産し、そのまま逝去した――。
対外的にはそう発表され、フレデリカと名付けられた娘は離れの部屋に秘されることとなった。
また、産婆も赤子が落ち着いた頃に密かに始末された。……覚悟していたのだろう。彼女は動じることもなく、静かに死を受け入れた。
そして、屋敷の改装が決まり、シモンは離れの部屋へと一人の男を呼び出した。
「……随分と、厳重に結界を張っていらっしゃるのですね」
部屋を訪れた男――ブゲンは、訝しむように室内を見渡しながら、自然と奥に置かれた子供用のベッドへと目を向ける。
「結界が無ければ、その娘の気にすぐに当てられよう。……だが、お前なら感じ取れるだろう」
促され、ブゲンはベッドを覗き込む。そこには、金色の髪をした赤子が、静かに眠っていた。
シモンが大きな杖をつくと、部屋全体を覆っていた結界が解かれる。
瞬間、空気が変わった。
これまでに感じたことのない、異質な魔力がブゲンの全身を包み込む。全身が粟立ち、皮膚の下を魔力が這いずり回るような感覚に襲われる。
「こ、れは――」
ミュゼで暮らす以上は、最低限の呪術耐性は備えている。ブゲンも例外ではなかったが――これは、その程度の話では済まされない。
魔力が身体を巡り、共鳴し、沸騰するように暴れ出す。それは、ブゲンの故郷で「妖力」と呼ばれるものにも似た、容易には抗えぬ力だった。
手が、自然と赤子に伸びる。
――欲しい。
――この力を、この娘御を手中に収めたい。
これまでに湧き上がったことのない感情が、胸を灼くように揺れ動く。
「……それは私のものだ。お前にとて、やれぬのだよ」
ドン、と杖のつく音が響き、ブゲンは現実に引き戻された。再び結界が張られたのだ。
知らぬ間に息を止めていたことに気付き、はぁ、と大きく息を吐き出す。
「……この御方が、奥方様の忘れ形見と言うことですか」
「そうだ。私の、娘だ」
シモンの声には、わずかな迷いすらない。ただ、その目に宿る光だけが、得体の知れぬ色をしていた。
だが、その金色の髪は――ミュゼの正統な血筋ではないことを、何よりも明確に物語っている。
なるほど――ブゲンは一人、納得した。
だからこの部屋が必要なのだと。
だから、この娘は秘されているのだと。
「……外からは視認できぬ部屋を……いや、塔が必要だな。塔を作ろうと思う」
シモンは独り言のように呟きながら、ブゲンを見据える。
「お前にはひと月ごとに乳母の手配を頼みたい。それと、役目を終えた乳母の――始末を」
その言葉が意味するところを、ブゲンが理解できぬはずもない。
何も知らなければ「なんと非道なことを」と憤ったかもしれない。
だが、つい先ほど、赤子の魔力を前にして我を失いかけた自分を思えば――その指示は理に適っているとすら思えた。
「……御意に」
再び赤子へと目を落とす。
まだ産まれたばかりだというのに、隠し切れぬ美しさがすでに滲み出ている。
同時に、小さく、あどけない顔立ちの奥に、何か得体の知れぬものが潜んでいるのを感じた。
この娘は、人を惑わす。
そう、確信できるほどに。
「……いいか。これは、私の娘なのだ……」
譫言のように繰り返すシモンの姿に、ブゲンは静かに目を伏せた。
かつての大公は、もはや消えたのだ。
新たな時代を拓こうとしたはずのシモンは、結局のところ、古い価値観に囚われた。
いや、それ以上だ――彼は、旧態依然とした魔力原理主義を掲げる狂信者へと変貌していた。
まるで、何かに取り憑かれたかのように――……。
――◇◆◇――
馬車に揺られていたシシルは、やはり転送の術を極めるべきだと考えていた。
なにせ乗り心地が悪い。時間も無駄にかかる。
それでもこうして馬車に乗り込んだのは、かつてサンドリアでともに宮廷魔導士として過ごしたシモンから、急な呼び出しを受けたからだった。
まさか連絡に鴉を使うとは思わなかったが、恐らくミュゼの術ではないだろう。括りつけられていた手紙を読み終えると、その鴉は瞬く間に紙へと姿を変えた。
肝心の手紙の内容はこうだった。
「娘が産まれたから、ぜひ見に来てほしい」
あまりにくだらない。それだけなら、わざわざ重い腰を上げはしなかっただろう。
だが、かの紙を使った術式には興味を抱いた。術者に感謝して欲しいものだと、シシルは痛む尻を擦った。
そうして辿り着いたミュゼの国境付近で、一人の魔導士がシシルを迎え入れた。魔導士はシシルを見るや目を細めたが、すぐに胡散臭い笑顔を張り付ける。
「お初にお目にかかります。私はブゲンと申します。遠路はるばるお越しいただきありがとうございます」
「ふむ。あの鴉を使いに出したのがお主じゃな? なかなかどうして、面白い。あれはこの大陸に伝わる術では無かろう?」
「ええ、私も異邦人と呼ばれる身でして。紙を依り代にするのですよ。大魔導士と名高いシシル殿にお見せするには、お恥ずかしい術です」
「いや、なかなか面白いものを見せてもらった」
だが、この男自身はそれほどの魔力を有していないように見える。器用に術をこなすタイプなのだろう。術式についての解説も受けたが、シシルにとってはさほど関心を引くものではなく、次の興味はミュゼの大地へと移った。
「……なるほど、シモンめが誇っていただけあって、なかなかに良い土地じゃな」
「そうですね。これほどまでに安定してマナを湛える地もなかなかないでしょう。いや、魔塔もそのような場所にあるんでしたかな?」
「そうじゃな。だが、ここほど落ち着いているわけでもない。……ふむ、この地を借り受けても良かったかもしれんの」
「ははは、それはまた大胆な。もしそうなればミュゼの魔導士たちが押し寄せてしまいましょうぞ。シシル殿の名声はこの地にも轟いておりますので」
確かに――シシルは魔塔で着実に力をつけ、数多の魔道具を造り続けていた。戦時に扱われるようになったそれらは、各国でも脅威と見なされつつあるほどに。
「……それで、シモンは私に娘を見せたいそうじゃな。そんなに親馬鹿じゃったか、あいつは」
「どうでしょうね……。シシル殿は、子はおらぬのですか?」
「そうじゃなぁ。そんな話は聞いておらんから、おらんのじゃろうな」
ある種の実験として何度か試したが、やはり自身には生殖能力が無いらしいという判断を下すこととなった。子が出来れば必ず報告するように女どもには命じ、口外を禁じる契約術まで交わしたというのに、誰一人何も言ってこないということは、そういうことなのだろう。
「そういうお主はどうなんじゃ?」
「養子が、一人。ですが、そろそろ外へ出すつもりです。どうせなら実子も欲しいところですな」
「そういうものか、よくわからんな」
親になる――その可能性は、この先もないだろう。
ならば、やはり自身の能力を伸ばすほかない。
だが、この身体はもう限界を迎えようとしていた。魔晶石を喰らっても、一時的な増幅に過ぎない。見知らぬ術でなんとか止まってしまった成長を促す方法はないものか――。
そんなことを考えているうちに、古びた屋敷が視界に入った。
「……何か、幻惑の術をかけておるな?」
「さすが、お分かりになりますか。屋敷全体を覆う結界を敷いています。外側からは見られぬように……」
「ふむ……」
なぜそんなことをする必要があるのか。
その疑問は、すぐに氷解した。屋敷に足を踏み入れた瞬間、言葉にできない違和感が身体を駆け抜けたのだ。
「――何が、潜んでいる」
「…………」
ブゲンは何も答えなかった。代わりに人差し指を鼻に当て、「ここでは何も喋るつもりはない」と静かに示す。
入り組んだ廊下を奥へ奥へと進み、現れた螺旋階段を昇る。ブゲンはそこまでのようだ。静かに頭を下げ、階段を下りていく。
仕方なく木製の扉を潜ると、そこには――純然たる魔力の結晶が存在していた。
いや、魔晶石の類ではない。人だ。
「――久しいな、シシルよ」
部屋の中にはシモンがいた。だが、今はその男の相手をしている暇などない。
知りたい――。
目の前の存在の正体を知りたいという渇望が、シシルの身を焦がす。
こんな衝動は、生まれて初めてだった。
吸い寄せられるようにベッドの木枠に手をかけ、シシルはその幼子を覗き込んだ。
「……これが、お主の娘だというのか」
「……そうだ、私の、娘だ」
挨拶を交わす余裕すらなかった。
それほどまでに、目の前の存在に強く引きつけられていた。
いま持つ魔力は、それほどのものではない。
だが――この器はどうしたことか。
底なしだ。
いくらでも魔力を注ぎ込めそうな器に、シシルは思わず喉を鳴らした。
「……いくらじゃ?」
赤子を注視したまま、シシルの口から自然と言葉が零れた。
シモンは一瞬、面食らったような顔をしたが、すぐにフッと鼻で笑う。
「お前でも抗えぬのか。その娘の力に」
「御託は良い。寄越す気が無いと言うのであれば、これを私に預ける気はないか? この大陸一――いや、世界一の魔導士として育て上げてくれようぞ。エルフの長たちをも凌ぐ、最高の魔導士に――」
「くれてやるわけがないだろう。それは私の娘だ」
「ええい、分からぬ奴じゃな! それならば何が欲しいのじゃ? 金も魔晶石も、魔道具だって望むだけくれてやるぞ?」
こんなに取り乱すことは初めてかもしれない。それほどまでに、この娘が欲しくて欲しくて仕方がなかった。
だが、シモンが首を縦に振ることはない。どこか物憂げにシシルを見下ろし、断ち切るように首を振った。
「この娘は、いずれ大いなる力を持つだろう。その日を楽しみにしているんだな」
「大いなる力じゃと? お主がいったい、どのようにしてこの娘を育てると言うのじゃ?」
「ミュゼには禁術が伝わっているのだよ。……人の魔力や魂をマナに変換し、それを特定の人物に注ぐという、禁術が」
――まさか、自分が驚かされる日が来ようとは。
そんな術が存在していることすら知らなかった。
どれだけの人間を犠牲にし、どれほどの力を注ぎ込めるのか――見当もつかない。だが、もしもその禁術がこの娘に施されたとすれば、まさに至宝と呼ばれる力を得るのではないか――。
「……なるほどな。いつになるのかも、本当にそんな醜悪な術を試すのかも知らぬが、その日が来るというのであれば楽しみに待つとするかのぅ……」
なにせ、自分には時間だけはある。
何年生きるかも、何百年生きるかもわからぬ身の上であるが、この娘の成長を見届けることはできるだろう。
それまでこのシモンに育てられるのかと思うと、やはり不満はあったが――さすがに人の子を攫うわけにもいくまい。
シシルがシモンを見上げ、「手に余るようならいつでも連絡せよ」と伝えると、シモンはやはり仄暗い目でシシルを見下ろしていた。
――はて、こんな目をする男だったろうか。
気にはなったが、今の興味は完全に娘に向いていた。
「――やはり、お前は私を見ることは無いのだな」
何やらシモンが呟いていたが、眠りから目覚めた娘が綺麗な空色の瞳を向けてくる。
シシルは、たまらずその頬を撫でた。
「……ああ、欲しいな」
思わず漏れ出た呟きに、シモンがまた小さく笑った。