169 これで兄さまはわたくしのもの
年単位で姿をくらましていたシモーネは、戻ってくるなり何事もなかったかのようにシモンに抱かれたがった。
――もう、近親婚に拘る必要はないのではないか。
実際に、幾度となく流産を繰り返し身も心も傷ついたのはシモーネのはずだ。シモン自身も、もはや純血にこだわる意味を見いだせなくなっていた。
だが、それとなく伝えても、シモーネは頑なだった。
「ミュゼの歴史を思い出してくださいませ。王族としての責務を果たすのです」
低く囁かれる声は、呪詛のように耳に絡みつく。
その言葉に込められた執念の重さを思えば、シモンも受け入れざるを得なかった。
シモーネは無事に懐妊したが、悪阻がひどく、ほとんど部屋に閉じこもるようになった。
同時期に、シモンは一人の男をミュゼに迎え入れた。
ブゲンと名乗る異国の魔導士は、この地の噂を聞きつけ、旅の途中で立ち寄ったのだと言う。
この大陸の人間とは異なる雰囲気を纏い、また、同じ異国の民であるシシルともまるで違う。
シモンは初めこそ慎重に接したが、彼の持つ知識と技術を知るうちに次第にその実力を認め、やがて重用するようになっていった。
「まだこの国に来て日も浅いというのに、お前には世話になっているな」
「とんでもございません。こんな得体の知れぬ男を受け入れて頂き、こちらこそ感謝しているくらいです。この地に身を埋めてもいいかと、思い始めているほどですよ」
そう謙遜するが、ブゲンがもたらした異国の知識は、確かにミュゼに大きな恩恵をもたらしていた。
ミュゼはマナに満ちた土地であるため、平時から作物には恵まれていた。それに加え、ブゲンの助言に従い農作を進めると、これまで以上の収穫が見込めるようになった。
それだけではない。
彼が使う術式は、この大陸では見たことのないものだった。
印を結ぶことで発動するその魔術は、従来の詠唱や魔力操作とはまるで異なる。紙で作られた鳥が命を宿した時には、シモンも驚いたほどだ。
ミュゼの魔導士たちも初めは彼を異端視していたが、その威力と実用性を知るにつれ、次第に一目置くようになっていた。
ブゲンを、この地に留め置きたい――。
その意図も込め、シモンは彼にソニアを下し与えることにした。
「……それは、どういったおつもりなのでしょうか?」
深淵を思わせる黒い瞳が、静かにシモンを見据える。
「深い意味はない。だが、可能であれば匿ってやってほしい」
この国に来たばかりの異邦人に、まさか「王妃から身を守るため」などと説明するわけにもいかない。
だが、異邦人だからこそ、この国からいつでも抜け出せるはず。
すべてを説明せずとも聡い男はすぐに事情を察したのか、口を挟むことなく、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。私に預けるということであれば、引き受けましょう」
ブゲンの瞳はまるでガラス玉のように冷たく、何を考えているのか分からない。
だが、彼の能力は間違いなく類まれなるものだった。
だからこそ、シモンは彼を重鎮として扱うようになった。
――そして……とつきとおかが経過した。
尋常ならざる様子の産婆が、慌ただしく産室から飛び出してきた。そしてシモンを見つけるや「すぐにお越しくださいませ」と、返事を待つ間もなく袖を強く引く。
「どうした、シモーネの身に何かあったか」
「恐ろしいことでございます。恐らく、シモーネ様も長くはもちません」
何人もの子を取り上げてきた産婆の言葉に、シモンの顔に陰が差す。――だから、子を作るのは嫌だったのだ。
奔放で手を焼いていたとはいえ、一人の女として愛してはいた。ただでさえ身体が弱いのだから、何度も子を為そうとせずとも良かったのに、と。
産室に近付くと、産婆が「これ以上は……」と顔を青くして足を止める。シモンも、異変を感じ取った。
空気が震え、産室から溢れ出す膨大な魔力が、廊下の空間すら圧迫する。入り口近くでは、お産の補助をするメイドたちが倒れ伏していた。
身が竦むような、これまで感じたことのない異質な魔力が、皮膚の上を這い、絡みつく。
呼吸が浅くなる。吸い込むごとに肺の奥が焼かれるような錯覚に陥り、息を吸うことすら躊躇われるほどの濃密な魔力が、産室の奥から脈動していた。
「……兄さま、こちらへおこしくださいませ……」
か細い声が、魔力のざわめきに紛れながらも耳を打つ。その声に導かれるように、地に縫い付けられた足を無理やり動かし、産室の中へと踏み込んだ。
目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑む。
血に塗れた産褥の上で、シモーネは一人の赤子を腕に抱いていた。
「見てくださいませ。わたくしの、子でございます」
異様な気配の正体は、この赤子だった。
シモーネが震える手で手拭いを取り、赤子の顔にこびりついた血を拭い取る。
頭部にわずかに生えた髪が、赤黒い血の下から現れる。
その色は――薄い金色。
「シモーネ……! これは、どういうことだ……!」
「もっとよく、見てくださいませ。わたくしたちの子ですのよ」
「違う、これは私の子では――!」
「見なさい!」
どこにそんな力が残っていたのか。
シモーネの一喝に息を呑み、再び赤子へと目を落とした。
ふにゃふにゃと頼りない身体――しかし、その身から溢れる魔力は尋常ではなかった。
いや、魔力だけではない。
人には、魔力を受け入れる器があるという。
その器が――計り知れないほどの大きさを秘めていた。
「どういうことだ、シモーネ……いったい、お前は誰と……」
産声を上げる赤子が、ゆっくりと瞳を開く。
薄く開かれた瞳は――シモンの記憶に深く刻まれた空色。
その解に至った瞬間、全身の血の気が引いていく。
「うふふ……シモーネは成し遂げましたわ。この大陸で……いいえ、この世界で一番の子を産みましたのよ。この子は兄さまの将来の伴侶となるのですから……褒めてくださいませ、兄さま……」
紫水晶の瞳が、虚ろげながら確実にシモンを射抜く。
彼女の腕の中で、金色の髪の赤子がか細い産声をあげている。
「お前は……お前は何ということをしたんだ! 何故、いつの間にそんなことを……!」
叫ぶ声が震えているのは、怒りのせいか、それとも――。
「嫉妬してくださってますの? ……それは、どちらに対してかしら?」
赤子の鳴き声だけが産室に響く。
血の匂いに満ちた室内で、シモンは浅い呼吸を繰り返す。
頭の中が、思考と感情の渦でぐらつく。
「ああ、お可哀そうな兄さま」
シモーネの囁きが、甘い毒のように耳を侵していく。
「唯一愛した人には見向きもされずに、きっとあの男はこの娘だけを愛することでしょう。……お可哀そうな兄さま」
どちらともなくかすれた笑みが、血の滲む唇から零れる。
「どうか思い出してくださいませ……ミュゼの忌まわしき歴史を……サンドリアへの復讐を……」
シモンの足元が、ぐらりと揺らいだ気がした。
それは気のせいではない。
呪術は、弱った心を容易く絡めとるのだから。
「わたくしの魂は、兄さまと共に……」
――シモーネの最期の言葉は、確かな呪詛となり、シモンの心に深く刻まれた。
我に返ったシモンが最初にしたことは、事切れたシモーネの腕から赤子を取り上げることだった。
赤子の体温が、手のひらを通して伝わる。
先ほどまでの畏怖の感情はいつの間にか消え失せていた。
何も考えられぬまま、産室の外で控えていた産婆に娘を託す。
「……部屋を用意する。それまでは離れで育てておくのだ。いいか、決してこの娘の存在を誰にも漏らしてはならぬ。誰にも、だ。……分かったな」
無言で頷いた産婆は、恐る恐る赤子を引き取る。
何重にもガーゼで包み込み、その小さな身体を覆い隠すようにして、静かに離れの部屋へと向かった。
――お可哀そうな兄さま――。
耳の奥の残響が、いつまでもこびりついて離れない。
脳裏に刻まれた言葉は、毒がじわじわと体の内側へと浸食していくかのように沈着した。
「……この私を、呪うたか……」
呟きが、虚空へと消える。
このためだけに姿を消していたのだろうか。
復讐心を薄れさせ、時代の流れに迎合しようとした己を戒めるためだけに、――子を為したのか。
シモーネ亡き今、真相は分からない。
だが、空いた心を埋め尽くしていくのは――捨て去ったはずの古い感情。
サンドリアへの復讐など、もう必要ないと思っていたはずだった。
それなのに、シモーネの言葉が、まるで呪いのように脳内で繰り返される。
情愛深いシモーネ。
サンドリアへの復讐に心を囚われていたシモーネ。
流産と死産を繰り返す内に心を蝕まれてしまったシモーネ。
どうしてこんな真似をしたのか、今となっては彼女の意図が痛いほどに理解できた。
そして、理解してしまったが故に――抗えなかった。
自身の中に良く似た魂の残滓を感じ取ってしまったから。
ああ――ミュゼを再興せねばならぬ。
――歴史を改竄した憎きサンドリアに天誅を下さねばならぬ。
――早く、ミュゼの高潔で尊い血を取り戻さねば。
――瀉血だけでは到底足りぬ。再び近親婚を繰り返し、ミュゼの血筋を純化しなければ――。