166 出会うべきではなかった
サングレイス王城に赴いたシモンを待っていたのは、宮廷魔導士筆頭の座が、新参のハーフエルフによって奪われたという屈辱的な事実だった。
筆頭という立場に固執していたつもりはない。だが、己を差し置いて誰かが上に立つなど、到底受け入れがたい。この大陸において、随一の魔力を誇るのは自分であったはずだ。
納得のいく説明を求めると、国王は悪びれることもなく、そのハーフエルフ――シシルの価値を語り始めた。
「貴様の心情は理解するが……シモンよ、魔道具というものを知っているか?」
「魔道具、ですか?」
「魔晶石を加工して作られた、まさに夢のような道具よ。シシルは、私にひとつの魔道具を献上してきおった」
国王の手には、丸い水晶玉があった。それが元は魔晶石だと説明されたが、魔晶石はただのマナの結晶体に過ぎない。その美しさと希少性ゆえに宝石としての価値は高いが、魔導士にとっては大した意味を持たないはずの代物だった。
だが、国王がそっとその水晶玉に触れると――。
ブシュッと、静寂を裂くような音とともに、水晶玉から溢れんばかりの水が噴き出した。水流は勢いよく放たれ、足元に置かれた大壺へと滝のように注がれていく。
シモンの目が驚愕に見開かれる。
国王は魔力こそ保持しているが、魔法は扱えぬ身だ。魔法を使えぬ者が、まるで魔導士のごとく魔法の奇跡を引き起こしてみせたのだ。驚愕せずにいられなかった。
「稀少な魔晶石を用いる必要はあるが、魔力のない者でもこれは扱えるそうだ。……恐ろしい話だとは思わぬか?」
「エルフのいる大陸では、このような技術が発達しているというのですか……!」
「あまり詳しくは聞けなかったが、そのようだ。……魔道具だけではない。子どものような姿をしていたが、その力は計り知れぬものがあった」
大陸の覇者としていくつもの国を従えた国王が、わずかに顔を伏せ、口元を覆う。滲み出る畏怖の感情を押し隠すような仕草に、シモンはごくりと唾を呑んだ。
「……シシルを筆頭とし、我が国のために魔道具の開発を命じることとした。お主が推進していた、魔力を高める術式の研究も、もちろん続けて構わぬ。だが、国の発展を思えばこれからは魔道具に力を注ぐべきであろう。……魔晶石が採れる鉱山についても、早急に調査を進めねばな」
ミュゼの大公という立場でありながら、サンドリアの宮廷魔導士として召喚され、仇国の発展のために心血を注ぐ日々。これまで、それを不満に思うこともあった。
だが、同時に己の力――ミュゼの力を示すことには、確かな誇りも感じていた。
それすらも、奪われるというのか。
この未知の技術の前に――。
「……筆頭の立場を譲ることに、何の異論もございません。ただ、そのシシルという男に、まずは会わせていただけませんか?」
「それはもちろんだ。……貴様の驚く顔が、目に浮かぶようだがな」
くつくつと笑う国王に、シモンは心の中で舌を打つ。この男にとって重要なのは、サンドリアの発展に寄与する者。ただそれだけだ。シモンがこれまで重用されてきたのも、反乱の兆しを見せぬよう飼い殺しにされてきただけに過ぎない。
とはいえ、あの魔道具には否応なく驚かされた。
肩をいからせ、すれ違いざまに挨拶を交わしてくる魔導士たちを無視しながら、宮廷魔導士の集う客間へと向かう。かの男はすでにそこで待っているという。
いかほどの人物なのか、見極めねばならないと勢い込んで扉を押し開けた瞬間、シモンの喉が小さく鳴った。
緩やかにこちらへと振り向いたのは、窓からの逆光に照らされた小柄な影。
光を背にした輪郭はぼやけ、細部を判別することはできない。ただ一点、空色の輝きだけが暗がりの中で歪に浮かんで見えた。
この世のものとは思えぬ、魔力の結晶体のような存在。
それが発する気配に、空間がわずかに揺らいでいるようにさえ感じる。
見えざる波動が肌をかすめ、呼吸が浅くなるのを自覚した。
妄念を振り払うように頭を振り、再び視線を向けると――そこには、丸眼鏡をかけた少年の姿があった。先ほどまで浮かんでいた空色は、すでにどこにもない。代わりに、同じ位置に、金色の瞳があった。
「――貴様が、シシルか」
「いかにもそうであるが、なんじゃお主は」
不躾に名を呼ばれたことに対する微かな不快感を滲ませる、少年特有の高い声。少年というのも語弊があるかもしれない。隠す気もなさそうな膨大な魔力を持ち合わせていなければ、親の手が離れたばかりの子どもといった風貌であった。
「我が名はシモン。宮廷魔導士筆頭、だった男だ」
「ああ、お主がそうなのか。筆頭というからには、この大陸で一番の力を持っていたということであろう?」
持っていた。そう、過去形だ。今、目の前にいる子どもに、シモンはその座を奪われた。
くすくすと袖で口元を覆ったシシルは、緩慢な動きでシモンへと近づいた。そして、手でしゃがむように指示する。
普段のシモンならこんな仕草をされれば激高していたはずだった。だが、なぜかその場で逆らうという考えが浮かばず、言われるがままに腰をかがめる。
「――なるほどな。なかなか面白い力を持っているようじゃ。お主、得意とする術式はなんじゃ?」
問われた瞬間、シモンの内で膨らみかけた高揚が、不意に萎んだ。
シモンの得意とする術は――呪術だ。
ミュゼに伝わる伝統ある術式。しかし、他国では忌み嫌われることが多い。人の心を絡め取り、縛り、蝕む。呪いという言葉に対する負の印象が、それをさらに不吉なものとして広めていったのだろう。だが、使いようによっては人の心を癒すこともできる、貴重な術でもある。
誇りに思うことこそあれ、恥じることなどない。
――だが、このエルフは、どう思うのか。
「……呪術だ」
そんなつもりはなかったのに、まるで覚悟を決めたかのような声色で返してしまう。すると、目の前のシシルが「ほう」と低く呟きながら、興味深げにシモンの顔を覗き込んだ。
「呪術か。エルフすらも扱わぬその術式、これまでお目にかかったことが無い。どれ、一つ、試してみせてはくれぬか?」
「……見世物ではない。それに、私はお前の力を認めたわけでは――」
「なんじゃ、ならば私の力を見せれば良いのか? とはいえ、何をしたものか」
ふむ、と何やら考え込んだシシルは、おもむろに指先を弾いた。瞬間、魔力が膨張し、空間が歪む。
圧倒的な気の奔流が部屋を満たし、冷たい重圧が全身を包み込んだ。血が逆流するような錯覚すら覚える。シモンの視界がわずかに揺らぐなか、濃密な魔力が収束し、禍々しい光を孕んだ球体が静かに生まれた。
それは、まるで生き物のように脈動しながら、シモンの目の前にふよふよと漂う。
シモンは、知らず手を伸ばしていた。
「触れれば、指先が飛ぶぞ」
軽い調子の警告に、シモンは慌てて手を引っ込めた。だが、その言葉が誇張ではないことは、理屈ではなく直感で理解できた。ここまで圧縮された魔球など、これまで一度も目にしたことがない。
「この部屋では、派手な魔法を見せるわけにもいかんからな」
――シモンは静かに悟った。
この世界には、自分の力が稚児の戯れのように扱われる、人知の及ばぬ存在がいるのだと。
一方で、シシルもまた、シモンの表情を見て悟った。
この世界には、稚児のように扱われた自分の力が、崇め称えられる場所もあるのだと。
ふっ、と、どちらともなく乾いた笑いが込み上げる。
シモンは呪術を扱ってみせた。とはいえ、呪術という特性上、シシルのように視覚的な派手さはない。だが、戦場においてこの術に抗えた者はいない。心を絡め取り、精神を揺るがすその技は、敵国の将軍すらも戦意を喪失させた。
シモンが幻影を紡ぎ、シシルへと仕掛ける。
次の瞬間、わずかにシシルの肩が引かれた。
――動いた。
シモンの呪術に反応し、意識せず身をのけぞったのだ。
それだけ。
それだけだった。
「……なるほどな。人の心に及ぶ術か。なかなか興味深いではないか」
シモンの呪術を破った者は今までいなかった。だが、このハーフエルフには、ただ少し身を引かせることしかできなかった。
「どれ、もっと他にはないのか? それに、これは魔道具と組み合わせればさらに凶悪なものとなろう。そちら方面で試したことは無いのか?」
無邪気な声色で、シシルは嬉々として矢継ぎ早に質問を重ねる。その様子にシモンは呆気に取られた。
――この男は、邪気がまるでない。ただ純粋に、魔術にしか興味が向いていないのだ。
筆頭の座を奪われた妬みも、己を軽く凌駕するその魔力への嫉みも、胸の奥に渦巻いていた黒い感情が氷が解けるように静かに消えていく。
こんなにも凶悪な力を持ちながら、こんなにも純粋でいられる者がいるのか――。
魔力に縛られ、血塗られた歴史を背負ってきたシモンにとって、それは未知との邂逅であった。