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158 しゃぼんだまとんだ

 あの日のことを、忘れることはありません。


 いつもと変わらない日になるはずだったのに。まだ日が昇らぬ時分に父上と母上の言い争う声が耳に届き、私は目を覚ましました。


「――いいから、早くこの地から出ていくのだ! お前の未来も視えなくなった今、もう時間が残されていないのだぞ……!」

「嫌でございます! 私はこの地で生まれ、この地で死ぬと決めているのですから……!」

「スイガはどうするのだ! 父も母も亡くすことになるのが分からんのか!」

「あの子は……一人でも生きていけます。過分な愛情は注がぬよう、育ててきたのですから」

「愚かな……!」


 寝ぼけまなこの私には、二人が何を言っているのかほとんど理解できませんでした。

 けれど、物静かな母上の悲痛な声も、普段は鷹揚な父上の切羽詰まった声もこれまでに聞いたことがありません。何かとんでもないことが起きているのだということだけは分かって、胸がざわつきました。

 それでも二人の間に飛び込んでいく勇気はなくて、私は布団にくるまりながら不安な時間をやり過ごしました。


 やがて、父上が出て行った気配がしました。静けさの中、母上のすすり泣く声が響きます。たまらず布団を抜け出して、私は母上のそばに寄り添いました。


「母上、どうしたのですか? どこか痛いところがあるのですか?」


 私が起きたことに驚いた母上は、綺麗な菫色の瞳をまんまるにして、やがて大粒の涙をこぼしながら私を抱きしめてくださいました。


「あああ……! ごめんなさい、ごめんなさい、スイガ……!」


 何を謝られているのか、私には分かりません。けれど母上の悲しみがひしひしと伝わってきて、私はぎゅうっと思い切り抱きしめ返しました。


 どれくらいそうしていたでしょうか。

 やがて母上は私をそっと離すと、涙に腫らした瞳を拭い――穏やかに微笑んでくれました。

 その笑顔に、私は心の奥がふっと温かくなるのを感じます。母上にはずっと笑っていてほしいから。私も笑顔を向けました。


「……スイガ。今日はあなたのやりたいことを全部やりましょうか。母と一緒に、何がしたい?」

「でも……母上は、今日はお仕事ではないのですか?」

「大丈夫ですよ。もう、何もすることはないのですから」


 母上は父上と同じようにお屋敷に勤めていましたが、私が熱を出したとき以外で、お休みをしてくれるのは初めてかもしれません。夕方には帰ってきてくださいますが、ハウンド様がいらっしゃったとき以外は、いつも一人でお留守番をしていました。

 だから母上の言葉にとても嬉しくなってしまって、父上と何やら言い争っていたことも、すっかり忘れてしまいました。


 ただただ、嬉しかったんです。 


 朝ごはんには一緒にパンケーキを作って、大好きな絵本を読んでいただきました。

 お昼ご飯を済ませたあとは、お外へ一緒に出かけました。近くの草むらでは、いつものように子どもたちが遊んでいます。


「……スイガ。せっかくだから、一緒に遊んできてはどうかしら」

「でも私は……」


 無魔力者ですから、と言おうとしたその瞬間、母上は子どもたちに向かって大きな声で呼びかけました。


「みんな! うちの子も遊びに入れてはくれないかしら?」


 声が届いたのでしょう。母上の顔を見て戸惑っていた子どもたちは、ひそひそと何やら囁き合っていましたが、すぐに手招きをしてくれました。


「いいよ! 一緒に遊ぼうぜ!」

「かくれんぼしよう!」


 その明るい声にびっくりしたのは私です。だって、断られると思ったのです。この国では無魔力者は馬鹿にされてしまいますから。

 それなのに彼らは私を笑顔で迎え入れてくれました。思わず母上を見上げると、母上は「ここで見ているわ」と言って切り株に腰かけ、にこにこと優しい顔で私たちを見守っています。


 ……線を引いてしまっていたのは、私の方だったようです。

 彼らは魔力のことなんて何一つ触れず、一緒に鬼決めをしたあと、かくれんぼが始まりました。


 私は見つけるのも隠れるのも得意でした。誰にも見つけてもらえなくて、自分から出て行ってしまったくらいです。

 夕方まで、汗だくになるまで夢中で遊びました。母上は飽きもせずに私たちを見守っていて――こんなに楽しい時間は、初めてだったかもしれません。

 

「明日も遊ぼうぜ!」

「約束だよ!」


 そう言って指切りを交わす彼らに、私は興奮のままに「うん!」と答えました。母上は少し複雑そうな顔をしていましたが、「遊んでくれてありがとうね」と言いながら、子どもたちに飴玉を手渡しました。


「楽しかった?」


 優しく問いかける母上に、私は大きく頷きます。きっかけをくれた母上には感謝の気持ちでいっぱいでした。


 心も体も充実感に満ち溢れながら、母上と一緒に夜ごはんの準備をしていた頃でしょうか。


 ふと、母上の表情が強張りました。まるで何かを感じ取ったかのように慌てて窓の外を窺い、「あぁ……!」と小さく呻くような声を上げて顔を覆います。


 私には、何が起こっているのか分かりません。同じように窓の外を覗くと、星空とは違う、きらきらと輝く光の球があちらこちらから空へと勢いよく昇っていく様子が見えました。

 綺麗だな、と純粋に思いました。


「母上、あれは何ですか?」


 振り返ると、母上の身体もぼんやりと光を帯び始めていました。しゃぼん玉のような光の粒が、母上の身体の内側から外へ、外へと浮かび上がっていきます。なんだろう、と思う間もなく、母上がぎゅっと私を抱きしめました。


「母上……?」

「スイガ、よく聞きなさい。あなたは、一人で生きていかねばなりません」

「どうしたのですか? どうして、そんなことを言うのですか?」

「ちゃんと愛してあげられなくてごめんなさい。あなたのことは、本当に大好きだったのよ。可愛い子。私の大事な、スイガ……」


 母上の膝が崩れ、床に落ちるように座り込みます。

 何が起こっているのかまるで理解できないでいる間にも、身体は光の泡へと姿を変え、輪郭が次第に失われていきます。訳も分からずにただ必死に、その光の泡を母上の身体に押し戻そうとしました。


 でも、止めることはできませんでした。

 母上は私の腕の中で消えていきました。


 


 そこから先のことは、もうほとんど覚えていません。

 夜だというのに真昼のように明るかった辺りも、いつの間にか再び暗闇に包まれていました。


 母上は、目の前で消えました。

 残されたのは、着ていた衣服だけ。私はただそれを抱きしめることしかできませんでした。


 何が起こったのか分かりません。

 誰も、私に教えてはくれませんでした。

 草むらには毎日子どもたちの声が溢れていたはずなのに、いつまでたっても聞こえてきません。


 気がつけば、いつの間にか部屋にはハウンド様が立っていました。

 息を切らし、言葉もなく、私の手をそっと引くと、家の外へと連れ出していきます。

 お屋敷へ向かう道中も人の気配はほとんどなく、ときおり嘆きの声を上げる人の姿がぽつぽつと見えるだけでした。


「ハウンド様。母上はどうして消えてしまったのでしょうか?」


 死という概念は、私にはありませんでした。

 だって母上は消えただけなのですから。死んだなんて、思えませんでした。


 でも、ハウンド様も何も教えてはくださいませんでした。

 何かを知っているはずなのに、私には何も教えてはくださいませんでした。

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