154 ミュゼ公国のお姫様
入り組んだ屋敷の廊下を抜け、突如として現れた螺旋階段を昇る。
その先には、重厚な鉄製の扉がそびえていた。こんな扱い、まるで囚人のようだ。
そもそもこの塔自体、屋敷の外からは目にしなかった。おそらく幻術か呪術の類だろうが、一人の公女の居室にしては、あまりにも厳重すぎるものだった。
「こんなところに……フレデリカ様が?」
僕の前に立つブゲン殿は、しぃと鼻先に指をあてた。
「その名を口にしてはいけません」
そう諭され、思わず口を閉ざす。
父上はシモン大公と戦時に関する話があるらしく、ここに案内されたのは僕一人だった。警備の兵の姿も見当たらない。ミュゼが得意とする結界でも張られているのだろうか。落ち着かずそわそわする僕を、ブゲン殿は目を細めながら見下ろしていた。
「中に入っていただくことは出来ませぬ。こちらから御姿を見ていただくだけとなります」
「そんな……仮にも僕は婚約者なんだろう? 挨拶すらさせてもらえないのか?」
「ええ、まだその時ではございませんので。御姿を拝見することすら特別なことなのですよ。あなただから、許すのです」
いくらミュゼの重鎮とはいえ、所詮は一介の魔導士。本来ならば王族に向けるべき態度ではない。
だが、その有無を言わさぬ圧に抗えず、僕は小さく頷いた。
ブゲン殿は満足げに微笑むと、扉に右手をかざした。
鈍色の表面がみるみるうちに透き通り、部屋の内部が浮かび上がってくる。
――そこに、彼女がいた。
部屋の片隅で、静かに本を読んでいる。
まるで世界に溶け込むような、儚げな佇まい。
食い入るように見つめてしまう、その瞬間、彼女が、ふとこちらを見上げた。
「――っ!」
思わず、一歩、後ずさる。
ブゲン殿が小さく笑っているのが分かったが、どうでもよかった。
――空色の瞳。
その瞳と交差した瞬間、 すべてが止まった。
息をすることさえ、忘れる。
鼓動だけが、不規則に鳴り響く。
まるで、心の奥に氷の刃を突き立てられたような―― 痛みを伴う衝撃。
ただ、見つめられただけなのに。
僕の世界のすべてを、飲み込まれたような気がした。
「……彼女が、」
フレデリカ。
心の中で、その名を呟く。
近づきたい。
声を聞きたい。
その瞳には、僕だけを映してほしい。
無意識に、手が伸びる。
彼女にも僕の姿が見えているのだろうか?
僕が彼女の婚約者だと知っているのだろうか?
――本当に彼女が、僕のものになるのだろうか?
「――残念ながら、あちら側からはこちらの様子は見えておりません。まあ、あの御方のことですから気配は感じ取っているでしょうが」
ブゲン殿が耳元で囁く。
ホッとすると同時に、焦燥が込み上げた。
彼女は、僕を見ていなかったのか?
それなのに、どうしてこんなにも心を掴まれる?
彼女とは正反対の位置には、図体の大きな黒づくめの男がいた。
「……あの男は何者なんですか?」
「ああ、番犬だとでも思っていただければ。ご安心ください、あの御方に手を触れるような真似はしませんから」
「…………」
それでも、あの男は彼女と同じ空間にいることを許されている。
……僕はこうして、盗み見ることしかできないのに。
つい、冷たい扉に縋りつくように身を寄せてしまう。
「どうして、彼女はこんな部屋に押し込められているのですか?」
窓ひとつない部屋に囚われ、彼女の存在は公にはされていない。
まるで鳥籠の中に閉じ込められているようだ。
当然湧きあがる疑問に、ブゲン殿は一瞬表情を曇らせながらも、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あの御方は特別なのです。膨大な魔力は人を惹きつけ、狂わせる。あの御方にその気はなくとも、誰も彼もがあの御方を手中に収めようとする。だからこうして――保護されているのです」
保護。なるほど、物は言いようだ。彼らは「彼女を守っているのだ」と言いたいのだろう。
……こんなの、ただの監禁に過ぎないのに。
「彼女は納得しているのですか? 受け入れて、この部屋に留まっているのだと?」
「あの御方はまだ八歳ですよ。生まれてから一度も外の世界を見たことがない。サンドリアへの恨みつらみを寝物語として聞かされ、絵本の代わりに魔法陣の仕組みを読み解き、親しくなった乳母はひと月で殺される。でも、それがおかしいことだとは思わない。だってあの御方は外の世界を知らないのですから」
あまりにも酷い境遇に耳を疑った。たったの八歳で、そんな過酷な運命を強いられているというのか……?
「……もしも大公が戦を始めれば、あの御方は戦場に駆り出されることになるでしょうな。そしてそれが正しいことなのかも分からぬまま、その能力を振るい、多くの人を死に誘うことになる。……哀れだとは思いませんか?」
哀れ。本当にそうだ。
あんなに幼くて可憐な少女に、そんな未来、背負わせていいはずがない。
いつの間にか背後に回っていたブゲン殿が、僕の両肩を掴み、耳元で滾々と囁き続ける。
自然と身体が震え、擦れるような声で彼に問いかけた。
「貴方は……彼女をどうにかしてあげたいと思わないのですか?」
「……私も所詮はミュゼに仕える身の上ですから、たいそれた真似は出来ないのですよ。妻子もいますから、ね」
言い訳じみた答えに、思わず憤りを覚える。
あなたは彼女の傍にいるのだから、救うことができるはずなのに。
それほどまでにシモンの力は強大だというのか?
……彼女を救うにはどうすればいい。
彼女を、この鳥籠から解き放つには――。
「……ミュゼの歴史も知っていますよね。忌まわしき、血筋の連鎖を。あの御方とて例外ではございません。男の兄弟を持たぬ以上、果たしてこの先どうなるか……」
ミュゼに伝わる忌まわしき慣習を思い出し、全身の血の気が引いていくようだった。
いや、彼女は僕の婚約者だ。そんなこと、起こり得るわけが無い。
……でももしも、もしもシモンがランヴェールを切り捨てたら?
僕らがいいように使われた後、残された彼女はどうなってしまう?
「そんなこと……許されない」
「本当に嘆かわしいことです……」
「そんな目に遭わされるくらいならば……」
……僕は今、何を考えている?
あまりにも恐ろしい考えが、頭の中を侵食していく。
ブゲン殿の言葉が、まるで呪詛のように頭の中に染み込んでいく。
「あの御方は、自分の呪われた運命を静かに受け入れている。……ですが、本当はずっと待っているのかもしれませんね。自分を救い出してくれる――そう、少女が夢に思い描く、 王子様のような存在を」
――塗りつぶされていく。
民や、家族や、ランヴェールの風景が。
たった一人の、今日見たばかりの、少女の顔で。
不意に、透明だった扉がみるみる鋼色へと変わっていく。彼女の姿が、どんどんと消えていく。
たまらず扉を叩こうとしたが、その手はブゲン殿に押し留められた。
「――なんだ、もう終えたのか」
背後からの声に肩を震わせ、咄嗟に振り返る。
そこにいたのは、シモン大公と父上だった。
階段を昇る音すら聞こえなかった。声を掛けられるまで、まるで気付かなかった。
それほどまでに、あの少女に心を絡め取られていた。
「申し訳ございません。お嬢様はお疲れのご様子でしたので、本日はここまでとさせていただければと……」
「むぅ、それは残念だ。ミュゼの至宝と呼ばれし娘。ぜひともお目にかかりたかったのだがな」
心底残念そうに顎髭を撫でる父上を見て、言い知れぬ不快感が全身を駆け巡る。
あなたは見ては駄目だ。
あなたのように、だれかれ構わずに欲望を吐き出す男が目にしていいものではない。
「ことを為せばいつでも会えよう。デュオ殿と婚儀を結ぶことになるのですから」
「左様でしたな。して、ジュリア嬢の状況はあまり芳しくないと聞きましたが……」
「フォウの小娘にしてやられているようでしてな……。まぁ、あれは保険のようなもの。本命は我が至宝ですから……」
このままではフレデリカが利用されてしまう。
あの純粋で無垢な瞳が、血に塗れてしまう。
そしてあのシモンの手にかかって――。
駄目だ。絶対にそれだけは駄目だ。
フレデリカは、誰も穢してはならない。
二人の大人は、血塗られた未来を語り合う。
ブゲン殿は冷ややかな目でそれを眺めていたが、ふと僕に目を向けると、口角を微かに吊り上げた。




