146 セーブ不能な分岐点
「お話がありますの」
教室で取り巻き令嬢たちと談笑していた俺の元に、単身でジュリアが現れた。
手駒が少なくなってきていることに焦りを覚えているのか、元々青白い顔がさらに悪く見える。
……好きな女にこんな顔をさせたいわけじゃないんだがな。
目的のためには仕方のないこととはいえ、やるせない気持ちが胸に残る。俺は彼女の誘いに、二つ返事で応じた。
そして夕刻。通されたのは、まさかのジュリアの部屋だった。
部屋のあちこちに水彩画が飾られ、その右下にはどれもジュリアのサインが記されている。あまりにも緻密で、ものによっては風景写真を切り出したのかと見間違うほどだ。
部屋に足を踏み入れたはいいものの目を奪われたまま立ち尽くしていると、こほん、とジュリアが控えめに咳払いをした。
「そちらにどうぞ」
シンプルな椅子を示す彼女の言葉に、俺はようやく我に返り、腰を下ろした。
「いいのか? こんな得体のしれない奴を部屋に引き入れて」
軽口を叩きながら、俺は爺さんから買い取ったブレスレット型の魔道具を起動させた。周囲に盗聴の類の術式がないことを確認し、再び停止させる。
「それは、なんですの?」
周囲に人がいない安心感からか、ジュリアは興味を隠そうともせず、いつもの澄ました顔を少し崩して問いかけてきた。「シシルっていう魔導士さんに作ってもらったんだよ」と俺が答えると、彼女の顔がわずかに曇る。「シシルの……」と呟く声には、どこか嫌悪が滲んでいた。
「知ってんのか?」
「ええ、とてもよく。でも直接お会いしたことはないわ。……お父様の口からよく聞く名前なの」
「お父様」と口にするたびに、ジュリアの美しい顔に影が差す。どうやら彼女にとってあまり良い影響を与える存在ではないらしい。頼りなさげに視線をうろつかせ、悟らせまいとするように目を閉じる仕草が、彼女の心情を物語っていた。
「……この絵は全部お前が描いたのか?」
「趣味なの。……絵を描いていると、現実を忘れられるのよ」
その気持ちは分かる気がする。俺も現実逃避の一環にプログラムコードをよく書いたものだ。
「……それで、俺に何の話だ?」
もう少し世間話に花を咲かせたいところだが、ジュリアの顔色はどんどん悪くなっていく。あまり長居しない方が良さそうだと判断し、促すと、彼女は意を決したように口を開いた。
「王妃選定の儀。わたくしに勝たせて欲しいの」
「断る」
即答されると思わなかったのか、ジュリアは驚いたように目を見開く。
……彼女の頼みなら何でも聞いてやりたい気持ちはあるが、こればかりは譲れなかった。
「どうして。だって貴方は……この世界の人ではないのでしょう?」
「それなんだが、親でもないのに、どうしてお前は気付いたんだ?」
「……魂の輪郭が違うもの。魂もいわばマナの一部。魔力がなくても、魂というマナは必ず持ち合わせているのよ……」
なるほど、爺さんが俺の正体に気付いたのもそういう仕組みだったのか。それならば入れ替わった直後にジュリアに勘付かれたことも腑に落ちる。
「なるほどな。なんでかは分からないけど、俺はロベリアの中にいたんだよ。あいつは悪霊呼ばわりしてきやがったけどな」
肩を竦めておどけてみせると――ジュリアの口元が微かに綻んだ。なんだ、お前も俺のことを悪霊だと思っているのか? どいつもこいつも失礼な奴だな。
ジュリアはしばらく俺をじっと見つめていたが、やがて悲しそうに視線を伏せる。
「わたくしのせいよね、ロベリア様が消えてしまったのは……」
漏らしたその言葉に、俺は即座に首を振った。
「あいつの弱さのせいだ。お前のせいじゃない。呪術の対策はやろうと思えばあいつにだって出来たんだから」
「そう……ならどうして王妃に拘るの? 元のロベリア様もこの世界にいないというのであれば、王妃になる必要はないじゃない」
「王妃に拘っているつもりはねぇよ。……お前を王妃にしたくねぇだけだ」
「それこそ、どうして……?」
「お前が好きだから。それは理由にならねぇか?」
ジュリアは息を呑み、紫水晶のような瞳をかすかに揺らした。その震える瞳を捉え、俺はただ真っ直ぐに見つめる。俺の気持ちが嘘偽りのないものだと彼女に伝えるために。
「……嘘よ。そうやってわたくしを誑かして、酷い人だわ」
「嘘なんかじゃねぇよ。もちろん見た目もドストライクだけど、お前のその思慮深さと芯の強さも気に入ってるんだ。……なぁ、教えてくれよ。別にお前はカリオスのことが好きなわけじゃないんだろ? どうして王妃になる必要があるんだ? 国のためか? ……父親のためか?」
彼女のこれまでの行動を振り返れば、確かにカリオスを立てるようなものばかりだったが、そこに深い情愛までは感じられなかった。「ミュゼのため」と口にすることも多かったが、それが全てだとも思えない。
俺の問いかけに、ジュリアは沈痛な表情を浮かべる。考えなしの推測ではあったが「……妹のためか?」とさらに問いかけると、彼女の目が驚きに大きく見開かれた。
「ど、どうして貴方があの子のことを知っているの……?!」
「さっき話したシシルが漏らしたんだよ。……やっぱり、妹がいるんだな」
爺さんとの交渉の後、俺はヘインズと共にミュゼについて調べ直していた。
ミュゼ公国は大公であるシモンと娘のジュリアだけ――親一人子一人の家族構成だ。公式記録に弟妹の存在なんてないし、近親婚を繰り返してきた家系であるというのに、その血筋を続けるための後継も少ない。
それゆえ慣習を捨てて、サンドリアの王妃になる道を選んだのかと推測していたが……。
シシルの名を再び口にすると、ジュリアは忌々しそうに顔を歪めた。その表情はこれまでで一番感情を露わにしているかもしれない。
あの爺さんも人畜無害そうな顔をしていたが実際にはなかなかの性悪だった。ミュゼにとって魔道具師シシルの存在は相当な地雷のようだし、何か深い因縁でもあるのかもしれない。
「……あの子にこれ以上辛い思いをさせたくないの。だから、わたくしが王妃になる必要があるのよ」
「……悪いが全く意味が分からん。お前が王妃になることで、その娘が救われるとでもいうのか?」
「少なくとも、今以上に過酷な運命を背負うことは無いはずなのよ……」
ジュリアは悲しみとも怒りともつかない感情を含ませたため息を吐き、椅子から立ち上がる。そして視線を窓の外へ向け「あの子の世界には、こんな小さな窓すらないの」とぽつりと呟いた。
「生まれてからずっと、閉じ込められているの。それだけじゃない。わたくしが王妃になれなかったら……サンドリアを内部から瓦解することが出来なかったら……多くの命が失われることになるのよ」
虚ろな顔で語る彼女の言葉には、どこか限界を感じさせる響きがあった。
選択肢を間違えればすぐさまこの部屋から追い出されそうで、彼女の口から漏れ出る断片的な情報を必死に繋ぎ合わせる。
――つまり、ミュゼにはもう一人公女がいる。
その娘はなぜか閉じ込められていて、ジュリアが王妃になろうとするのは、ただの野心ではなくその娘のためらしい。
「内部から瓦解」とは、サンドリアへの反逆を意味しているのか?
「多くの命が失われる」というのは、もし彼女の計画が失敗すれば戦乱が起きることを指しているのだろうか?
……話が想像以上に大きくなってきやがった。
背筋を冷たい汗が伝い落ちるのを感じながら、俺は表情に動揺を出さないよう努める。
「ねぇ、だからお願いよ。わたくしを王妃にさせてほしいの。この世界のためだと思って、お願いよ」
彼女の懇願は弱々しくこれまでの彼女の気高さを感じさせない。こんなにも必死に頼みこんでくる彼女の姿が、哀れにすら思える。
ジュリアを王妃にさせることは簡単だ。俺が選定の儀から降りればいい。それどころかロベリア派としてジュリアを推せば、支持は一気に彼女へと流れるだろう。
――だが、駄目だ。
彼女を王妃にしてはいけない気がした。
それは彼女のためにも、俺自身のためにも。
「……王妃になったら、お前は幸せになるのか?」
「っ……」
「ならないだろ? きっとその先に待ってるのも地獄のはずだ。それならお前は、いつになったら幸せになれるんだ?」
俺の問いかけに、ジュリアは答えない。いや、答えられないのだろう。自分の幸せなんて考えたこともないとでも言いたげに、彼女の思考が止まっているのが分かった。
「わたくしの……幸せ……?」
「そう、幸せ。……なぁ、少しばかり、一緒に考えてみないか?」
これまでジュリアと腹を割って話す機会なんてなかった。
彼女はライバルであり、敵対する立場にいる存在だったから。
だが、卒業を控えた今、こうして話せる時間はもう二度と訪れないかもしれない。
今この時間しか、俺たちには残されていなかった。