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133 覚醒

 少女は三日三晩寝続けた。

 その間にハウンドはブゲンの住まいに足を向けたが、そこにいたのは涙が枯れ果てたスイガの姿だけだった。


「母上が……しゃぼんだまのようになって消えてしまったんです……」


 スイガの震える声に、ハウンドは言葉を失った。幼い子どもが何も分からないまま孤独に過ごしたであろう夜を思うと、シモンに対する怒りに身が震えた。


 スイガが握りしめていたのは母親の衣服だった。こんな幼子が一人で生きていけるはずもない。その手をそっと引きながら、ハウンドは静かに語りかけた。


「いいか、スイガ。よく聞け。お前の父親も母親も消えちまった。……お前はもう、一人で生きていくしかねぇんだ」

「ひとりで……?」

 

 潤んだ目で見上げてくるスイガに、ハウンドは目を伏せながら続けた。

 

「そうだ。だから生き抜くすべを身に着けるんだ。……俺にもやらなきゃならねぇことがあるからお前の傍にずっといてやることはできねぇ。この屋敷にはお前と同じような連中が他にもいる。協力しあって生きていけ」

 

 自分でも過酷なことを言っているとは分かっていた。だが、この状況ではそれ以外に道はない。庇護を失ったスイガに、安易な慰めを与えるわけにはいかなかった。


 スイガは呆然と立ち尽くしていたが、やがて小さく頷いた。

「どうして母上は消えてしまったのですか?」というスイガの問いには――答えられなかった。

 


 屋敷には魔力を持たぬがゆえに生き延びた騎士たちが集められた。

 シモンは残された住民たちに「サンドリアによる卑劣な術だ」と説明し、責任を押し付けた。無魔力者として生き残った者たちは、奴隷や自己肯定感の低い者が多い。シモンが「お前たちの力が必要だ」と甘言を投げかけると、彼らはサンドリアへの見当違いな怒りを胸に、ただ黙って従った。


「アレはどうしている?」

「……フレデリカなら目を覚ました。だが、食事を取ろうとしない」

「無理やりにでも口に捻じ込んでおけ。あの娘を生かすことがお前の役目だろう」


 そう命じられたハウンドは、フレデリカの警護を任された。だが、密偵や暗殺者の姿も見えなくなった今、彼の任務は実質的に世話係といえよう。定期的に処分される必要もなくなったため専属の侍女もつけられたが、フレデリカは誰に対しても心を閉ざした。


「……飯は食え」


 起きてから丸二日が経っても、フレデリカは何も口にしていなかった。困り果てた侍女は泣きついてくるし、ハウンド自身もシモンに良いように使われている現状に気は滅入るばかりだ。食事くらいは、勝手にやって欲しかった。


「……お腹が空かないの」

「そんなわけがあるか。人間は食わなきゃ飢えて死ぬんだ」

「今、わたくしの中に何が満ちているか分からないの? 用が無いならあっちへ行って」


 肝心のフレデリカにまで冷たくあしらわれれば、ハウンドは重たい溜息を吐いてそうシモンに報告するしかなかった。


「食事もいらぬ体か。もはや人間とも呼べんな。それならばいい。好きにさせておけ」


 嘲笑交じりに言い放ったこの「ありがたい」言葉に、ハウンドの苛立ちはさらに募るばかりだった。

 

 

 フレデリカは部屋に放し飼いにされた動物たちとの交流に没頭し、ハウンドや侍女に対しては一切期待しないような振る舞いを続けた。無言のまま距離を置こうとするその姿に、ハウンドはどうしていいのか分からなかった。


 今朝もまた、フレデリカはネズミのような小動物に自らの血を与えていた。そのネズミはたちまち魔獣へと変貌を遂げたが、凶暴性を見せるどころか、乳を与えられた赤子のように彼女に頭を擦りつけて甘えている。その光景はどこか目を逸らしたくなる異様な雰囲気を纏っていた。


「ハウンド様、私には荷が重すぎます。どうか他の者と代えてください」

「悪いが人手が足りねぇんだ。掃除だけでいい。他のことは気にするな。給金は倍出すから、頼む」


 怯えた顔でそう懇願する侍女も元は奴隷だったと聞いていた。金をちらつかせれば渋々ながらも頷いたので、話はそれで終わらせた。


 時折シモンがフレデリカの様子を見に来るものの、魔力の定着具合を確認するとすぐに部屋を出て行く。フレデリカも憎々し気に睨みつけるだけで一言も口を開かない。これが親子の関係なのかと、ブゲンとスイガの間にあった温かさを思い返しながら、ハウンドはその対照的な冷たさに戸惑うだけだった。

 

 それでも、任された警護という役割に従い、ただ黙々と己の仕事を全うするしかなかった。

 そもそもハウンドは知らなかったのだ。膨大な魔力を手にしたとはいえ、フレデリカがどんな力を使うのかを。


 

 その日も、いつもと変わらない日になるはずだった。

 早朝、いつものようにフレデリカの部屋を訪れたハウンドは、中から漏れ聞こえてくる言い争うような声を耳にして、慌てて扉を開け放った。


「――出て行って! 今すぐ出ていきなさい!」

「お嬢様、落ち着いてください……!」

 

 聞いたことのないほど荒れたフレデリカの声に、ハウンドが「どうした」と問う前に、侍女が目を潤ませながら駆け寄ってきた。

 フレデリカの様子が明らかにおかしい。興奮して荒く息を吐く彼女の瞳はいつものような空を思わせる青ではなく、父親よりもより色濃い紫色にぎらぎらと輝かせていた。


「どうした、何があった?」

「お部屋を掃除しようとしただけなのですが……お嬢様が急に、興奮されて……!」

「……こんな時間に掃除だと?」


 そもそも侍女がフレデリカの部屋に立ち入れるのは、ハウンドが中から開けてやるからだ。顔を青くした侍女に向けてハウンドが無言で腕を伸ばそうとすると、フレデリカが再度叫んだ。


「もううんざりよ……! "みんな、今すぐここから出て行って!"」


 声が放たれると同時に、フレデリカの声に違和感を覚える間もなく空気が揺らぐような圧迫感が部屋を満たした。

 侍女は「いやっ」と小さく呟くや否や、突如として部屋の外へ飛び出していく。逃がすまいと慌ててハウンドが腕を伸ばしたが、侍女はそれをするりとかわし、そして――螺旋階段を下りるでもなく、まるで理性を失ったかのように吹き抜けの柵を乗り越える。


 ハウンドの視界から侍女の後ろ姿が消えたと思った次の瞬間、螺旋状に響き渡る鈍い音が静寂を切り裂いた。


 ハウンドは後を追い、柵から身を乗り出す。――目に飛び込んできたのは、四肢を不自然な方向に投げ出し、血だまりの中に横たわる侍女の姿だった。その光景に思わず息を呑む。咄嗟に逃げたとはいえ、この行動は明らかに尋常ではない。


 振り返ると、フレデリカが口元を押さえ青ざめた顔で立ち尽くしていた。瞳には恐怖と絶望が浮かび、震える声で何かを呟いている。


「……まさかと思うが、あの女に何かやったのはお前なのか……?」

「ちがう……! わたくしは、あの人がわたくしをどこかへ連れ出そうとしたから……!」


 否定の言葉を重ねながら、フレデリカは必死に首を振る。その背後――空間が不意に揺らぎ、暗紫の波紋のように歪んだ。次の瞬間、逃げようとした彼女の細い体を抱き寄せたのはシモンだった。


「……魔力の昂りを感知したと思えば、想定以上に早く力を顕在させたようだな?」


 耳元で低く囁くシモンに、フレデリカは震えながら何度も首を振る。だが、ハウンドの視界には、階下で横たわる侍女の死体がなおも鮮烈に焼き付いていた。


「お前が使ったのは、人の意思を思うがままに操ることができる『呪詠律』という呪術だ。その力があれば、シシルの魔道具など恐れるに足らん……! ようやくミュゼの悲願を果たせる時が来たようだな!」


 冷たい声に宿る確信がハウンドの耳を打つ。シモンは満足げに笑みを浮かべると、フレデリカの耳元から離れ、彼女をその場に残したまま部屋を後にした。


 フレデリカは膝を折り、床にへたり込んでしまった。その青ざめた顔には、恐怖と混乱が入り混じっているように見える。

 彼女の小さな体を包み込むように、すっかり魔獣と化した獣たちが寄り添い、慰めるように体を擦り寄せていた。


 ――戦が始まる――。


 ブゲンが残した言葉が頭をよぎる。

 その予兆が今、確実に形を成していることをハウンドは痛感せざるを得なかった。


 戦火の匂いが、既に彼の鼻先にまで届いていた。

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