130 転機
ハウンドがミュゼに訪れてからというもの穏やかな気候が続いていたが、最近は朝晩にかすかに冷えを感じるようになり、冬の足音が忍び寄っていることを知らせていた。
フレデリカは相変わらず読書に勤しんでいる――と思いきや、最近はブゲンから与えられた小動物に心を奪われているようだった。
部屋の中を自由に動き回るそれらを見て、ハウンドはこの部屋の広さに密かに感謝する。これほど広い部屋でなければ耐えられなかったかもしれない。彼は動物があまり得意ではなかったから。
鳥や猫といったものならばまだ許せた。しかし、あれはどう見ても子熊ではないのか。大きくなったら一体どうするつもりなのか。さらに、フレデリカが戯れにくれてやっているのは、どう見ても彼女自身の血液だ。
「ちょっとした実験よ」と楽しげに語る彼女を見ていると異を唱える気力も失せ、ハウンドは深く考えるのをやめた。部屋にわずかな変化が生まれ、少女の退屈が少しでも和らぐのならばそれも悪くない。……そう自分を納得させるしかなかった。
そのいつもと変わらぬ一日を終えようとする空気を裂いたのは、平時ならば穏やかさを崩さないブゲンの荒々しい足音だった。
彼が血相を変えてフレデリカの部屋に飛び込んでくる様子を見て、驚いたのはハウンドだ。これまで紳士的な態度を崩さなかったブゲンが、息を切らし、狼狽する姿を晒していたのだから。
「――お嬢様。情勢が大きく変わりました。……姉君が王妃選定の儀に敗れたと、先ほど伝令が届きました」
低く響いたブゲンの声に、フレデリカは手にしていた本を床に落とした。彼女の色白な肌がみるみる青ざめていく。八つの娘とは思えぬ冷静さを保っていた少女が、これほどまでに動揺する姿を見るのは初めてのことだった。
フレデリカの肩が震える様子を目にして、ハウンドも事態の深刻さを悟る。全容は分からずとも、尋常ではない事態がさし迫っていることだけは間違いなかった。
「ねえさまは……ねえさまはどうされているの?」
「学習院を引き上げてこちらにお戻りになられているところです。じきに……戦が、始まります」
フレデリカは瞳を閉じ、沈痛な面持ちで言葉を飲み込んだ。その華奢な肩がかすかに震えるのを見てもブゲンには気遣う余裕がないのか、苛立たしげに頭を掻きむしっている。
戦――その単語にハウンドも眉をひそめる。
「どういうことだ? 戦って……どこが攻め入ってくるってんだ?」
「サンドリアだ。フォウ公国が何やら奇妙な動きを見せているが――どちらにせよ、戦になるのは避けられない」
「勝てるのか?」
「勝てるわけがない! 騎士だけであればどうとでもなるが、今のサンドリアにはシシルがついている。あやつの魔道具に対抗できる手段がこちらにはほとんど無いのだ」
ブゲンから教えられた膨大な知識の中にはこの大陸全体の情勢も含まれていた。王妃選定の儀とやらでミュゼの公女ジュリアが王妃に選ばれるのはほぼ確定事項で、これによりサンドリアとミュゼの結びつきがさらに強固になると聞いていた。
しかし、その確定事項が覆っただけでなく、戦争にまで発展するとは一体どういうことなのか。ハウンドは目の前で繰り広げられるやり取りに困惑しながらも、その場の緊張感に飲み込まれるだけだった。
「お嬢様、本来であればもう少し猶予があったはずなのですが、もはや残された時間はありません。私と共に今すぐこの国を発ちましょう」
思いもよらぬ提案であったがブゲンの声には決意が込められていた。彼はフレデリカの腕を掴みその場から連れ出そうとする。突然の行動に驚いたフレデリカは、震えながら小さく首を振った。
「無理よ、あの人からは逃げられない」
「未来は変わりつつある、今ならばまだ間に合うのです!」
ブゲンが焦燥を隠そうともせず強く言葉を重ねる。しかし、フレデリカは怯えた表情を浮かべながらも頑なに拒否を示した。
そんな二人の激しいやり取りが、ハウンドの判断を狂わせた。何をすべきか考えがまとまらないうちに、フレデリカが突然身を硬直させ、怯えたように目を見開いた。
次の瞬間、部屋の空間が不自然に歪み始める。
ねじれるように揺らめく空間の中心が一瞬輝き、突如として銀髪の男が姿を現した。
「――やはり、お前も私を裏切るのか」
「大公……!」
その声と共に現れたのは、紫の輝きを宿した瞳の男――このミュゼの大公であるシモンだった。
彼の姿を目にしたブゲンは即座に反応し、指を動かして印を結ぼうとする。しかし、それを許さぬようにシモンが手を突き出した瞬間、数本の紫色の剣が空中に浮かび上がり疾風のごとく放たれる。その全てがブゲンの腹を容赦なく貫き、鈍い音と共に血が飛び散った。
小さな悲鳴がフレデリカの口から漏れる。その声がハウンドの耳を掠めたが、彼はただ呆然とその光景を見つめていた。
ブゲンは膝を突き、苦痛に顔を歪めながらもなおも印を結ぼうとする。シモンは紫の瞳に静かな怒りを湛えながらその動きを冷たく見下ろしていた。そして再び、空中に紫色の剣が現れる。
「……っ!」
その場に立ち尽くしていたハウンドは咄嗟に二人の間に割り込もうと動き出す。
しかし、その前にブゲンを庇うように前に立ったのは――フレデリカだった。
「……なんのつもりだ?」
低く咎めるようなシモンの声に、フレデリカは一瞬身を竦める。それでも潤んだ大きな瞳でシモンを見上げ、震えながらもその場を動こうとはしなかった。口を開きかけて何かを言おうとするが、ぎゅっと唇を引き結ぶ。シモンは不愉快そうに眉をひそめ、血を流し続けるブゲンを一瞥した。
「……今死なせては無駄になるか……」
そう呟くと、シモンはフレデリカ越しにブゲンを見つめた。その目に映るのは冷たい蔑みだ。
「どうせあと数刻もすれば失われる命よ。だが、どうしてそこまでこの娘に入れ込むのか、まるで理解できんな。妻子を連れて即刻この国を出ていれば良かったものを……」
シモンは吐き捨てるように言葉を零すと、今度は何も出来ずに立ち竦むハウンドを一瞥して鼻で笑う。そしてそのままフレデリカの腕を掴み上げた。
「お嬢様……!」
「ブゲン、この男の言うとおりよ。早く、一刻も早くこの地から逃げて……!」
フレデリカは必死に声を振り絞る。
ブゲンは痛みに顔を歪めながらも少女に手を伸ばしたが、シモンが低く呪文を唱えると、二人の姿は瞬く間に足元の床へと飲み込まれていった。