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129 解紋

 あくる日から、ハウンドの住まいは大公家の屋敷の一室となった。少女――フレデリカの小塔に続く廊下にほど近い小さな部屋だったが、必要最低限の家具が整えられたその空間は、これまでの生活を思えば十分だった。


「自分を何から守るのか」とフレデリカは言っていたが、なるほど、確かに平穏すぎるほど変化のない日々が続いていた。

 基本的には早朝に彼女の部屋に入れてもらい、彼女が本を読む姿を見守るだけの毎日だ。もし朝昼晩の食事がなければ時間の感覚すら失っていただろう。この部屋には窓すらなく、外界との繋がりを完全に断たれていた。


「お前……退屈じゃないのか?」

「退屈よ。でも仕方ないわ。わたくしは外に出てはいけないのだもの」

「どうしてだ? お前くらいの年なら外で遊びまわるもんじゃないのか?」

「あなたはどうだったの?」


 そう問い返され、ハウンドは返す言葉を失った。自分がフレデリカと同じ年頃だった頃を思い出せば、暗い鉱山の中で採掘を続ける日々しかなかった。奴隷として生きてきた自分に今の姿を見せたらさぞかし驚くことだろう。

 体がくたくたになるほどの肉体労働だったが、今のように部屋に閉じこもり本を読むだけの生活とどちらが良いかと問われれば、答えを出すのは難しい話だった。


「……今はこうして話し相手がいるもの。前に比べればずっとマシよ」

「そーかい……」

「暇なら、あなたも本を読む?」


 差し出されたのは大陸史の本だった。彼女がずいぶん難しそうな本を読んでいることに驚いたが、魔術に関する内容よりはまだ興味を持てそうだ。用意された椅子に腰を下ろし、ハウンドも黙々と本を読み始めた。

 

 本を読み、時折部屋の片隅で腕立て伏せや筋力トレーニングに励み、腹が減った頃にメイドが持ってきた食事を取る。

 部屋には二つのテーブルが用意されているため、彼女と食事を共にすることはない。フレデリカから話しかけられることもほとんどなく、同じ空間にいながらも心を通わせることのない日々が続いた。それでも、彼女が明確に線を引いているこの距離感を無理に詰めようという気にはならなかった。むしろ、その適度な隔たりが、互いの平穏を保つために必要なもののようにすら思えた。

 

「――なんだ、退屈そうだな」


 そんな言葉とともに部屋に現れるのは、ブゲンだ。彼はフレデリカの様子を見るために毎日一度はこの部屋を訪れていた。一方的に外の世界の出来事を語りかける彼に、フレデリカは表情をほとんど変えない。それでも、その瞳には微かな輝きが宿っているように見える。

 ブゲンは毎日複数の本を手に部屋を訪れ、それらは次々とフレデリカの手に渡り、部屋の隅には未読の本がうず高く積まれていった。


「退屈に決まってんだろうが。身体が鈍っちまう」

「護衛とはそういうものだ。何も変わりは無いか?」

「昨日の夜、俺の部屋にメイドが入り込んできたから、殺した」

「ほう。夜這いとは男冥利に尽きるではないか」


 昨夜、ハウンドはドアが開く音で即座に目を覚ました。暗闇の中、部屋に入り込んできたのはメイド服を纏った女だった。

 彼女は静かにハウンドのベッドに近づき、その上に跨がると、耳元で何かを囁いた。だが、ハウンドは無言のままに女の首を掴み上げ、女は驚愕の表情を浮かべたまま、泡を吹きそのうちに息絶えた。

 

 死体は窓の外に放り投げたが、翌朝には片付けられていたからこの屋敷では良くあることなのだろう。

 女の目的は分からなかったが、一連の出来事をブゲンに報告すると、彼は愉快そうに口角を歪めた。


「恐らくはお前に呪術をかけ、お嬢様に関する情報を引き出そうとしたのだろう。相手が悪かったな。お前には色仕掛けも通じぬようだ」

「知るか、興味ねぇ。……それにしても、ここじゃこんなことが頻繁にあるのか?」

「一時期は私にも熱心に送り込まれたものだが、今では諦めたらしいな。だが、お前のような新参には興味が集まるものだ」

「……どこの手の者だ?」

「さぁな。表向きとはいえ、サンドリアに迎合する姿勢を見せる大公に反発する者は多いし、他国の間者が紛れ込んでいる可能性もある。敵を探る暇があるなら一人でも多く始末する方が合理的よ」


 物騒な会話が飛び交う中でもフレデリカは表情を変えなかった。しかし、彼女の瞳がふとハウンドの左手に止まる。その視線の先にあるのは――未だに刻まれたままの奴隷紋だった。普段はグローブで隠しているが、昨夜の女が吐いた唾液で汚れてしまい、今日は仕方なく外していたのだ。


「それ、なぁに?」

「あん? ……見せもんじゃねぇんだよ。見るな」

「お前、それがお嬢様への口の利き方か。……これは奴隷紋と呼ばれるものです。他国ではわざわざ紋を刻み奴隷であることを知らしめるのですよ。この紋を使えば位置を特定されるだけでなく、術式によっては命を奪うことも可能です」


 頭を叩いてきたブゲンが余計な説明を始めるのを聞き、ハウンドは「そんなことまで言わなくていいだろう」と内心で毒づいた。フレデリカは特に興味を示すでもなく、ただ「ふぅん」とつまらなそうに相槌を打つだけだったが、彼女はおもむろにハウンドの手を取った。


「これが残ってても平気なの?」

「別に……なんともない。見苦しいから普段は隠しているだけだ。お前もあんまり触るな。綺麗なもんじゃない」

「そうね、とても雑で醜い術式だわ」


 フレデリカはそう呟くと、小さな頭をハウンドの大きな手の甲にそっと寄せた。「おい」と咎める彼の声を無視して唇を肌すれすれまで近づける。そして、何を思ったのかすぅと大きく息を吸い込むと、奴隷紋の複雑な模様がばらばらと崩れ、信じられないことに彼女の口の中へと吸い込まれていくではないか。


 ハウンドは目を瞬かせ思わず隣にいるブゲンを見やる。ブゲンは興味深そうにその光景をじっと見守るだけで、止める気配すら見せない。


 気づけば、手の甲に刻まれていた奴隷紋は完全に消え去っていた。後に残ったのは、乾燥した己の肌だけだ。


「さすがはお嬢様でございます」

「おいしくなかったわ。お菓子を持ってきてちょうだい」

「急ぎ手配いたします」


 ブゲンはそう告げると、迷うことなく部屋を後にする。その場に残されたハウンドは呆然と手の甲を見つめるばかりだった。


「お前……何者なんだ?」


 感謝の言葉よりも先に疑問が口をついたのは、畏怖に近い感情に突き動かされたからだ。

 魔術の知識が乏しいハウンドですら、今目の前で起きた出来事が常識を逸脱していることは理解できた。このような力を持つ者がいたら奴隷という枠組みそのものが無意味になるのではないか――そんな思いが、脳裏をかすめる。


「いまさらそんな質問するの? ……わたくしは、ただのフレデリカよ」


 どうしてこの少女が窓もない部屋に閉じ込められているのか、ハウンドには理解できなかった。

 だが、その能力の片鱗を目の当たりにして初めて、自分は何かとんでもない存在に関わってしまったのではないか――そんな予感が胸に重くのしかかるのだった。

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