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128 命名

 少女は突然の来訪者に驚いた様子も見せず、感情を読ませない空色の瞳でただ静かに男を見つめていた。その様子に、ブゲンは苦笑を浮かべながらも深々と頭を下げる。

 先ほど大公に見せた慇懃無礼な態度とはまるで別人のような慈愛に満ちた表情を浮かべ、そんな一面を見せる彼に男は密かに驚いた。


「お嬢様の護衛となる男を連れてまいりました。見た目はともかく、きっとお役に立てるかと思います」


 勝手に話を進めるブゲンに男は非難の視線を送ろうとした。だが、それよりも早く少女の瞳が男を真正面に捉える。その警戒心のない無垢な瞳は、思わずたじろぎそうになるほどに純粋で美しかった。


「わたくしの、護衛? この部屋から出たことも無いわたくしを、一体何から守ろうというの?」

「多くのことからです。……この者は今のところ『イヌ』と呼ばれていますが、どうぞ名前をくれてやってください」

「イヌ? ……変なの。あなたは人間なのにね」


 耳に心地よい可憐な声に、男は居たたまれなさを感じた。自分のような得体のしれぬ男が、この美しい少女の前に立っていること自体が不釣り合いに思えたからだ。


 突然名付けを求められた少女は戸惑う様子も見せず、人差し指を顎に当てて「そうね……」と小さく呟く。

 

「……ハウンド、なんてどうかしら? ふふ、イヌって意味だけどね」

「よろしいかと。……おい、名前を頂いたのだ。感謝の言葉と挨拶くらいしないか」


 ブゲンに叱責され、男はようやく我に返る。ハウンド? それが自分の新しい名前なのか? 戸惑い硬直する男に、ブゲンは容赦なく頭を叩き「しゃっきりせい」と叱りつけてくる。


「よく聞け。お嬢様からお名前を頂いた以上、これからお前は『ハウンド』だ。そして、明日からここで生活をすることになる」

「はぁ? 聞いてねぇぞ、そんな話は!」


 なぜ自分がこのような場所で暮らさなければならないのか――。場の空気を弁える余裕もなく声を荒げると、ブゲンはそれをあっさりと受け流し、次の瞬間、ハウンドの身体は宙を舞い、床に叩きつけられていた。

 

「……申し訳ございません。この通り口の悪さだけは矯正しきれず、お嬢様をご不快にさせることがあるかもしれません」

「元気があっていいんじゃない? ……あなたもわたくしなんかに付き合わされて、可哀そうにね」


 心からの憐みを含んだ少女の瞳がハウンドに注がれる。床に転がったまま動けない彼を、ブゲンが無理やり引き起こした。


「それでは、明日また参ります」


 そう言い残して、ブゲンはハウンドを引きずるようにして部屋を出る。

 背後では少女が小さく手を振っていたが、部屋を出た瞬間に扉が目の前に現れ、彼女の姿を完全に隠してしまった。


 


 無言で屋敷を後にするブゲンの背を追いながら、ハウンドは先ほどまでいた場所を振り返った。

 しかし、少女がいたはずの離れの塔はどこにも見当たらない。先ほどの出来事がまるで夢現のようで、混乱は募るばかりだ。


 ついに人気のない場所に差しかかったところで、ハウンドはブゲンの胸倉を掴み上げた。

 

「――おい、どういうことだ。一からちゃんと説明しろ!」

「なんだ。逃亡奴隷風情が随分と偉くなったものだな」

「っんだと、この野郎……!」

「冗談だ、そんな顔をするな」


 その一言に、胸倉を掴んでいたハウンドの手が一瞬緩む。「奴隷」という言葉を聞いて、薄れかけていた自分の立場を思い出したからだ。

 そうだ、この男には世話になった。文句を言うのは筋違いだと分かっている。ただ、何の相談もなく話を進められたことへの苛立ちは消えない。


「お前にしか頼めぬことだ。少しでも私に恩を感じているなら、従ってくれないか?」

「だから、何の話か説明しろと言ってるんだ。あの娘は何者なんだ?」


 ブゲンは鼻先に指を立てて「しぃ」と静かに示すと、周囲をきょろきょろと見回した。誰もいないことを確認すると、「念のためだ」と指先を何やら動かし始める。次の瞬間、二人を囲むように円形の結界が現れる。それを視ることは出来なかったが、空気が変わる感覚には気がついた。


「防音の結界を張らせてもらった。いいか、今から話すことは誰にも口外してはならぬ。お前を信頼しているからこそ話す内容だ。分かったか?」


 普段の飄々とした態度からは想像もつかない真剣な表情に、ハウンドも神妙な面持ちで頷いた。

 二人は道を外れ、木陰に腰を下ろす。遠くには金色の小麦畑が風に揺れてさざめいていた。


「先ほどお会いしたあの御方はフレデリカ様という。大公の娘であり、王族の一人だ」

「娘だと? あの男は『アレ』呼ばわりしていなかったか?」

「……色々と事情があるのだ。それでもミュゼの血筋であることに変わりは無い。ただ……お嬢様は特殊な体質をお持ちでな。その体に宿す魔力は未知数と言えるだろう」


「魔力」という単語が出てきた途端、ハウンドは本能的に理解することを諦めようとした。しかし、ブゲンの真剣な声がそれを許さない。「大事なことだ。真面目に聞け」と、諭すように言われれば、耳を傾けるほかない。


「その体質ゆえ、お嬢様は生まれた時からあの部屋に監禁されている。彼女の存在を知る者は、この国では大公様と姉君のジュリア様と私、それにソニアくらいなものだ。専属の乳母やメイドはいるが……彼女たちは定期的に処分されている」

 

 冷たく響くその声に、ハウンドは無意識に喉を鳴らした。

 先ほど会話を交わしたとき、フレデリカから悲愴な様子は感じられなかった。しかし、どこか諦めたような空気を纏っていたのは事実だ。

 

 そして、「生まれた時から監禁されている」という言葉には、奴隷商の館に囚われていた自分の境遇と重なるものがあった。身分も立場もまるで異なるはずの少女が、その体質ゆえに孤独な日々を過ごしていると知り、静かな怒りがハウンドの胸に芽生えていくようだった。


「お嬢様の存在は秘されているが、それでも周囲を嗅ぎ回る連中は多い。いいか。大公様も仰ったが、お嬢様に害為す者が現れたら迷わず殺せ。女子供であっても容赦はいらん」

「それは分かったが……なんで俺なんだ?」

「お前のその体質が理由だよ。どうせ理解できんだろうから今は詳しく説明するつもりはないし、聞く必要もない。お前の力が結果として不要ならばそれで構わない。だが……正直、私にもどう転ぶか分からんのだ」


 ブゲンはハウンドの両肩に手を置き、重みのある言葉を一つ一つ噛みしめるように伝えた。

 ハウンドには分からないことばかりだったが、目の前の男が命の恩人であり、生きる術を教えてくれた師であることに変わりはない。そんな彼からの頼まれごとであるならば、断ることなどできるはずもなかった。


 それに、これまで散々命令を受けてきた身だ。

 今回の仕事――少女の警護は、それらと比べればさほど難しいものではないだろう。容易いことだと考えていた。

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