124 逃走
奴隷商の首を握りつぶし、およそ二十年過ごした奴隷商の館を逃げ出してから幾日が経ったのか――。
追っ手の存在を恐れた男は、体を休める暇もなくただひたすら逃げ続けていた。背後から聞こえる枝を踏む音に息を潜め、風に揺れる葉の音さえ、自分を追う者の気配に思えてならなかった。
館内で目についた奴隷監督官たちは全て殴り倒した。個人的に恨みのある連中は息の根も止めてきた。奴隷たちが押し込められていた部屋の扉を開放し、ついでに館に火まで放ったのだから、よほどの愚図でもない限り皆逃げ出していることだろう。
主である奴隷商を失ってなお、残された監督官たちが各地に逃げた奴隷たちを追い立てるとも思えなかったが、それでも男は気を緩めることなく、身を隠しながら館から少しでも遠ざかろうと逃げ続けた。
――殺してやった。奴隷紋の効果をちらつかせて己らを縛りつけた奴隷商も、尻の穴に粗末なものを無理やり捻じ込もうとしてきた変態野郎も、鞭を振るうしか能のない監督官も、全て殺してやった。
二十年近くも無駄に年を重ねたくせに、外の世界に出ることは鉱山で石堀をする以外は殆ど無かった。だから館の外に足を踏み出したときは、言い知れぬ開放感に身を震わせた。
しかし、やってやったという高揚感も、燃え盛る館から離れるにつれ萎えていった。
奴隷と監督官以外に知り合いなど一人もいない。なにせ男は生まれた時から奴隷だったのだ。
この世界で生きているにもかかわらず、常識も、文化も、歴史も、何一つ知らない。
男が知っているのは、鉱山での魔晶石の見つけ方と、「人は殴りすぎると死ぬ」という単純な事実だけ。
自由をつかみ取ったは良いものの、この先、自分がどうやって生きていけばいいのか、男には全く分からなかった。
人目を恐れながら獣道をひたすら彷徨い、木の実や得体の知れない動物を殺して飢えをしのぐ日々。腐った実を口にして腹を下すこともあれば、見知らぬ植物に触れて痒みに苦しむこともある。
男の傍には、常に死が寄り添っていた。
「糞ったれが……。本当に、くだらねぇ人生だったな……」
ようやく深い森を抜け、何とか道らしきものが見えてきたところで、男の足は止まった。限界だった。身体中から力が抜け、膝が折れた。地面に崩れ落ちるように座り込み、背後の木にもたれかかる。
走馬灯が駆け巡るほどの思い出なんてものは無い。何も得られなかった己の人生を思い返し、男は虚ろな笑みを浮かべた。
(……どうせくたばるなら、もっと早く死んじまえばよかったのに――)
ただ無駄に丈夫だった身体のせいで、ここまで生き長らえてしまった。
男は空を仰ぐ。呑気にさえずる鳥の声が耳に届き、木漏れ日が目にしみる。
募る焦燥は、呆けているうちにいつの間にか陽光に溶けていくようだった。
……少なくとも一矢報いてやった。あの館に巣食う腐り切った連中をこの手で屠ってやったのだ。
他の連中のことなどどうでもいいと思ったが――。瞳を濁らせていた自分を、イヌから人間に一時でも戻してくれた、オレンジ頭の少年が脳裏をよぎる。……これであのガキを筆頭にした子ども奴隷も、逃げおおせたことだろう。
その後のことなど知らない。それ以上助けてやるつもりも、気に掛けてやる義理もない。しかしあの瞬間、確かに自分は従順なイヌなどではなく、一人の人間として決断を下したのだ。
それだけでも、このくだらない人生にささやかな意味を与えられた気がした。
身体の痛みはいつの間にか麻痺し、空腹さえも鈍くなっている。あとはただ、ゆっくりと瞳を閉じ、死が訪れるのを待つだけだ。
がさり、と近くの草を踏む音が聞こえたが、獣が己の死を待つために現れたのだろうと思った。
「――なんだ、人間か。死んでいるのか?」
だから――唐突に響いた人の声に、男の瞼がわずかに開いた。
霞む視界の先。黒い装束を纏った男が、静かに佇んでいる。
これまで目にしたことのない異質な装い。どことなく、鉱山で目にしたことのある魔導士のような雰囲気があった。
「ほう、生きているのか。だが死に体だな。気力だけで生きているようなものか」
その声には、不気味なほどの落ち着きがあった。まるで、死に瀕した者を見慣れているかのような。
「……見せもんじゃねぇんだよ。とっとと失せろ……」
「まだ喋る元気も残っているのか。……面白い。たまには遠出をしてみるものだ」
魔導士は興味を引かれたように膝をつき、男の顎を掴んで強引に顔を上げさせた。左右に顎を捻じ曲げ、じっくりと観察する仕草。男にはそれを振り払う力も残されていない。
ただ無気力にされるがままにしていると、魔導士は再び「何も視えぬ、か。つくづく面白い」と呟き、口元に薄く笑みを浮かべた。
「これはとんだ拾い物だ。お前、魔力を受け付けぬな?」
魔導士の言葉に男は眉をひそめた。その意味するところが全く分からない。そもそも、この世界の知識など皆無な上に、空腹と疲労で思考も鈍っている。
ただ、目の前の男が、路傍の石とも呼べない自分に興味を抱いていることだけは何となく理解できた。
(放っといてくれりゃいいのに――)
魔導士は何やら低く呟きながら男に手をかざすが、期待した反応が得られなかったようで、「やはりな」と独りごちた。
「死なすには惜しい。お前の命は私が貰ってやろう」
「誰だてめぇは……勝手に貰ってんじゃねぇよ……」
男がかすれた声で憎まれ口を叩くと、魔導士は愉快そうに口元を緩めた。そして、魔導士は自分自身に向けて再び何かを唱えると、ゆっくりと男の体を背負い上げようとした。
(無理だろ――こんなデカい身体、そんなに簡単に持てるわけが――)
だが予想に反して、魔導士は薪でも担ぐかのように軽々と男をおぶった。拍子抜けしたような気持ちと得体の知れない男への警戒心が入り混じる。何をされるのか全く分からない。どこへ連れて行かれるのかも分からない。
「……おい、何のつもりだ」
「死なすには惜しいと言っただろう。なぁに、悪いようにはしないさ」
そんな言葉を信じられるわけがない。しかし、魔導士は男の抗議など意にも介さず歩き出す。
揺れる振動と、背中から微かに伝わる温もりが、徐々に男の意識を手放すように誘っていった。




