113 赤い軌跡
一瞬の出来事だった。赤い閃光が目の端をかすめ、次の瞬間には私の横を駆け抜けていった。
突如現れたロベリア様はハウンドを押しのけてシモンの胸倉を掴むと、そのまま足を引っかけて床に倒し、その上に跨がった。
「遅えぞロベリア!」
「うっせぇ、シアを任せてきたのはおめぇらだろうが! おかげでこちとら屋敷から全力疾走だ! 結界壊すのにもどんだけ手間取ったと思ってんだよ!」
さっき壁の外から放たれていた攻撃はロベリア様によるものだったらしい。……それなら、映像に映っていた血まみれのロベリア様は一体何だったんだろう……?
ピンピンしているロベリア様は降り注ぐ瓦礫を払いのけながら、押さえつけたシモンを見下ろしている。次第に揺れが収まると、完全に崩れ落ちた天井から月の光が差し込んでいた。
シモンは体を必死に揺らして抵抗しつつ、シシル様とデュオさんの顔を交互に見比べる。取り押さえられてもなお浮かべていた余裕の表情は、みるみるうちに崩れていった。
「何故だ……!? 術は発動したはずだ! なぜお前らは消えぬ! モーヴは何故蘇らぬのだ……!」
デュオさんに支えられるようにして立つシシル様が、醒めた眼差しをシモンに向けながら一歩前に進み出る。月光に照らされた彼の姿には、どこか威厳と冷淡さが漂っていた。
「そうじゃな、術そのものは確かに発動した。それは疑いようがないじゃろう。しかし、仕掛けられた魔晶石はすでにすべて無効化されておったのじゃよ」
「あり得ん! もし異常が起きていれば、私が気づいていたはずだ……!」
「先ほどの戦闘中にそんな余裕があったとでも言うのか?」
シモンは苦々しげに顔を歪め、何かを考え込みながらも答えを見つけられずにいるようだった。シシル様に教えを乞うのもちっぽけなプライドが邪魔をしているのだろう。その視線がさまよい始めたのを見て、シシル様は腰をかがめ、間近からシモンを覗き込む。そして悠然と微笑みながら彼はシモンに囁いた。
「少しばかり加工したエコースポットを魔法陣の傍に設置しておいたのじゃよ。すべての魔法陣の傍に、な。お主、先ほどこの娘が声の波動で結界を壊したのを忘れたか? その波動がエコースポットを経由して魔晶石も破壊していたのじゃよ。……簡単な話じゃろう?」
シシル様が袖口で口元を隠しながらくすくすと笑うと、シモンの顔がみるみる赤くなった。悔しさに震える手を伸ばそうとしたが、ロベリア様がやんわりとその手首を抑え込む。
「つまり、お前の切り札はとっくに潰されてたってことだ。せっかく頑張って考えた策だったのに残念だったなぁ?」
「そんなふざけた話があってたまるか……! この世界にそんなことができる者がいるなどと……あり得ない!」
「それが出来たのが、その娘だったのじゃよ」
シシル様の言葉に促されるように、シモンの視線が私へと向けられる。その瞳には動揺と憎悪が渦巻き、わずかに震える口元が彼の内心を物語るようだった。
「さぁてシモン。絶体絶命な状況なわけだがどうする? 今ジュリアの身体を解放すれば、苦しまずに逝かせてやるぜ?」
まるでそれが慈悲とでも言いたげなロベリア様の言葉には、相手への情けなど微塵も感じさせなかった。それを聞いたシモンは、静かに顔を横に背け、一筋の涙をこぼした。
「……つまり、わたくしに死ねと言うのね、ロベリア」
弱々しい声でつぶやくその横顔は、儚げで息を呑むほどに美しい。中身がシモンであると知りながらも、涙に潤んだ瞳の輝きに思わず目を奪われてしまうほどだ。
ロベリア様はまた絆されてしまうのではないか――。そんな不安が一瞬胸をよぎったが、彼女の赤い瞳は冷たく、迷いの色は一切見せなかった。
「猿芝居は止めろ。あいつはな、俺の前では泣かねぇんだよ」
ロベリア様の言葉は断固としており、ジュリアの顔が垣間見えても、彼女の決意が揺らぐことはなかった。その一言で、シモンはもう無駄だと悟ったのか、静かに顔を石畳に伏せる。取り押さえられ、味方もない彼にはもはや抗う術はなかった。
教会に蔓延していた魔獣はすでにすべて鎮圧され、跡形もなくなっている。壁と一部の床を残しただけの教会は、わずかな衝撃でも完全に崩れ去りそうなほど脆い状態だ。周囲を見渡すと、遠巻きにしてこちらを窺う騎士たちの姿も目に入った。
「レオ、縛るもん持ってきてくれ!」
そのうちの一人にロベリア様が声をかけると、その声に応じて長いマントをたなびかせたレオさんが駆け寄ってきた。
空中にはまだいくつかの映像が漂っていた。その中には、倒れるロベリア様の姿も含まれていて、映像と目の前の現実との矛盾に困惑してしまう。が、映像がいきなり乱れたと思ったら暗転し、やがて『フェイクニュースにはご注意を』という大きな文字が画面いっぱいに映し出された。
『……あー、あー? ……ああ、やっと乗っ取れた。まったく、無駄な処理が多すぎて逆に時間がかかりましたよ』
聞き慣れた声が映像から響く。それは間違いなくトーマ君の声だった。
「……トーマ君? 良かった、大丈夫だった?」
『こちらは何ともありません。リカちぃも……ご無事で何よりです』
「ええと、この映像は、もしかして……」
『えぇ。お察しの通り、シモンとそのお仲間の魔導士が作った偽物です。先ほどリカちぃが歌ってくれたでしょう? 実際には、あの歌に込められた魔力のおかげで魔獣は動きを止め、各地で暴れていた同胞とやらも戦意を喪失させています。僕の方からも、続々と捕らえられている姿が確認できました』
フェイクニュース……映像の改竄。そんな手段にまで及んでいたなんて。配信文化を広める以上、いつかこうした問題に直面することは予想していた。それでもこんな形で利用されてしまうなんて……!
自然とシモンを睨みつけてしまう。だが彼は無表情のまま、あさっての方向に顔を背けるだけだった。
「アップデートは終わったのか? こちらの戦闘が終わってしまったぞ」
『いや、本当にあと少しだったんですよ? でも、師匠が大根芝居を始めるものですから、つい気を取られてしまって』
「ええい、帰ったら覚えておれよ……!」
軽口を叩き合うトーマ君とシシル様の声を聞いているうちに、張り詰めていた緊張の糸がふっと解けていく。
――良かった。やっと終わったんだ。
まだシモンは生きているし、各地の戦火も完全には収まっていない。それでも、ハウンドのエコーストーンには次々と鎮圧完了の報告が届き始めていた。それを確認して、ようやく私も安堵の息をついた。
「リカ、シモンの魂ってのは吸えそうか?」
ロベリア様がシモンの両腕を背中に回し、手首をきつく縛りながら問いかけてくる。その声に応じて体内を巡る魔力に意識を集中させてみた。けれど――今の私には、それを行う力は残されていなかった。魔晶石を作り出すことも、媒介として利用することも、今はもう難しい。静かに首を振ると、ロベリア様はわずかに眉を寄せた。
「……どうすっかなぁ、こいつ」
ロベリア様がぼそりと呟くと、シシル様が落ち着いた口調で応じた。
「失われた魔力をまたコツコツと貯めていくしかないじゃろうな。今は難しくとも、そのうちに出来るようになるはずじゃ」
その言葉に、胸の内に小さな希望が灯る。確かに、私の中にはまだ魔力を蓄える器が残されている。またライブ配信を繰り返すことで、以前の力とまではいかなくとも、シモンを封じる程度の力を取り戻せるかもしれない。
それまではシモンをどこかに監禁しておくしかないだろう。ロベリア様には待ってもらう必要があるけれど、彼女は「仕方ねぇなぁ」と困ったように笑いながらも、銀色の髪を愛おしそうに優しく撫でていた。まだ中身はシモンのままとはいえ、ひとまずジュリアの身体が手元に戻っただけでも今は満足なのかもしれない。
「そいつが歌ってたときシモンの表情が変わったのを見た。ひょっとしたら、アレクセイ商会の連中の時みてぇに、歌を延々と聞かせてやれば多少は効果があるかもしれないな」
「なんだそりゃ、歌を延々と聞かせるって、新手の拷問か?」
「ある意味……? でも確かに、少しでも可能性があるなら試してみてもいいかもしれませんね」
冗談交じりの会話に苦笑しつつも、当面の課題が明確になった。私の魔力が回復するのを待ちながら、シモンの魂をジュリアの身体から分離する方法を探っていくしかなさそうだ。
「とりあえずアレもどうにかしないといけないね……回収しておこうか」
デュオさんの指す「アレ」とは、紋様の擦れた魔法陣の上にある黒い箱だった。箱からは不気味な妖気が漂い、深紫色の魔晶石がはめ込まれている。あそこには、ミュゼの民たちの魂が眠っていた。
「……あれをお嬢様がまた取り込めば、お嬢様の力も元に戻るんじゃないでしょうか?」
スイガ君の提案に場が一瞬静まり返る。それは、誰もが心の中で過ぎらせた考えだったのだろう。神妙な面持ちで箱を見つめる中、最初に口を開いたのは、ハウンドだった。
「……止めとけ。フレデリカがそれを受け入れたとき、しばらくは不安定だった。またああなられても困る。それに……こいつはそれを望んでいない」
その場にいた全員の視線が私に集まる。応えるように、小さく頷いた。
――十年もの間、望まない形で封じ込められていたのだ。もう、解放してあげるべきだ。
「シシル様、この魂を解放したいんです。どうすればいいですか?」
「それを魂と呼ぶのであれば、魔晶石を壊せばいいだけの話じゃ。私としては惜しい気もするが……お主が解放を望むのであれば致し方ないじゃろう」
シシル様は少しの未練を漂わせつつも、私の選択を肯定してくれた。スイガ君は複雑そうな表情で箱を見つめたが、「お嬢様がそう望むのであれば」と小さく頷き、怪我の痛みに顔を歪めてその場に膝をついた。
辺りを見回すと、ハウンドもデュオさんも、皆がそれぞれの戦いの傷を抱えていた。私自身も痛みは収まったものの、体中が疲労で悲鳴を上げている。正直、今すぐにでも横になりたいくらいだった。
「その箱と魔晶石はひとまず私が預かろう。魂を解放するといっても急ぐ必要はないじゃろう。娘にも影響があるかもしれんから、数日休ませてからの方が良い」
「そんじゃこいつは俺の部屋に閉じ込めておくわ。もう悪だくみできねぇように、ずっと一緒にいてやるからな?」
いつの間にかシモンには猿轡まで取り付けられていた。ロベリア様が耳元で囁くと、シモンは眉間に深い皺を寄せる。口惜しさを露わにしながらも、もう抵抗する素振りは見せなかった。
「ここの後始末は明日にするか……。とりあえず今日は屋敷に戻ろう。各地の状況もちゃんと確認しねぇと」
ハウンドがそう言いながら「それに」と私の頭に大きな手を乗せた。
「……シアが心配している。状況が状況だったからアイツも拘束させてもらっているが……早く帰って、お前の元気な顔でも見せてやれ」
その言葉に、私は弾かれるように顔を上げた。良かった……! シアさんは無事にお屋敷で保護されていたんだ。早く彼女に会いたい。怖い思いをさせたことを謝りたいし、大好きだよってぎゅっと抱きしめたい。
それなら急いで帰らなくちゃ――そう思い、瓦礫の上に転がるエコーストーンに手を伸ばした。どうやらまだ配信中だったらしい。リスナーたちもきっと心配しているはずだ。
見守ってくれていた彼らにもお礼を言わないと。土で汚れた服を軽く払い、エコーストーンを拾い上げる。
「……あれ?」
その瞬間、強烈な違和感が全身を襲った。エコーストーンから手を介して、何かが勢いよく体内に流れ込んでくる。
――どうして気づかなかったんだろう。これ、チャームが付いていない……!
「……おい、どうした?」
私の異変に気付いたハウンドが声を掛けてくる。でも、応えることができない。エコーストーンは緑に輝いていたはずなのに、今では鮮やかな紫色に変わっていた。
手放そうとしても体が言うことを聞かなくて、紫の光が手のひらから侵食し、全身を支配していく。その光は私の中にある何か大切なものを塗り替えていき、抵抗しようとする意志は、虚空に舞う砂のようにあっけなく消えていく。
その時、ロベリア様に担ぎ上げられたシモンと目が合った。彼の紫色の瞳は昏く妖しい光を放っている。視線を外すことができない。その瞳に囚われたまま、突然、頭の中に声が響いた。
『――仕方ないから、その体で我慢してやろう』
その言葉を最後に、パチン――と、画面が切り替わるように目の前が真っ暗になった。




