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106 鏡の中の私

 ロベリア様と入れ替わるように部屋に入ってきたハウンドは、何かを確認するように室内をざっと見渡している。ベッドから立ち上がろうとすると、「そのままでいい」と軽く手で制された。


「馬鹿とすれ違ったが、あいつは何しに来たんだ?」

「新しい事業の素案を見せに?」

「……つまり暇人ってことだな」


 そのツッコミ、否定はできない。とはいえゲーム事業がこの世界で根付けば配信事業との相乗効果は計り知れないものになるだろうから、個人的には応援したいと思っている。


「ハウンドはどうしたの? 何か用だった?」

「いや、揺れただろう。それに、風邪を引いたって言ってただろ? 様子を見に来たんだが……その様子なら大丈夫そうだな」


 彼はベッドの端に腰を下ろすと、おもむろにグローブを外して私の額に手のひらを押し当てた。まるで子どもにするような仕草に驚いて、身を引くこともなくそのまま受け入れてしまう。ハウンドの手はひんやりとしていて、少しだけ心地よかった。


「……熱はねぇな。だが、顔が赤い。暖房を利かせすぎても良くないから、ちゃんと調節しとけ」

「わ、分かってるよ。咳も出ないし、喉もちょっと痛かっただけだから平気。明日には元気になってると思う」


 動揺を悟られないよう平静を装う。――ほんの一瞬の接触だったのに。施していた暗示があっさり破られたようで、心臓がバクバクと騒ぎだす。自分の挙動不審さが表に出ていないだろうか。不安になってしまう。


「それならいい。今日は早めに休んでおけ。ライブ配信なんざもってのほかだ」


 いつものように釘を刺してくるハウンドに、逆らうつもりもないので「はーい」と素直に返事をする。満足そうな微かな笑みを返されて――胸の奥がきゅっと締め付けられた。……くぅ、ただちょっと笑っただけなのに、どうしてこの心臓はこんなにも過剰に反応してしまうんだろう。

 

 暗示が解けてしまった今、私の気持ちは彼の言動で簡単に振り回されてしまう。ハウンドにこんな想いを抱いているなんて絶対に気付かれるわけにはいかない……! なんだかもう直視できなくて、とっさに視線を逸らした。

 

「……あっ! さっきの地震、大丈夫そうかな? こっちの世界でも地震ってあるんだね?」


 ハウンドの来室で忘れかけていたけれど、被害状況を確認しようとしていたことを思い出す。彼は「そうだな……」と独りごちるように呟いてから、ゆるやかに首を振った。


「地面が揺れるなんてことは滅多にない。どこかで大きな戦闘が起きたときか、火山が噴火したときくらいだ。このタイミングとなると、シモンの馬鹿が何かやらかした可能性が高いな。俺も後で様子を見てくる」

「それなら私も――」

「いい、お前は寝てろ。警備の騎士も増やしておく。……そういえば、シアは来ていないか?」

「シアさん? 朝に会ってからは見てないよ。お昼はサラが届けてくれたけれど……今日は養護院の日でしょう?」


 シアさんは毎朝必ず私の部屋に顔を出して、一緒にご飯を食べ、予定を確認してくれる。そして最近はお昼前からは何日か置きに養護院で過ごすようになった。派遣が決まったときのソルの喜びようといったら、それはもう大騒ぎだった。

 養護院でも彼女の母性は存分に発揮され、子どもたちからは懐かれ、職員たちからも頼りにされているらしい。ケニーさんもどことなく浮足立っていたし、彼女は新しい環境にすっかり馴染んでいるように見えた。


 あの日――彼女が不安を吐露してくれてから、吹っ切れたように元気に過ごしているように見えた。もしかしたら何かまたあったのだろうか。不安が胸をよぎり、私はハウンドの顔を見上ると、彼は複雑そうな表情を浮かべて「それならいい」と一言だけ返した。


「……何かあったのなら教えて欲しいんだけど」

「いや、少しシアに確認したいことがあっただけだ。こっちで片付けるから、お前は気にしなくていい。……だが、そうだな。可能な範囲でシアを気にかけてやってくれ。あいつは表には出さないが、脆い部分がある」


 脆い部分、というのは先日のやり取りで見せたあの不安定な言動のことだろうか? シアさんのことを不要だなんて思うはずもないのに、養護院の話を出したときに見せた激しい動揺。それが記憶に鮮明に残っている。

 

 彼の意図を掴みきれずに戸惑う私を見て、ハウンドは言葉を続けるのを一瞬ためらったように見えた。その沈黙が、胸の中で嫌な予感を膨らませていく。


「……すまん、思い過ごしならそれでいいんだ。ああ、そうだ。明日は教会に行く予定だが、体調が戻るようならお前も行くか?」

「あ、うん。行く。……行きたい! 明日までには元気になるから絶対連れて行ってね? シアさんのことも、帰ってきたら話を聞いてみるから」

「ああ、そうしてくれ。明日は昼前に出る予定だから、そのつもりでいろ」


 そう言うとハウンドは立ち上がり、ドアの蝶番を少し弄ってから部屋を出て行った。どうやら直せなかったらしい。ぎぃぎぃ煩いけど一応は閉まるし、シシル様から貰った結界石で、簡易的な結界は張られている。知り合い以外が入り込むことは出来ないようになっていた。


 ……明日はハウンドとお出かけか。あくまでもただの視察だというのに、どうしてこんなに胸が浮ついてしまうんだろう。魔法陣を一緒に確認しに回ったとき以来の外出だからかな。

 あのときは転送と記録の繰り返しであまり話す余裕もなかった。明日は取り壊し前の教会を見に行くんだろう。噂の隠し部屋も確認するのかな? それが終わったら、二人でサントスさんのところに立ち寄るのもいいかもしれない。……ふふ、想像するだけでなんだか楽しい。


 ベッドに倒れ込むと、膝の上にあった本がぽとりと横に転がった。ハウンドの言葉を思い出して、今日は早めに休もうと決める。横になりながら胸に手を当て、いつものルーティンとして、「"この気持ちは消えて"」と自分に暗示をかけようとした。


 ――消さなくてもいいんじゃない? ふと、そんな思いが頭をよぎることもある。けれど、やっぱり恋愛感情なんて私には必要のないものだ。配信者として生きる以上邪魔にしかならない。それに、嫉妬している自分なんて見たくない。ただ持て余すだけならいっそ消し去ってしまった方が合理的だろう。


 ……初めて会ったときは、小汚いおっさんだなんて思っていたのに。いつからだろう。気づけば彼の姿を目で追い、褒められるのを期待して、声を聞くだけで心が弾むようになったのは。

 彼は私よりも一回り年上で、私を子ども扱いばかりする。それに、彼が見ているのはフレデリカであって、私そのものなんかじゃない。


 ……本当に、難儀な人を好きになってしまった。もはや諦めの感情だ。

 

 ほら、だから暗示が必要なんだ。彼のことですぐに頭がいっぱいになってしまう。もう一度、「"この気持ちは、消えて"」とおまじないのように唱える。これをしておけば不意の接近にも動揺せず、仕事仲間として冷静に振る舞える――はずだった。


 ――あれ、でもおかしいな。いつもならすっと胸に落ちるはずの暗示が、妙に引っかかる。胸の奥に違和感が広がり、重たく沈み込むような感覚がじわじわと迫ってくる。


『――』


 ふと、何かが聞こえた気がした。それは確かに音だったのに、言葉として耳に届くことはない。ただ、なんだろう。優しい響き。決して不快な音ではない。


 ぼんやりとしたその音は、私の意識を深い闇へと引き込んでいく――……。

 




 余計な色が混じることを許さない真っ白な世界の中で、私の意識はただふわふわと宙に浮かんで漂っている。

 

 これは、夢だろうか。――いや、それにしては妙に意識が鮮明だ。ただ、危険な気配は感じない。あたりを見渡してみると、少し離れた場所に長方形の何かが浮かび上がっているのが見えた。

 

 誘われるように近づいていくと、それは背丈ほどの姿見だった。白い木枠に、小さなぬいぐるみが吊り下げられた鏡。どこか懐かしい輪郭のそれは――そうだ、これは私が加藤蜜柑として過ごしたあの部屋にあったものだ。


 目の前に立つと、鏡の中には目を閉じた加藤蜜柑の姿が映し出されていた。息を呑み、自分の手を見ると、そこにはブレスレットが揺れている。……私の姿は変わっていない。それなら、鏡の中の蜜柑は一体――?


「あなたは誰……?」


 小さく震える声で問いかけると、鏡の中の蜜柑がゆっくりと瞳を開いた。――その瞳は紫色に輝き、美しい光を湛えていた。


『――ああ、やっと話せた』


 蜜柑の口から、どこか聞き覚えのある声が流れ込んでくる。彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、鏡に縋るように手を伸ばした。


「もしかして……フレデリカ?」

『ええ、そうよ。……ごめんなさい、魔力を取り戻すのに時間がかかってしまったの。今も、長く繋がるのは難しいから、まずは謝らせて』

「どうして? 何を謝ることがあるの?」


 フレデリカが蜜柑として生きているの……? その事実を飲み込む余裕もないまま、私も導かれるように鏡に手を伸ばすと、私たちの手のひらが重なった。

 手のひらから伝わるのは無機質な冷たい感触だけ。私たちを隔てる薄いガラス一枚が、違う世界で生きている現実を突き付けてくる。


『あなたがフレデリカになってしまったのは、私のせいなの。私が願ってしまったの。"加藤蜜柑になりたい"って。……呪詠律を発動させるつもりなんて、なかったのに』


 そう懺悔をする彼女の言葉に混乱が押し寄せる。……フレデリカが、私になりたいと願った? 私たちには接点なんて何一つないはずなのに、いったいどうして?


『――ごめんなさい、時間が無いの。いい、聞いて? シモンはきっとあなたが築き上げた配信の力を利用しようとするわ。でも、それを止められるのもあなただけ。だから忘れないで。私がいつも見ていることを。私だけじゃない、あなたのリスナーも味方だから。だから、忘れないで――』


 フレデリカがさらに言葉を紡ごうとしたその瞬間、真っ白だった世界に紫色の闇がじわじわと広がり始めた。まるで生きているかのようにうねり、彼女の姿を飲み込んでいく。


『蜜柑、忘れないで――!』


 響き渡るフレデリカの声。

 その声に手を伸ばそうとしたのに、私の体も何かに引きずられるように強制的に覚醒を促された。





 目が覚めると、部屋は真っ暗だった。背中には汗が張り付き、胸は異様にざわついている。重たい頭をもたげ、さっき見た夢の内容を必死に思い返す。


「フレデリカが蜜柑として生きている……?」


 呟いた言葉は、静まり返った部屋に吸い込まれるように消えていった。――フレデリカは呪詠律を使ったと言っていた。でも、どうして私になりたいと願ったんだろう? そもそも、彼女はどうして蜜柑のことを知っていたんだろう? 彼女の言葉に込められた意図を考えるたびに、頭の中で疑問が渦巻き、混乱は深まるばかりだ。


 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 彼女は私を助けたいと願っている――そして。


「シモンが配信を利用するって、どういうこと……?」


 その忠告は、まるで遠い未来ではなく、今この瞬間から始まるとでも言いたげだった。


 ハウンドはもう帰ってきているだろうか。彼にもこの出来事を話したかった。分からないことだらけで彼も困惑するだろうけれど……少なくともフレデリカが生きていることだけでも、今すぐにでも伝えてあげたい。

 

 私は体を起こし、ベッド脇の明かりに手を伸ばした――その手が、不意に止まる。窓辺のテーブルの上に置かれたバレーボール大のエコーストーンが、ぼんやりと紫色の光を放っているのが目に入ったからだ。


「あれ……?」


 エコーストーンが発する光は通常、緑色のはずだ。あれはこの部屋に元々置かれていた通信用のもので、今は携帯型を使うことが多いからほとんど使われなくなっていた。

 紫の光はまるで呼びかけるように、一定のリズムで明滅を繰り返している。


 ――いや、私はこの色を見たことがある……! この色……カレナが使っていたエコーストーン。あれも紫に光っていた。


 それに、ベッド脇に置いていた私のエコーストーンも紫色に輝いている。……チャームをくれたときにトーマ君が言っていた。呪術の力を感じ取ると、周囲のエコーシリーズが紫色に輝くと。


「……私を、呼んでいるの?」


 無意識に呟いたその瞬間、背後からコンコン、と控えめな音が響いた。


「だれ?」


 ……誰かが訪ねてきたはずなのに、返事はない。


 音の正体を確かめなければ、という思いが重たい体を動かそうとする。――それなのに、足が動かない。目を凝らしても魔力の動きは感じ取れず、ただ部屋を満たしていたマナが急速に薄れていくのが分かった。


「"姿を見せて"」


 口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。ドアを見つめる瞳が暗闇の中で慣れないまま、形を捉えようと必死になる。――そのとき、紫の光を放っていたエコーストーンが、突然、ふっと消えた。


 部屋は再び深い闇に包まれ、私の耳に届いたのは、ギィィ……と蝶番が軋むドアの音だった。

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