103 家族のいる場所
お店に残されたのは私とスイガ君だけ。カクテルグラスに残るジュースもあと少しだ。それをちびちびと飲みながらちらっと視線を向けると、スイガ君はグラスの水滴を指先で撫でていた。
長いとも短いとも思える沈黙が続く。私から声をかけようか。タイミングを伺っていると、先にスイガ君が口を開いた。
「……先ほどはありがとうございました」
「先ほど? ……なんかしたっけ?」
「話を合わせてくださったでしょう。お気づきだったと思いますが、おばさんは記憶が曖昧になってしまっているんです」
……やっぱりそうなんだ、と一人納得する。スイガ君のことを小さい子どものように扱っていたし、私のこともジュリアと勘違いをしていた。ただ、記憶が曖昧と言っても生活に不自由はしていなさそうだったし、お店を続けていくだけの力はあるようだ。それに誰かの帰りを待っていたということは、その人と一緒に暮らしているんだろう。
「スイガ君は、小さいころからあのお店に通っていたの?」
「むしろ幼いころだけでした。今は、近くを通ることがあれば顔を出す程度です。……あそこの店は、母がとても気に入っていたんです」
スイガ君のお母さん……。確か以前に、「両親と兄は十年前に消えた」と言っていた。それは、シモンの禁術の被害者であることを暗に示していた。
私はグラスを置いて、無意識に視線を伏せていた。それは、後ろめたさからくるものだった。
「おばさんも、十年前に自分以外の家族を失いました。……あの人が待っているのは、帰ることの無い娘さんでしょう。私の兄と仲が良かったと聞いたことがあります。私の顔を見ると、思い出させてしまうみたいです」
「そう、なんだ……」
帰らぬ娘を待ち続けて、時計を見ていたおばあさんの顔が脳裏に蘇る。誰かいるなら安心だなんて安易に思ってしまったけれど、その誰かは、もう戻らぬ人だった。
きっと、私なんかでは想像もつかないほどの深い悲しみの中で、十年前からあの人の時間はお店の中で止まってしまったのかもしれない。そう思うと、この身体を流れる魔力がひやりと冷たさを帯びていく。
――核心に触れるのが怖い。
触れてしまったらスイガ君が私のことをどんな目で見るんだろう。想像するだけでも息苦しくなる。
知らないままでいてほしい。でも、隠し事はしたくない。狭間で心が揺れ動き、身動きが取れなくなってしまう。
「……ジュリアのことも知っていたみたいだね」
「ジュリアがあの店を訪れていたのは知りませんでした。きっと私とはタイミングが合わなかったんでしょうね。ただ、妹のことを話していたということは、それだけ気を許していたのでしょう。……おばさんはとても優しい人でしたから」
――そんな人から家族を奪った。私が直接手を下したわけではないとはいえ、その事実だけで心に暗い影が落ちる。
ふとスイガ君の視線を感じて、思わず彼の顔を見つめ返す。そうだ、私は彼にフレデリカのことも、シモンのことも、ジュリアのこともきちんと説明していなかった。シモンが襲撃してきたとき、スイガ君も巻き込まれる形で、その後も作戦会議に参加してくれたけれど、彼がどこまで真実を知っているのかは分からないままだ。
話をしなくちゃと思うのに、何から説明すればいいのか分からなくなってしまう。
「……ハウンドから、何か聞いていた?」
あまりにも唐突な問いかけだ。スイガ君の話の流れからは繋がらない。でも、湧き上がる疑念を口に出さずにはいられなかった。
スイガ君は賢いから、この質問の意図も察してくれるはず。ただ、彼の顔を直視することはできなくて、空になったカクテルグラスから視線を外せないでいた。
「……ハウンド様は、私には何も教えてくださいませんよ」
諦観を含んだその言葉に、少しだけホッとしてしまった。でもそれも一瞬のこと。カウンターの上で持て余していた左手が、そっとスイガ君に絡めとられた。その感触に驚いて顔を上げると、すぐに彼の瞳と視線が交わった。薄明かりの中に浮かぶ彼の顔は相変わらず無表情で、何を考えているのかまったく読み取れない。
「だから、全部自分で調べました」
「……全部?」
「そう、全部。幼い頃は節度を守ることなんて出来なかったから、シアが言っていたようにお嬢様の部屋に忍び込んだことも何度もあります。……もっとも、彼女は私のことなんて相手にもしませんでしたけれどね」
自嘲気味に笑う彼の姿に、胸がざわめく。やっぱり、フレデリカのことも知っていたんだ。もしそうなら、今の私がフレデリカではないことも――知っているの?
答え合わせを待つように、私はただ黙ってスイガ君の言葉を待っていた。
彼は淡々と話を続ける。
これまで心の奥底に収めていただろう事柄が、一つ一つ明かされていく。
「屋敷の中に残る書類は全て確認しましたし、盗み聞きまがいのことも何度もしました。十年前に、どうして家族は消えたのか。なぜおばさんが家族を失わなくてはならなかったのか。大量失踪事件と呼ばれた現象の原因は何なのか。それだけが知りたくて、ずっと調べていたんです。……まさか、あんな形で答えを知ることになるなんて思いませんでしたけれどね」
「あんな形って……?」
「お嬢様が部屋から出るようになった頃、私はサングレイスに滞在していたんです。長期任務を終えて戻ってみれば屋敷の様子がまるで違う。それに応接室なんて、しばらく使ってなかったんですよ。だから興味本位で忍び込んでみたら、お嬢様とシシルが現れて……。話を、聞きました。私にとっても、とても"刺激の強い話"でしたよ」
――あの日のことは忘れるはずもない。
フレデリカが『ミュゼの至宝』と呼ばれるようになった由来を、シシル様から聞いた日だ。ミュゼの国民九割の命と引き換えに、フレデリカが膨大な魔力を手に入れるに至った話を。
「――ごめん。……言えなくて、ごめんなさい」
スイガ君はすべて知っていた。知った上で、今まで私を守り続けてくれていた。
どんな気持ちで任務を全うしていたのかなんて想像できるはずもない。そんな彼に対して私は、赦しを乞わなければならなかった。本当なら私の口から説明しないといけなかったのに、ずっと目を逸らしてしまったから。
「ずっと、探していたんです。消えた理由と、ひょっとしたらどこかで生きているかもしれない家族のことを」
「スイガ君、あのね――」
「私の家族は――……お嬢様の中にいたんですね」
私の言葉を遮り、核心に触れた彼の顔には何の変化も現れない。声も態度も淡々したままだ。でも――彼の手だけが小刻みに震えていた。
私の中に、家族がいる。彼がそう断言するのであれば、きっと彼の中ではそうなんだろう。
明かりが灯っているとはいえ、お酒を提供するお店らしく店内はほんのりと暗かった。スイガ君はその暗闇に溶け込んでしまいそうで、何を考えているのか、何を求めているのか、読み取ることは出来ない。
問いかけたい気持ちはある。けれども、どう言葉を選べばいいのか分からなくて、私は再び目を伏せてしまった。
「ごめんなさい……」
結局謝罪を重ねることしか出来ないでいる私に、スイガ君は小さく首を振る。
「お嬢様、お願いですからもう謝らないでください。怒っているわけではありませんし、ましてや恨んでなどおりません」
「でも、私の中には……」
「私の家族は魔獣に喰われたわけでも、集団自殺を遂げたわけでもなかった。お嬢様の中で脈々と生きている。……それがとても、嬉しいんです」
嬉しい、と語る姿に息を呑む。――だって、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか? 言葉を交わすことも、抱きしめることもできない、形を失った存在なのに。
「本当は、ずっと胸の中に秘めておくつもりでした。ですが、おばさんに寄り添うお嬢様を見ていたらどうしても伝えたくなったんです。私が知っていることを話せば、お嬢様を苦しめると分かっていたのに……」
そっと私の手の上に重ねられていた彼の手が、そのまま覆うように力がわずかに強まった。触れ合う指先はまだ冷たいけれど、手のひらから伝わる微かな温もりが、じんわりと私の肌に染み込んでいく。
「贖罪なんて必要ありません。ただ、もし私の気持ちを汲んでくださるのなら、どうかお嬢様のお傍にいさせてください。……家族のそばに、いさせてください」
「でも、それは……」
「私には、ハウンド様のような剛毅さも、レオ様のような豪胆さも、デュオのような血筋も、シシルのような魔力も持っていません。ソルのように誰からも好かれるような人柄でもない。お傍で仕えるには力不足だと分かっています。……それでも、お嬢様のそばにいたいんです。お嬢様を、そして私の家族を、今度こそ守りたいんです」
控えめに、それでも一途に言葉を紡ぐ彼の姿に、胸が苦しくなる。
彼は、私の中で家族が生きていると信じている。心の拠り所にしているようにすら見える姿は、普段の冷静で大人びた彼とは、まるで違っていた。
今この場で彼を突き放してしまったら――。
不穏な考えを打ち消すように、小さく息を吐いた。
「……私のことが怖いですか?」
「ううん。スイガ君こそ、私のことが怖くないの? あなたの家族を奪ってしまったのに」
「ええ、怖いです。お嬢様を失えば、私はまた家族を失ってしまうのですから」
スイガ君は私の中にいる家族を想っている。堰を切ったように溢れ出し気持ちが、言葉として積み重なっていく。自分の感情を見せまいと律していた少年が、心のうちを全て曝け出している。
「母は目の前で消えました。父がいなくなったことはハウンド様から聞きました。そして、兄がどこで消えたのかは未だに分からないままです。皆、私の傍から消えてしまったのです。……でも、その皆が、お嬢様の中で生きている。だから、お願いです。お嬢様の傍に、いさせてください」
私が謝罪を重ねたように、彼も「そばにいたい」と繰り返す。その声は震えていて、顔を歪め、必死に涙をこらえようとしている彼の手を振り払うことなんて……私に出来るはずがなかった。
――覚悟を決めよう。私は、この魔力の正体を知ったときに、すべて受け入れると決めたはずだ。
スイガ君の手を静かに握りしめる。ただそれだけで、お母さんを探してさ迷い歩く子どもが、ようやく行き着く場所を見つけたような安堵の表情を見せた。
ごめんね、と心の中で謝った。私がこの選択を選んだ時点で、結果的に貴方の心も利用することになるのだから。
「……それならずっと私のそばにいて、私のことを守って欲しいの。私と、スイガ君の家族を見ていて欲しいの。これまでと同じように、ずっと」
あのおばあさんにした時と同じように、相手の望む言葉を紡ぐ。
私にできることなんて、それくらいしかないから。
「――お許しを頂き、ありがとうございます。……ずっと、お傍にいます」
そう答える彼の表情は、とても幸せそうに緩んでいた。
握りしめた手の中で、微かに伝わる彼の熱が、冷えた私の指先をほんの少しだけ温めてくれた。