001 私が異世界の美少女に?
――私はただ、スマホの画面に映る『アカウント削除』ボタンを押しただけだ。
それなのに、鏡に映るこの姿はいったいどういうことだろう?
蜂蜜色に輝くブロンドの髪。雲一つない青空を吸い込んだような瞳。ニキビなんて言葉とは無縁の陶器のように滑らかな肌。
「これ、まさか私なの……?」
耳をくすぐるのは、透明感に満ちた心地よい声。加藤蜜柑、なんて名前の女子高生だった私とは何もかもがまるで違う。こんな風になれたらいいなと夢に描いた理想の美少女が、今、鏡の中から私を見ていた。
手足が長くて顔のなんて小さいこと。メイクをしているわけでもないのにどうしてこんなにまつ毛が長いの? どんなスキンケアしているの? 加工いらずのこんな美少女が三次元に存在していいの?
盛れる角度はどこだろうとあちこちに顔を向けていると、ふと、やや俯いた横顔が記憶の底に残るものと重なった。
「……フレデリカ……?」
その名前を口にした瞬間、記憶が一気に呼び起こされた。
知り合いというわけではない。漫画やアニメの登場人物でもない。
おすすめとして流れてきたショート動画で、一度だけこの美少女を目にしたことがあった。
興味が無ければ一秒ももたずにすっすと指を滑らせる、いつもの暇つぶし兼ネタ探し。半分意識を飛ばしながら眺めていたのに、彼女の動画が出てきた瞬間に眠気なんてどこかへ飛んでいった。
「誰よ、この美少女は……!」
CGやイラストのアバターとは違う、でも実在の人物ともまた違う。何人もの神様が丁寧に作り上げた彫刻が何かの間違いで受肉してしまったような、不思議な魅力を持つ美少女がそこにいた。
肝心の動画はといえば、聞きなれない言語で歌っているだけなのに下手なASMRを聴かされるよりも遥かに心が癒される。かと思えば、曲調は穏やかだというのに脳汁はどばどばと溢れ出る。
彼女から目が離せない。いつまでもその歌声を聞いていたい。もっとその顔をよく見せて欲しいのに、カメラに目線が合うことはなく、彼女はぼんやりとどこか遠くを見つめていた。
ユーザー名には『フレデリカ』とだけ記載されていて、キャプションなんかも一切なし。
いくら調べても彼女の情報は何も出てこなくて、あの動画にも再び出会うこともないままに忘れてしまっていた彼女が、今、目の前にいる。
「え? つまりどういうこと? 私はフレデリカになったってこと……?」
他に何か情報はないだろうか? 膨らんでいく不安な気持ちを抑えながら、鏡から周囲へと目線を移していく。
装飾過多な鏡台、天蓋付きの大きなベッド、窓の近くの机には占い師が使っていそうな水晶玉。視界に入るすべてのものが見慣れないもので、「ぼくたち日本生まれではないんです」と主張しているかのようだ。
流行り物はひととおり押さえているし、漫画やアニメなんかももちろん嗜んでいる。だからこそ、現状を説明するのに真っ先に思い付いた言葉は――「転生」の二文字だった。
悪女になったり、冒険者になったり、農業を始めたり――とにかく何らかの事情で自分以外の何者かに転生し、異世界で様々な生活を送るという物語が、アニメや広告の漫画で溢れていた。
でもなんで私が転生なんてしてんの? 信号無視のトラックに跳ねられた覚えも、不治の病に冒された覚えも、召喚の儀式に巻き込まれた覚えもないというのに。
そう、確か誰もいない教室で半身とも言えるスマホを弄っていただけだ。
夕日が反射して眩しいな、なんて思いながら、私の人生のすべてが詰まった、動画投稿サイトのアカウントを削除しようと――。
「――お嬢様? どうされたのですか、そんなところでぼうっとして」
不意に声をかけられてビクッと肩が跳ねあがった。ぎこちない動きで声のした方へ振り返れば、重たそうなドアのそばには背筋をしゃんと伸ばした女性が立っていた。
メイド服を纏った年齢不詳のお姉さん。わぁ、この人も凄い美人さん。鼻の高さと深い藍色の目が日本人ではないと物語っている。
品の良い光沢と服の生地感からいって、コンカフェの客引きで見かけるようなぺらぺらなものとは大違い。お嬢様。メイド服。ということは、返事を待たずにベッドのシーツを代え始めたこのお姉さんは、フレデリカのメイドさん?
無言で突っ立ったったままでいるくせに、視線だけは熱心に送ってくるから不審に思ったのだろう。シーツを手際よく代え終えたお姉さんが再度、「お嬢様?」と問いかけてきた。
さて、どうしよう。私はフレデリカではなくて、加藤蜜柑という日本人なんです。そう言ったらこのお姉さんはどんな反応をするだろうか。
お嬢様の気が触れた、と嘆かれるだろうか。それとも、お嬢様の体を乗っ取った悪霊め、と詰られるだろうか。どちらにせよ面倒なことになりそうだ。
かといってフレデリカに成りすますには情報がなさすぎる。名前しか知らないのでは元ネタが存在するかどうかも分からなくて、物語が始まる前から詰んでいる状態だった。
思い悩んでいる間に、メイドさんは小さく息をついて「失礼します」と部屋を出ていこうとした。
声をかけられたのに返事もしないなんて、なんて愛想のない子なんだろう。せめてベッドのシーツを代えてくれたお礼くらいは伝えないと。
「――あの! ……あ、ありがとう」
部屋を出ようとした彼女の背中に感謝の言葉を投げかけた。声が少しひっくり返ったような気もするけれど最低限の礼儀を返せてよかった。
するとどうしたことだろうか。振り返ったお姉さんが、信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。
「お嬢様……いま、私に話しかけてくださいましたか?」
「あ、うん。シーツ代えてくれたでしょう? だからありがとう……って、お礼を言うのが遅くなってごめんね」
「ああああああああああああ!」
突然、口を押さえて叫び出したお姉さんに、またしても肩がビクッと跳ね上がる。そ、そんなに驚くようなこと?
ちょっと身を縮こませてビビっている私に気付いたのだろう、お姉さんはハッとした顔をして、今度は勢いよく上半身を九十度に折り曲げた。
「も、申し訳ございません! でもあの、お嬢様が話しかけてくださったのは初めてでしたので、驚いてしまって……。人を呼んでまいりますので、少々お待ちいただけませんか?」
「う、うん?」
勢いに押されて返事をしたら、お姉さんはすぐに部屋を出て行ってしまった。お話しないってどういうこと? フレデリカは病気でもしていたの?
疑問符が頭の中でぐるぐる踊り解決することもないままに数を増やしていく。顔だけじゃなくて声も超絶良いのに。喋らなかったなんてもったいなさすぎる。
それに、と再度鏡に体を向ける。
ニコっと笑えば、鏡越しに神々の最高傑作が笑顔を向けてくれる。
あぁ、なんとかこの姿を記録したいなぁ。いやいや、配信したい配信。歌ってみたでも投稿したら全世界でバズっちゃうじゃない?
配信者になるにしてもまずは配信機材からかぁ。この世界にそんなものがあるとは思えないけれど、うん、こういうのは考えるだけでも楽しいよね。
「ちょっとお待ちください」とお姉さんに言われたものの、すぐに戻ってくる気配もなく。妄想も一段落した私は室内を物色することにした。
まずは重たいカーテンを開けてみる。窓の外は眩しすぎるくらいに緑と光が溢れていて、換気も兼ねて窓を開けようとしたけれど開け方がよくわからなかった。
窓の傍の机の上にはバレーボールのような水晶玉が置かれていて、室内に差し込む陽光をきらきらと反射している。台座にどしりと据えられたそれはなかなか重たそうで、軽く触れてみたらぼんやりと緑に光りだした。
何か起こるのかな? 少し期待して待ってみたけどそれ以上の変化はなくて、少しがっかりしながら放置する。
次に目についたのは、水晶玉の奥に置かれたいくつかの本。背表紙には見慣れぬ言語が書かれていたけれど、不思議なものでスムーズに読みとることができた。放置プレイがお好きな神様は、どうやら自動翻訳機能は搭載してくれていたらしい。ふんふんとタイトルに目を通していく。
「ミュゼの禁術……?」
そこまで興味を惹かれるタイトルではなかったけども、暇つぶしに読んでみようかと手を伸ばした瞬間に――。
「おい」
色気も何もない呼びかけに、伸ばしかけた手を引っ込めた。
お姉さんが呼んできた誰かだろうかとドアに目を向けると、予想外にも全身黒づくめのおっさんがそこにいた。この部屋には似つかわしくない、清潔感の欠片も無いおっさんがドアにもたれかかっている。
無精に伸ばしたであろう髭と、手入れもされていないぼさぼさの髪。くたびれた服に、雑に巻かれたベルトには物騒なものがいくつも刺さっている。
逃げ場のない空間で、私はこの訝し気な顔したおっさんの相手をしないといけないらしい。――ああ神様。せっかくの異世界人との出会いなんだから、お相手は金髪碧眼の王子様にしてくれてもいいんじゃない?
この先どんな展開が待っているのかまったく想像もつかないけれど――彼に向って軽く頭を下げ、「対よろ」と心の中でつぶやいた。
最終話まで執筆済みなので毎日更新予定です。