砕けた玉
穏やかな午後の日差しの下。横の道路を走るそれが視界に入った時、俺は確かに意識はした。
黒の高級車。それに何だか分厚い。防弾車か? と。だから違う。断じて違うんだ。違う違う違う……。
「わたくし、メクイン国の第二王女のバコと申します。結婚してくだサイ」
「は?」
不快なブレーキ音を上げてその車から降りて来た女は、慌ててついて来た、お付きの者たちを手だけで黙らせたあと、コホンとかしこまって俺にそう言った。
聞けば、彼女は名乗った通り正真正銘の王女であり、国際交流でこの国を訪れ、別の車に乗っている父親と共にこのあと総理に会うらしい。
なのにもかかわらず、急に車を降りたのは窓の外を眺めている時に俺が視界に入ったから。そして思った。あ、運命の人だ、と。あなたもこちらを見ていましたわよね? と、彼女は俺に微笑んだ。
なんで俺を? と訊くのは無駄だろう。それが一目惚れというもの。地理には疎いのでメクイン国なんてもの俺は知らないが、この国と人種的には近いようだから、相手の好みに合ったのかもしれない。
言葉が通じるのは、この国に来るということで勉強したらしい。彼女は、その甲斐がありました。これも運命ですね、とまた微笑んだ。
そう、それは良い心掛けだと思う。勉強熱心で頭もいいのだろう。それに俺みたいな庶民にも丁寧な物言いだ。性格も悪くはないのかもしれない。照れたように髪を触る仕草も可愛い。
……ただ、ああ、俺の事は好きに呼ぶがいい。外見重視主義者。美貌差別外見差別の差別主義者。身の丈を知らない高望みバカとでも。でも俺は自分の気持ちに嘘はつけない。
……彼女は……とんでもなくブサイクなのだ。
なぜだ、なぜ、ああもしかしたら彼女の国では、ふくよかなことが富と権力者の証なのかもしれない。そう、太っている。そして顔はパーツが中心に寄っていて余白がすごい。ジャガイモの中心に穴を三つ開ければ想像つきやすいだろう。ボコボコしてるし、そう言えば色合いも似ているかもしれない。まるで……とやめておこう。本当の差別主義者になりそうだ。
俺自身も顔が良いとは言えないし、まあ思ってはいたいが残念ながらそうではない。仕事だって今はフリーターの就職難民。将来、誰かと結婚できる可能性だって低い。降ってわいた幸運。玉の輿のチャンス。
でも御免だ。そうごめんなさい。これは運命ではないんだ。俺は丁重にお断りした。
「……ええ、わかりますわ。そうですよね。確かに身分の差は否定できませんワ。でも、それによって生じる障害を肯定する気もありまセンノ」
「え、あ、ちょっと! 財布を!」
「なるほどなるホド。では、マた……」
と、護衛に奪わせた俺の財布の中身を確認したバコ王女は俺に財布を返すと、また車に乗り、去って行った。
ただ悲劇はこれをきっかけにやってきた。ゾロゾロと色々と引き連れて。
『あ、あんた聞いたよ! 婚約したんだってね!』
「はぁ?」
その夜、自宅アパートにいた俺のスマホにかかってきた、母からの電話。まったく意味が分からな過ぎて心配したくらいだ。
『ニュースよニュース! いやぁ、就職失敗してもうヤケになって事件でも起こすんじゃないかと心配してたわよぉ!
でもそうよね、昔からあんたは優しい子だったから、つらいとき神様が手を差し伸べてくれると思ってたのよぉ。いや女神様よね、うふふ。あ、でも私の娘になるんだから私はその上の神様? あはは! やだもおおおお! あーはっはっは!』
元々、一訊けば十喋るような母親だ。勝手にしゃべり続けられるのは慣れっこだったが、この時ばかりは俺も苛立ち、テレビを点け、自分で知ろうと思った。すると、あのインパクトのある顔面がテレビ画面に映し出され、俺は思わず慄いた。が、ニューステロップ、彼女の声、言葉、そして彼女が手にしている写真など、目から脳に情報が流れ込むとその衝撃で身動きすら取れなくなった。
『わたくし、バコは……この写真のお方と婚約が内定いたしましたことを、ここに発表させていただきマス。三十六年余り。王女として産まれ、その務めを国民の皆様、たくさんの方々によって支えられ果たして参りました。でも……ようヤク出会――」
テレビの電源を切ったのは吐き気がしたからでも目眩、動悸のせいでもない。
突然、ドアをノックされたからだ。居留守を、そう瞬時に思いついた俺の判断力は大したものだが遅かった。
――いるんでしょー!?
――電気ついてますよ!
――大家はどこだ! 鍵貰ってこい!
――お話をお聞かせください!
――開けてください! こっちは公共放送ですよ!
いつの間にかアパートの周りはマスコミ連中に取り囲まれていた。警察を呼んでも無駄だろう。この国の政治家、総理も大喜びだそうだ。スマホが畳の上で、ひとりでそう喋り続けていた。
『あ、いま! バコ王女様の婚約者が家を出ました! スーツを着ています! 恐らく、アルバイト先へ向かうのでしょう!
昨日取材したコンビニの店長さんにシフトを教えていただいたので間違いないと思われます! いやー、歩いてます! 今、私の隣を彼が歩いていますよ!』
俺は初めて歩いた赤ちゃんか。いや、いっそ赤ちゃんみたいに泣き出したいくらいだ。なんだ、なんなんだこの扱いは。気が変になりそうだ。俺がいつ婚約した。昨日か? 昨日なのか? 総理との面会後のバコ王女の婚約発表。この国の多くが、いやもう全員が知っているかもしれない。なにせこのお祭り騒ぎだ。怖すぎて少ししかネットを覗いていないが、どうも俺のあらゆる写真や卒業アルバム、卒業文書。そして覚えのない発言や根も葉もないデマで溢れ返っているようだった。
バイト先なんか行ってられない。きっとからかわれる。ロイヤルレジ打ちだとかなんとか言われ……。
『あ! どうしたのでしょうか!? 突然走り出しました! エリマキトカゲみたいな走り方です!
小中学校の同級生の話では運動は不得意で小学校の頃、体育の授業でキーパーを任されるもシュートを防げず、責められ泣いたことがあるそうです! あ、でも、はぁはぁ、意外と早い!』
マスコミ連中は撒いたがどこへ行こうにも顔は知られ、スマホのカメラを向けられる。
なので、帽子とマスクを買い顔を隠したが、その数十分後にはその店の店主がウキウキとした様子でインタビューに応じているのが街の電気屋のテレビで見れた。
――ねえ、あれ。
――え? マジ?
――おーい!
――あのーすみませーん!
もしかしたら俺の事を言っているのではないのかもしれない。誰がどれを指さしているのか。だが、いちいち判断するなどできやしない。走り、走れば、どうしたのだろうと見られ指さされ、国民全員が監視カメラなどとは大げさな話ではない。スマホのカメラがあるし、大抵、SNSをやっている。そうでないとしても毎日、気軽に誰かと連絡を取っているだろう。
人は人を見ている。晒し自己顕示欲を満たせる対象を探している。おかしな人を。普通じゃない人を。俺を……。
なので俺は日が暮れるまで、ただじっと公衆トイレの中に身を隠すしかなかった。
外で人の声がしたらびくっと震え、腹が鳴りそうになったら必死で手で押さえ、涙が出そうになり鼻をすすると臭気が鼻腔を突き、ますます惨めな気分になった。
「よっ……と、はぁ……」
日が落ちて、ようやく公衆トイレから出た俺は、自由とそれを俺に与えてくれた暗闇に感謝しつつ歩き、誰にも見られないよう気を付けながら自宅アパートの隣の家の庭に入り、塀を乗り越え、一階の自分の部屋の窓の前にしゃがんだ。
ここの鍵を閉めずに家を出たのは英断だ。警察の警備がある手前、マスコミ連中もここまでは入って来れない。
あとは電気を点けず、また息を潜めてじっくり考えよう。俺はそう思った。
だが、中に入り、窓を閉めた瞬間、背筋が凍った。部屋の中にあった影がゆらりと天井に向かって伸びたのだ。
「オマエ……ダナ」
「え、だ、誰」
「バコオージョ。オマエ、フサワシクナァイ! シネィ!」
「え、う、嘘!? やめろ!」
暗がりでよくは見えないが部屋の中で待ち伏せしていたその男は、恐らくメクイン国の人間かつ、バコ王女のファンいや、信者。
わざわざ飛行機に乗ってここまで来たのか、それともこの国でこれまで普通に仕事をし、生活していたかはわからないが、どうやらあの婚約会見が地雷となったらしい。
俺は掴みかかってきた男の手首を必死に抑えた。
「オマエ、トイレクサイ! フサワシクナイ! シネ! シネ!」
「それは不可抗力だったんだ!」
――どうしたんだ!
――もう帰っていたようです!
――他に誰かいるのか?
「チィ!」
警官が鍵を開け、ドアから踏み込むと男はネコ科動物のような素早い動きで窓から逃げて行った。
息を荒げる俺に警官が声をかける。
「大丈夫でしたか?」
「は、はい……どうも……」
「あなたはこの国の宝ですからね。もっとしっかりしてもらわないと」
「しっかり……まあ、はい。でも、宝だなんて大げさな」
「いやいや、あなたがバコ王女と結婚するということで本来は難航するはずだったメクイン国との交渉がスムーズに進んだとの話ですからねぇ。
まあ、私も一介の警察官に過ぎないのでニュースの聞きかじりですがね。ははははは!
警察の警備は税金の無駄なんていう輩もいますがね、まあ安心してくださいよはははははは!」
「あ、ははははは……あの、もし婚約破棄とかなったら……?」
「まあ、今の話も白紙でしょうね」
「あ、でもまあ白紙ならまだまあ……また交渉すれば……」
「まあ、どちらが破棄したかによりますが敵対も有り得ますねぇ。
向こうは小国だけど同盟国は多いし、慕われているようですし経済制裁とまでは行かないでしょうけど貿易停止、取引停止で企業や庶民の生活に影響があるでしょうなぁ、とコメンテーターの誰かが言ってましたよ。ははははは!」
「そ、それは……大変……ですよね、ははは……」
「我々も減給になったりして。そうなったら逮捕しちゃおうかな、なんてははははは!
まあ、破棄できるにしても向こう側からのみでしょうし、でも王女はあなたに大変惚れているようだから心配ないですよはははははは! 今日もテレビのインタビューでね、そりゃもうこっちの顔が熱くなっちゃうほど語ってましたよははははは! いいお嬢さんみたいでね、羨ましいねぇははははは!」
「はははは……ちなみに、あなたの目から見て、王女はお綺麗ですか……?」
「職務上、応えられる立場にないので。では、おやすみなさい」
シェイクスピアの戯曲に、これと似たような話はないだろうか。まあ、何かはあるだろう。俺は暗い部屋でひとり、月明かりの中で読み返した本を積み上げた。
【どんなに長くとも夜は必ず明ける】
そしてマスコミがまた俺を取り囲む。
【今が最悪の状態と言える間は、まだ最悪の状態ではない】
同意。結婚式とその後の生活を考えるとまだ最悪とは言えない。
【外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる】
半分同意。世間は欺かれっぱなしだ。だが外観はそのまま中身が、性格が滲み出ている。あるいは外観が性格を作るのか。卵が先か鶏が先か。どっちだったかな。
まあ、どうでもいい。バコ王女。彼女は最悪だ。身勝手で人の、俺の気持ちなど考えない。本人にその自覚があるかはわからないが。
【ブルータスお前もか】
わかる。わかるよカエサル。あれから匿ってほしいと何人もの友人に電話し、いいよと言ってもらい喜んで待ち合わせ場所に向かうとそこにマスコミが待ち構えていたことが何度あったか。
【ホレイショー、天と地の間には、お前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ】
ああ、思いもよらなかったよ。まさか
【生きるべきか死すべきか、それが問題だ】
自分が自殺を望むなんて。
ああ、バコ王女。あなたはなぜ俺を見つけたのですか。
あの時、あなたがあの窓の外を見ていなければ、こうはならなかったでしょう。
そうすれば俺はこのように積み上げた本の上に乗り、縄に首を掛けなくて済んだのに。
ああ、なぜ……なぜ……
「……お気持ち、よくわかりましタワ」
「えっ、バ、バコさん、な、なんで、あ、俺、声に出して、いや、それよりもなんでここに」
「大丈夫。誰も来ませんわ。情報を流し、あなたは今、わたくしと一緒にホテルの部屋にいることになってまスノ」
「ホテル、おえっ、あ、いえ。でもなんで」
「欺くためでスワ。全員を。そう全員……お父様ったらテレビやネット上に流れるあなたの悪い噂を信じ、け、け、結婚を無いものにしようとぉ!」
「え、やったぁ! あ、いや、へー残念ですなぁへへへへへ。いやー、ネット住民というやつはほんと愛すべき、いや憎むべき連中ですよ、まったくもう」
「わたくしは……あなた様のためなら家名を捨てることも厭わないデスワ。そう、ロミオのように。王女を捨て、バコに。ただのバコに」
「ぶふっ、バコバコって……いえ、あなた様は王女! そう王女であるべきです! そして必ずやもっと相応しいお人が」
「でも、現世で結ばれることは無理。なので、あなた様と共に逝きマス」
「へ、はい?」
「あなた様もそう思っていたんでショウ? 首に、縄ヲ」
「え、あ、いや、これは違くて」
「黙って!」
「うぐっ! やめ、ぶ、口を、はなせ、おえっ、ああああ押すな、足が、あ、あ、ああああ!」
「大丈夫。イクまでこうして抱きしめていてあげますカラ……」
いやだいやだいやだいやだしにたくない。
ああ、ズボンが脱げた。まるだしもろだしペニスの商人だぁ。
ああああ、いやだいやだしにたくない。もれるこわいこわいもれるああああ、ぶたぶたぶたぶたおれのしょんべん浴びてこうこつな笑みうかべるこいつはブタそのものだいやだいやだいやだ今にマスコミがくるかってなことかかれる死ぬ前にへんたいてきなせっくすしてたってかかれるんだ親にともだちにみんなに見られるあの世でふたりはずっとむすばれるとかかかれるんだいやだいやだいやだそうなりそうでいやだいやだ…………
「うふふふ。初めからこうすればよかったんでスワ。死が二人を結びつけてくれましタネ。仮初の死ガ。
この国ならだれにも邪魔されませんワ。大丈夫。あなたの面倒は私が見マス。ずっと、ずっと。まぁ、あなたの唇。お日様に当たっていて温かいでスワ。うふふふふふふふふふ」
い……や……だ……い……や……い……