神樹神䛡大繋 始まりのへび
神樹神話体系3作目。前話からの連続性はないので、ここから読んでも大丈夫です。
何でもない日常を幸せと呼ぶならば、私の幸せは、きっとあの頃になるだろう。
私がまだ、私になる前。
私が生まれたのは偶然であり、そして、必然であった。
境界を泳ぐ大鯨、その背中にたまたま壊れた世界の欠片が引っ掛かり、長い年月を壊れた世界の欠片は大鯨と共に境界を旅した。
いつの間にか欠片は欠けた破片をより集めた。
時にそれは、別の世界の欠片であったり、大鯨の欠片であった。
何時しか継ぎ接ぎだらけの私は、継ぎ接ぎの自我を持ち始め、大鯨の背中で周りをキョロキョロと警戒するまでに至った。
『目が覚めたかい、小さいの』
最初、私はその声の主がわからなかった。
それぐらい大鯨は大きく、私は小さく、矮小であり、卑屈であり、今の私がいったい何であるかも、どこにいるかも理解していなかった。
キョロキョロと周りを見回す私を見て大鯨はその体を揺らして笑った。
『コレコレ、私だよ、君が乗っているのが、私だよ』
その揺れで、私は間違いなく私が乗っかっている世界そのものが大鯨なのだと理解した。
「…ココハ」
『私の背中だね』
「アナタハ?」
『私かい、私はただの鯨だ』
実際に彼が自分自身を本当に鯨であると認識していたのかは、わからない。
しかし、彼の伴う個としての概念が、彼にあえて名を付けるならば鯨と呼ばれるものであると判断したのだろう。
ただ、私は鯨というものを知らなかった。
だから、その言葉に対してできたのは、微かに首を傾げることだけである。
「ナラ、ワタシハ、ナンダ?」
彼はこのすべてが曖昧な境界をして、鯨として個を認められた存在。
揺るがぬ境界の運び屋に私の意義を尋ねたのは正解であったのか、それとも大いなる間違いか。
『ふむ、あまり見たことがない姿だが、境界の奥地、すべての欠片が集積される知の山脈がお主を吐き出した。
狡猾なるモノ、奪い去るモノ、生命の根を喰らいしモノ
あれは、君の原型を『へび』と呼んでいたよ』
知の山脈が何であるかはわからない。
しかし、あらゆる欠片を飲み込む暴虐の悪食が、あらゆる欠片から集めた知から私の存在をへびと定義したのは、彼の言葉の重みと共に理解させられた。
『あれをして食いきれぬその生き意地汚さ、君はあれの欠片すら咥えこんで私の背に乗ったのだよ』
世界が揺れる。
鯨が揺れる。
大きな声で大笑いを繰り返しながら、私の運び手は境界を泳いでいく。
「ドコニイクノ?」
『からくりの魔女の住まう場所だ、新たな芽が出る、その番人を魔女が探していてね』
「…め」
『ああ、君は、木を育てるんだ、境界を繋ぐ道を。
道を造ることに生きがいを見出すあの魔女が、新参者の君をご使命だ』
長く緩やかな旅だった。
『それが、新たなへびかい』
キイキイと球体の関節を軋ませて。
杖を突いた黒い襤褸を引き摺る魔女は、如何にもな風情を纏った木と草の塊だった。
丸い関節だけが、明らかに作為的な質感を持ってその体をキイキイと軋ませる。
上を向く。
遠く遠く上見る。
『馬鹿だね小さいの、私は下だよ、そのデカ物と同じさね』
言われて、自らの乗る世界を撫でると。
何か荒い刃物で削られたような木の質感が返ってくる。
『その襤褸が私の目だ、丸いのが付いているだろう、それが私、一個が私であり、それらすべてが私であるのさ』
いつの間にか周りを囲むように沢山の襤褸が杖を突き、その身をキイキイと鳴らしながら私を取り囲んでいた。
『何ができる?
小さいの』
襤褸の中でひと際沢山の関節を持つ襤褸が代表するようにカタカタと口を開く。
「カジル」
『……そうかい。芽はかじるんじゃないよ』
呆れたように魔女たちは、ぞろぞろと姿を消していく。
最後に残ったのは、ジッとこちらを見つめている、球体を持たない襤褸だった。
球体の魔女と同じように、二本の棒で立っていた。
細い幹があって二本の枝が伸びて、頭に歪な丸が乗っていった。
それは、私が初めて見た人型と呼ばれるもの。
『テラという、仲良くしな』
「……」
とても無口な隣人ができた始まりであった。
ここには、鯨の背と違って朝という概念がある。
夜という概念がある。
テラと呼ばれた襤褸は、朝起きて夜眠るらしい。それに合わせて、目をつぶると朝ツンツンと突かれるようになった。
どうやら警戒しているらしい。
しばらく目を閉じていると、むんずと掴まれて芽の傍まで引きずられていくのが最近の日課である。
大鯨は何時しか消えていた、新たな界を目指して境界を渡る、それこそがあれの生きる意味だと球体の魔女がしたり声で呟いているのが聞こえた。
芽というのを眺めるのはひどく退屈なあり方だった。
鯨の背中に乗っていると境界が移ろいゆく姿を見ているとあっという間に景色が過ぎていく。
渡こそが本質であるらしいあの鯨にとって、時間という概念は無いに等しいらしく、過ぎていく境界にはへびにとって時に喰いなじみのあるモノすら映るときがあった。
「ちゃんとみる、めっ」
ひどく無口な隣人は、私が生れ落ちたばかりの存在であると理解すると、自らを所謂姉とでもゆうべき存在と定義したらしい。
キイキイと奏でる魔女よりも動きの無いその顔と呼ばれる部位に、微かに偉ぶるような気配がするのをここしばらくの邂逅にて徐々に察することが出来るようになったのが、まったく成長の気配のない芽を眺める中で手に入れた微かな成果である。
「テラ、これみてても、おもしろくない」
片言であった私の言葉は、鯨以上にお喋りな魔女と無口な隣人との邂逅によって多少の改善を遂げていた。
「おもしろくない、でもこれが仕事」
座り込んだ上に私を抱き上げて、テラは今日も『芽』を見つめ続ける。
その場所が膝と呼ばれる場所であると、私は知った。
私を乗せるのが足、私を抱え込むのが腕、折れた場所は肘、そして、まったく揺るがない歪な球体は顔というのだと。
ただ、背中と呼ばれた場所から伸びる二本の枝については、いまだ教えてもらってはいない。
まるで魔女の球体のような関節と、そこから伸びる何本もの枝、枝、枝。
まるで魔女の球体のように、キイキイと鳴くその声が、ひどく寂しげに聞こえるのは何故なのか、私は知らなかった。
『それじゃあ、私は行くよ』
ある日、魔女が旅立っていった。
芽から伸びる根が大きくなったから、もう魔女が支える必要は無い、あっさりとそう語って新たな界に向かってキイキイと音を響かせて渡っていった。
確かに、芽はいつの間にか大きく伸び、その根は魔女の大きさにも引けを取らない立派な根を界に喰い込ませ新たな世界の形成を始めていた。
私たちより小さかった芽はいつの間にか、見上げる程に大きくなり、今日も私はテラの膝の上で木をじっと見つめていた。
「行っちゃったね」
「うん」
「寂しい?」
「大丈夫、テラは、お姉ちゃんだから」
ポタポタと両の目から雫を零しながら、テラはジッと木を見つめていた。
私は、悲しさというものを知った、寂しさというものを覚えた。
それは、大鯨との別れ共に芽生え、魔女が水を注ぎ、テラが育てたモノである。かつて、仄かな自我と共に暴虐の山脈と喰らいあっていたころには覚えなかった確かな何かが芽吹いていた。
『へび、芽を見つめな、それを育てるんだ。
テラはそれができなかったから、目に見える「芽」を与えた。
あんたには、芽吹いたんだろう、それに水を上げるんだ、そしてそれが育った時に決して目をそらしちゃいけない。
目をそらせばそれはあんたを食い殺す、それほど、それは扱いの難しいものさ』
だから、へびはそれを見つめ続ける。
その時は、まだ、それに飲み込まれる己も見えずに、雫を、水を与え続けていた――――。
『むごいのぉ』
大鯨は今日も境界を泳ぐ、その姿は時という概念すら泳ぎ切る。
その瞳は、凪のように大海を見つめ続けていた。
その目に映るのは、大樹の前で怒り狂う大きな「へび」と、木の根の大地に住まう人と呼ばれる生命を導こうとするテラと呼ばれる機人の姿。
怒りという己の中の大樹を育て切った蛇は、その怒りに振り回されて新たな世界に喰らいついた。
嘗ての己のすべてであった機人を奪った世界に怒りを込めて、己が至るはずだったモノを、戴くはずだった新たな芽を、実るはずであった最初の果実を奪ったすべてに、己の育てた芽を、育った木を、そのすべての呪いを込めて喰らいつくそうと顎を開く。
嘗て暴虐の山脈から喰らいちぎった怒りという芽を、大樹を、確かにあのへびは育て、そして、小さくも一つの世界を喰らうほどの大身へと育て上げた。
すでに、悲しみも慈しみも愛しさすらも、その怒りにくべて大樹と成した。
始まりのへびであった嘗ての己と同じように。
『だが、気が付いているかへびよ。
あの日から、主はずっと泣き続けている、その芽に水を与えるために。
その雫の意味までくべるで無いぞ、へびよ―――。』
大鯨の呟きは揺らぐ境界へと飲まれていく。
今はまだ、先の閉じられた揺り籠の中で静かに己の芽を見つめる二人には届くことなく。
まだ、私たちは幸せな夢を見ていた。