序章:4 " 自己の確立"
異常な状態、とローブの男からはっきりと告げられる。しかし自身に起こっている不気味な無力感に赤ん坊は納得していた。
(……うん。やっぱりおかしいよね…今のボク)
自分の手を眺めながら赤ん坊は無気力にも呟いた。
(…最初は感情が無いことに気付かないで当たり前だった反応をしていたけど、今では感情が無いことに違和感を感じなくなっている…)
『……』
(…それに前世の知識と経験は覚えていても…肝心の記憶と感情が無いから忘れている事を恐怖と認識出来なくなっているよ…おまけに痛みも感じない…)
記憶、感情、そして痛覚。人としての何もかもが足りていない。これではロボットや人形と何も変わらない。
(ねぇ…ここはどこなの?…ボクは一体何者なの?…なんで転生する事になったの?…どうして無感情のままなの?)
唯一、疑問だけは湧き出る程残っている。この世界に来てから赤ん坊はまだ何も知らないままだ。まだ、何ひとつとして解決していなかった。
(…ボクはもう…死ぬまでこのままなの…?)
虚な眼でローブの男を見ながら赤ん坊は尋ねた。
すると赤ん坊は小刻みに震えていた。ただし赤ん坊が動いているのでは無く、赤ん坊を抱くローブの男の腕がふるふると震えていたからだった。
そして赤ん坊の柔らかい頬に一筋の熱い雫が垂れて濡れた。
ローブの男が流した涙によって。
『……っ』
次に気づいた時には赤ん坊は顔を覆われるようにローブの男に優しく抱擁されていた。
(……なんで…泣いているの…?)
赤ん坊は質問をした、悪気があったわけでは無い。
ただ、ローブの男の意図が分からないからであり、それは相手の気持ちすら理解できなくなっていることを証明している。
『すまない、つい。本当はキミの方が泣きたいはずなのに』
(…いえ)
赤ん坊に泣かせるつもりは微塵もなかった。それでもこのローブの男は誰かの為に涙を流せる優しい人なのだろうと考えてはいた。
泣けない自分の代わりに泣くなんて、もし自分に感情があったらこんな風に泣いていたのかな、と男を黙って観察していた。
その後、落ち着いたローブの男は涙を拭い、改めて赤ん坊に顔を向けた。
『かさねがさねすまなかった。それで先程のキミの質問なんだが、記憶についてはワタシも心当たりが無い。しかし感情については実をいうと解決できることなんだ』
(…えっできるの…?)
聞いておいてあれだが、赤ん坊はまさか解決出来るとは考えていなかったので不意を突かれた気分になっていた。
記憶の方も戻ってくると更に助かるが、この際文句は言えない。
『というのも、今のキミは"自己の確立"がされていない状態なんだ』
(…じこのかくりつ…?)
聞き慣れない言葉が出てきて、赤ん坊は復唱するように呟いた。
『いいかい。"自己の確立"とは、自身という存在が形成されること、つまり"名付け"をすることで起こる現象だよ』
話を聞けば、この世界において名前の有無は前世以上に重要なモノらしい
『"名付け"によって魂に名前が刻まれることで世界に存在を認められ、自身の感情と意思を認識出来るようになる、これが自己の確立の一連の流れだ。此の世界で生きるには絶対に欠かせない儀式だと思っておいて欲しい』
(…要するにこの世界では名前をつけて自身の存在を確定させてもらうことで自我を得ることが出来る…逆にそれが無いとボクみたいな無感情な人のままになる…ということ?)
『そう。そして此の世界で名付けがされていない者は"ナナシ"と呼ばれ、一切の思考をせず他者の命令のみに従う自我のない状態の人々になるんだ』
(…ナナシ…その人達はどうなるの?)
『ナナシは主に奴隷としての人生を送っていることが多い』
ナナシの大半は奴隷として扱われているようで、その為どの国も奴隷の所持を許されているらしく、むしろ反奴隷国家が少ないとされているとのことだ。
(…だけどボクは感情が無いだけで考えることは出来るよ?)
本来のナナシの違いに気付いた赤ん坊はナルに聞き返した。するとナルはすぐに返答した。
『たしかに、ナナシは本来自ら思考することは出来ない。だが、キミのように異世界からやってきたネストや意志の強い者達だけは感情を無くすだけに留まり、知識と経験、記憶は残ったまま思考することが出来るんだ』
(…そうだったんだ…)
それに当てはまるのが今の赤ん坊。いや、記憶も無い状態だから少し違うな。
『もっとも、キミは記憶まで無くしているようだけどね』
話を聞く限り赤ん坊のようなケースは転生者を含めても極めて少ないと考えておいたほうがいいようだ。
『此処からが本題なんだけど、実はナナシに名付けをすると、個人差はあるが感情を取り戻すことが出来るんだ』
(…あぁ、なるほど…アナタの言いたいことが分かった)
『うん、その通りだ』
ローブの男の考えが理解出来た赤ん坊。その赤ん坊が理解を口にする前にローブの男は頷いた。
『どうだろう?キミが良ければ、ワタシがキミの名付け親になっても良いかい?』
ローブの男の誘いはまさに"棚からぼたもち"だった。名付けをして貰えれば無感情のまま過ごすことが無くなるのだから。
しかも赤ん坊の意志を尊重した上でこの話を持ち掛けて来ているのだ。逆に断る理由があるのか聞きたい。
(………その前に答えて欲しいことが二つある)
だが感情が無い赤ん坊はこの話にすぐ飛び付かず、ローブの男に条件を突き出した。
『なんだい?』
(…まず一つ目…ボクはまだアナタの名前を聞いていない…名前を教えて…)
この時までローブの男は自身の正体を未だに明かしていなかった。
いくら感情がなくても、いや感情が無いからこそ理性的になって相手の思惑を考えられたと言える。
ここにきて自身の名前を明かせなければ、何か裏があるのではと赤ん坊は疑っていた。
『あっ!すまない。話し込んでいて自己紹介を忘れていた』
肩透かしだった。突然思い出したかの様な反応を見せたローブの男はその後、頭を下げて謝罪をし赤ん坊を抱え直した。
そして、コホンと咳払いをひとつして赤ん坊に自己紹介をした。
『では改めて、ワタシの名は"ナル"。此の世界に三本のみ存在する世界樹、"天樹"から世界を見守る者、"天樹の管理者"だ』
と最初の威厳があった時の声と佇まいで自己紹介をしてくれた。赤ん坊はその姿勢を気にせず、少し間を空けてから会話を続けた。
(………ホントにただ忘れていただけなの?)
『どうやら誤解を招いてしまっていたね。何しろこうして誰かと話をするのは数年ぶりだったんでね。つい嬉しくなって肝心なことを飛ばしてしまったよ』
(…こんな話を聞かされた後の事を考えると…正直今の状態は都合が良かったかも知れない)
こう何度も感情の有無について考えるのもアレだが、とても大蛇達を追い払った男には思えない程このローブの男改め、ナルは別人に見えた。
『謝ってばかりで本当にすまない。それで、もう一つの質問は?』
(………どうしてボクを助けてくれたの?)
二つ目の質問を始めた赤ん坊。正直名前が偽名であっても別にどっちでもよかった。
寧ろこちらが大本命とも言える。
(…ボクはアナタに助けられた…いわばあなたはボクの命の恩人だ。だからどんな見返りを求めたとしてもボクは可能な限り叶えたい…と感情があったら思っていたかもしれない)
『……』
(…でも今のボクには感情が無い。感情が無いからアナタがなんでボクに色々と教えてくれたのか…その意図も分からない。けど考えないわけじゃない…)
赤ん坊はただ知りたかった。記憶も感情も失くした今、残されているのは知識と経験のみ。この場合、知識欲だけが赤ん坊の行動原理となっていた。
(…もう一度言うよ。何故あなたはボクを……助けてくれたの?)
たとえ何かに利用されるような理由であったとしても、こんな見ず知らずの感情が無い自分を助けてくれたナルの考えを知りたい。仮にその理由を理解することが出来なくても、恩を返す義務があると理論上で納得していた。
『……その質問の答えは、キミに名付けを終えた後でもいいかい?』
(…なんで?)
『今のキミには多分、伝わらないと思うから』
二つ目の質問に落ち着いた姿勢でナルは答えなかった。
否、正確には答えを後回しにしようとしていた。
それも今の赤ん坊では伝わらないと言う辺り、言い換えれば名付けの後なら理由が分かるということになるわけだ。
(………)
もしここで断ろうものなら嘘であろうと本当であろうと、名付けのチャンスを無くしてしまう。
そうなれば感情は元より、助けてくれた理由すら聞けず終いになる。
どのみち赤ん坊に断るという選択肢は無かった。
(…名付けが終わったら僕の質問に答えてくれる?)
『もちろん。天樹の管理者ナルの名の下、必ず答えると誓おう』
(…わかった。約束だよ…)
『うん。約束だ』
結局、赤ん坊が一歩下がるカタチで二人は口約束を交わした。元々不安は無いが、ただの口約束なのにナルの発言にはチカラがあったので信用しても良いと判断した。
(…それで…名付けって何かの儀式みたいに必要な物でもあるの?)
『いや、確かに名付けは儀式のひとつとしての側面が強いが、特に必要な物は無いよ。ただ名前を決めてその名を対象者に向けて呼称するだけでいい』
(…そっか)
『ただし自己の確立後、直前までに体験した事を取り戻した感情が遅れて反応し、一気に膨れ上がってくる恐れがある。その時に精神にかなりの負担をかけることになる。ここまでいいね?』
要約すると自己の確立が終わった後、感情の爆発が起こって精神的な痛みが伴うとのことらしい。
(…うん、大丈夫。ちなみに負担が続くとどうなるの?)
『下手をすれば廃人になってしまう、がキミは異世界を渡り歩いた魂を持つ転生者であるネストだ。負担は大きいかもしれないけど必ず耐えられるはずだよ』
(…了解。なら始めよう…)
一応は大丈夫なようだ。とはいえ感情が無い今、不安は無い様子の赤ん坊。何よりナルの言葉を信じる姿勢だった。
『それじゃあ早速良い名前を考えよう。どうせなら人生の目標とかを掲げた名前なんかがいいね。何か希望は無いかい?』
いよいよ、赤ん坊の名付けが始まろうとしていた。