霧の中
昨日の夜に飲んだアイスコーヒーがまだ残っていた。何の気なしに手に取って口にした。それは温くてとても苦かった。
最近よく行くスナック「紺」は、いつにも増して客が多かった。21時ごろに扉を開いた時にはカラオケがもう7曲も入っていた。カウンターの右端に座り、瓶ビールで口を湿らせながら、みほちゃんに声を掛けた。
「今日も忙しそうだね。ボックス席は見ない顔だけど。」
みほちゃんは、わざわざ前まで来て、足を止めてくれた。
「うん、開店からたくさん来てくれて。もう酔っちゃったよ。ボックス席の方はママの昔からの知り合いみたいだよ。私もこの前お会いした気がする。」
えーっと、何だっけ?ビールだ、と言いながら、グラスを運んでいる。
家から近いということと、年甲斐もなくみほちゃんを気に入っているということもあり、週に一度は店を訪れている。煙草の銘柄も覚えてくれて、切らしたときはストックから出てくるという嬉しさもある。もちろん有料だが。基本的にビールしか飲まないのだが、みほちゃんにもビールを注いであげると、喜んで乾杯してくれる。この子はお酒なら何でも飲めそうだ。飲みっぷりも悪くない。
予約されていたカラオケの曲の大半は後ろのボックス席の男女が歌っている。ひとりだけとても上手な男性がいる。50歳前後の男女4人は、取り立てて騒ぐでもなく、大人しく飲んでいるでもなく、こなれた感じで場を楽しんでいる。身に着けているものも、ブルーカラーのそれとは違いそうだ。
みほちゃんはバツイチで子どもがひとりいる。実家に戻ってきているので、この時間は親が見てくれているそうだ。離婚の原因は分からないが、きっと旦那側にあるんだろうと踏んでいる。水商売には似つかわしくない見た目で、お酒やタバコに見識がない。時事問題もやや疎い。でも愛嬌がある。
別にどうこうなりたいわけじゃないが、常にみほちゃんを目で追ってしまう。みほちゃんが他のお客さんと話しているときも。
「北川さん、今日ペース早いね。」
ちゃんとした年齢は知らないが、同じくらいの40代前半と思われるママがカウンターから身を乗り出して、話し掛けてきた。
「そんなことないよ、いつもこんなもんでしょ。ママも一杯飲んでいいよ。」
「ありがとう、でも今はいいわ、向こうで結構飲んじゃったし、落ち着いたら一杯もらうから、まだ帰っちゃダメだよ!」
ふいにドアが開いた。常連の横山さんだ。と、その隣には見かけない男性もいる、おそらく横山さんの友人だろう。
賑わっている店内で座ることのできるのは、俺の隣の2席だけだから、迷うことなくこちらへ歩んでいる。軽く会釈をすると、しわくちゃの笑顔を振りまいて、友人を紹介してきた。
「北ちゃん、元気?こいつ、吉田っていうの。よろしくしてやってよ。」
後ろで、横山さんの友人には似つかわしくない二枚目が会釈した。
普通、俺の隣に横山さんが座るのだと思うが、なぜか吉田さんが横に座った。とりあえず、横山さんと3人で乾杯をして、初対面の吉田さんと初対面でよくする話をした。
吉田さんは意外に若くまだ30代で結婚もしていない。地元は奈良県奈良市とのこと。こてこての関西弁で人当たりも悪くない。スナック「紺」にくるのは初めてじゃないようだ。横山さんとも、この店だけの知り合いで、店の前で偶然会っただけで仲良くも何ともない、と平然と話すことに好感さえ覚えた。
「二人は知り合いなの?」
みほちゃんがグラスを片付けながらカウンター越しに聞いてくる。
先に吉田さんが答えた。
「違うねん、今日初めてお会いしたんやわ。仲良うしてもらっちゃってさ。」
あ、意外とみほちゃんと仲がいいんだな、と思わせる口調にイラついた自分がいることに驚いた。
「みほちゃん、瓶ビールもう1本お願い。」
と、吉田さんとみほちゃんの会話を途切れさす間の悪い注文をしてみた。意地汚い自分が恥ずかしい。
つられるように、吉田さんもハイボールを頼んだ。
ボックスのグループのカラオケは続いている。
「後ろのグループのカラオケ、うるさいですね。歳のわりに若い歌を歌っちゃって。大丈夫っすかね?」
吉田さんが突然毒づいた。
「そうだね、まあ、こういう場所なんだし、仕方ないんじゃないの。」
と当たり障りの無い返答をすると、納得していない顔で、そうですね、と頷いた。一体何が気に入らないのか。突然の変貌に少し驚いたが、酒のせいもあるのだろう、そういう人もいると改めて思い直した。酒に飲んでも飲まれるな。こればかりは社会人として心に留めておきたい。最近はあまりないが、客同士でのいざこざが店内で勃発することがある。苦手だ。全く関係ないところで勃発しても、広くない店の中だから、何かと被害を受けることもある。飲み物がズボンにかかる、押されてぶつかってくる、この程度ならいいが、グラスや皿を投げ出し始めると厄介になる。血の気の多い客ばかりだと、店としては赤色灯の車を呼ぶことも辞さない。
この前は、常連の70歳を越える佐伯さんに対して、見たことの無い若者が3人がかりで寄ってたかって、暴言を吐いていた。原因はよく分からないが、佐伯さんも軽くあしらえばいいのに、ムキになって言い返すばかりか手をあげたのがよくなかった。仕方なく仲裁に入ると、何故か若者の会計を支払うハメになった。
「たまに、ああいう一見さんが来るんだよ。運が悪かったね。」
と、ママが会計は大丈夫だということを伝えてくれた。運が悪かったのは店側だったのかもしれない。
心配してくれていたのか、みほちゃんも帰り際に、「また来てくださいね、待ってます。」なんて言うから、また翌日に行ってしまった。
お酒も進み、時間は22時半を回っていた。
横山さんは22時前に赤ら顔で上機嫌に帰り、吉田さんは何杯目か分からないがハイボールを飲んでいる。顔が赤くならないのは、お酒が強いのか、肝臓が壊れているかどちらかだ。
「お酒強いんですね、いつもどれくらい飲むんですか?」
「いやいや、もう吐きそうやわ。なんちゃって。」
まだまだ飲めそうな感じを出している吉田さんは、きっともう限界が近い。さっきからしゃっくりが止まっていない。酒が飲めるから勝ったなんて大学生じゃあるまいし、何も得るものはないのだが、勝手に対抗している自分がまたほろ苦い。
しばらくすると、カラオケの予約曲もなくなり、お酒の「おかわり!」の声も聞かなくなっていた。後ろのボックス席のグループの人たちが、さて帰ろうか、と言っているのが聞こえたので、ママが今日はありがとうございました、と丁寧にお礼を伝え、金額の書かれた紙を手渡した。歌の上手な男性が金額を確認するや否や、「あれ、ちょっと待ってよ、こんなに高いのか!?」とやや大きい声を上げた。店内の空気が張り詰めたものに変わった。グループの他の人は、まあこんなもんじゃないのか、という感じを醸し出していたが、声を上げた男性が徐々にヒートアップしていくのが背中越しに分かる。
引き攣った顔をしているみほちゃんを手招きする。
「ママの知り合いじゃなかったの?」小さな声で聞いてみる。
「うん、そうだと思ってたんだけど、違うのかも。どうなんだろ。」
帰ろうと立ち上がっていた男女4人は、一旦ボックス席に腰を下ろし、金額に対する説明をママから受けている。怒り心頭だった男性以外は冷静だったので、酔って気が大きくなっている男性が納得すれば解決すると思っていた。この店は、ボッタクリをするような店でもないし、金額設定も妥当だと感じている。どうせ、ボトルを何本か入れたり、カラオケを歌ったりで金額が上がったのだろう。しかしながら、様子がおかしい。冷静だった他の男女も、そんなに高いの?とか、こんなの頼んだっけ?という声がする。これはたぶんよろしくない。手前のカウンターのお客さんを相手しているみほちゃんも、さらに気が気ではない顔をしている。今までに見たことがないその表情もしおらしくてとてもいい、なんて思っている場合ではないのだが。
「申し訳ございませんが、これ以上の説明はございません。」とママも苛立ちを隠さないようになってきた。端数を切ってキリのいい金額でママが場を収めようと試みたが、それすら納得いかないとなると、第三者の介入が必要になる。店側としても警察を呼びたくないが、正当な金額に対しての支払い拒否となると、それは無銭飲食に近い詐欺行為となる。ママがみほちゃんを呼び、小声で何か話している。警察を呼ぶかどうかの相談だろう。重くなっている店の空気の中、喉を通るビールも苦みを増してきた。
ふと横を見ると、吉田さんがいない。どさくさに紛れて帰ったのかと思ったが、奥のトイレからふらふらと出てきた。この張り詰めた空気にビビっているというわけでもなさそうだが、言葉を発することはなく、やや下を向きながら歩いている。
席まで戻ると、椅子には腰を掛けず、「ほんじゃあ、おれも帰るわ。おいくら万円ですか?」と関西人だからなのか、ただ酔っているのか分からないお会計時にあるお決まり文句を言い出した。「もうお帰りですか?」とこちらもお決まりのセリフを美保ちゃんがやや元気のない声で発した。するとまた、「じゃあ、もう1杯だけもらおうかな、ハイボール。」と改めて隣の席に座り直した。トイレから帰ってきたときの表情とは打って変わってにこやかに、やや上を向いて、本日の世の中の出来事がよく分かるテレビのニュースを眺めている。
「みほちゃん、おれも最後にもう1本瓶ビール。」とこちらは空気を察して、場を繋いでみた。
「吉田さんも、北川さんもありがとうございます。ちょっと待ってね。」とみほちゃんが笑顔になってくれた。この笑顔がたまらない。
しかし、後ろのボックス席のお会計問題はまだ解決していない。
「ママ、やっぱり納得できないよ。高すぎるって!ボッタクリじゃん!」」
まだ解決しそうにない。聞き耳をする時間が続いていく。
こうなると警察をどちらが呼ぶのかという段階になる。
「おまたせ、北川さんの瓶ビールと吉田さんのハイボールです!」
みほちゃんがさっきより少し元気よく手元に渡してくれた。ありがとう、とみほちゃんに言ったか言ってないかの瞬間だった。
吉田さんが座ったまま肩越しに手渡されたハイボールを後ろのボックス席にグラスごと投げるのか、というぐらいの勢いでハイボールを高々と掲げてから一気に飲み干した。ぐぷっ、という下品な音が聞こえたが、吉田さんはそれも飲み干した。ふぅ、と一息吐いてから立ち上がると、今度は後ろのボックス席に足を進めた。突然の行動にボックス席の男女も構えた様子だったが、先に吉田さんが恭しく頭を一度下げてから、話を始めた。
「すみませんねえ、ママもみほちゃんも、あ、みほちゃんってこのかわいい女の子ね、だいぶ困ってますし、ここは私がなけなしの財布からお支払いしますので、今日のところはお引き取りくださいや。」
ボックス席で大きな声を上げていた男性も気圧されている。酔っていたのかと思っていたが、しっかりとした呂律で、法律を武器にした弁護士のような口調で理路整然と話している。ボックス席の男女も、
金の問題じゃないんだけど、とか強がっていたが、おそらくこのまま吉田さんが支払って、事は解決するだろう。
吉田さんの様子を見ると至って冷静で、今となってはボックス席で一緒に座って談笑をしている。顔が赤くないのは、普通に酒が強かったのか。しゃっくりも、ただ生理的に出ていただけなのか。そもそも、カラオケがうるさいとか怒っていたのも、この予兆を感じ取っていたのか、と邪推までしてしまう。
みほちゃんがボックス席に足を運び、吉田さんからお会計を頂こうとしている。さっきまでのみほちゃんの不安な顔は一切ない。吉田さんと楽しそうに何かを話している声が耳に入る。
「いや、やっぱり自分たちで払うよ。」
ボックス席の男性が声を発して、照れながらも今までの無礼をママに詫びて、お会計を済ませた。普通の会社に勤めているのであれば、揉め事は避けたいと思うのは当然のことだし、お酒が入って気が大きくなっていたとしても、それは通用しない。
「また来てくださいね。」
ママもにこやかな営業スマイルを浮かべてお礼を口にした。誰も損をしない一番いい方法で解決したと言っていいだろう、間違いなく吉田さんのおかげで。
さて、この店内で、置いてけぼりは、そう、俺ひとりだ。瓶ビールの残りも少なくなってきた。
それにしても、この吉田さん、勝算があってあんなことを言ったのだろうか。お金を支払うことになるのはまだしも、ケンカに発展することだって考えられた。向こうは女性が1人いるとしても男性が3人いる。いくら体格がしっかりしているとはいえ、人数的に不利になったに違いない。そこに俺が加勢するかは別としてだ。
店内で客同士がいざこざを起こすこともあるが、それ以上に、仲良くなることの方が多い。でも俺はどうだろう。もちろん挨拶を交わしたり、世間話をする常連さんは数人いるが、基本的に一人で斜に構えている。そして、みほちゃんを見ている。ああ、そうか。恥ずかしいな。そういうところじゃないよな。「紺」には失礼だが、もっと高級なバーやクラブなら、格好もつくだろうが、この店でそんな態度じゃ。
みほちゃんは、楽しそうだ。吉田さんをカウンター越しにずっと見ている。
視線を送っても、気付くことは無い。お会計をして帰ろう。
「ママ、お会計お願い。」
みほちゃんではなく、ママに頼んだ。
滞りなく、支払いを終え、扉を開けて、外の生ぬるい空気を吸った。見送りはママだった。
家路の中で、コンビニ寄った。入口の横で、煙草を吸っている若者がいた。少し邪魔だったが、肩が当たらないよう店内に入って、明日の朝食用のコーヒーと菓子パンを買った。ビールも追加して買おうかと思ったが、今日の店内のことが情けなくて控えた。まだ入口には若者が屯している。吉田さんを真似して、何か言ってみようかと何故か思った。
「ごめんね、ちょっとどいてもらえるかな。」たったそれだけ、すら発することも出来なかった。
若者の横をすり抜けるように歩いた後に、背中越しに何か言われているような気がした。背中で言葉を聞くことが多いのは、自分のせいだ。いろいろなことに向き合ってないからだ。
気が付けば、夜の空に雲が広がっている。買ったコーヒーのキャップを捻って一口含んだ。次のコンビニでビールを買った。飲みながら帰った記憶がある。
朝になっても曇ったままだ。霧も出ている。