頑張るということ
この話は実話をもとに構成されました。
小学生のころ運動会で鼓笛隊の演目があった。
4年生から6年生の合同演目で運動会の一番の山場だった。
私の考え方が変わったのは6年生のころだが、それは5年生にあった役職の選考が大きくかかわってくる。
だから5年生のときから話していこうと思う。
5年生のとき鼓笛隊の役職が選べるようになった。4年生までは鍵盤ハーモニカ固定だったため他の役職には特別感があった。
私はここであるパートに立候補する。
「カラーガード」
それは列の先頭に立って旗を振り先導する役なのだが、このパートは他と違って演奏しなくて良いというのが魅力的だった。
小学生のころから音楽の授業が大嫌いで、楽器を演奏することに抵抗があったためカラーガードがやりたかった。
カラーガードは5年生と6年生で計4人で各学年2名ずつの選出で5年生での候補は私を入れて4名だった。そのため練習をして出来の良かった2名をカラーガードに任命するということになった。
私は練習をした。カラーガードになりたかったから。
しかし結果は落選だった。その時教師に練習不足だったと言われたのが心に刺さった。
しかし私は練習したといってもロクに練習をしてはいなくて、ちょっと練習しただけでその気になっていただけなのだ。
そして鍵盤ハーモニカをやった。
そして1年後の6年生
カラーガードは去年やった2人がやるのでチャンスは無かった。
しかし他の楽器のバリエーションがあって、シンバル、小太鼓、大太鼓があった。その中で私が選んだのは
「鍵盤ハーモニカ」
クラスメイトからはなんでとか言われたけれど、どうせ他の楽器とかやってもまた覚えなくちゃいけないし、それなら2年間やってたパートのが楽と言った気がします。
だがそれは建前で本音は挑戦しても失敗が怖かったというのと鍵盤ハーモニカは人数が多くてやらない人がいてもバレないだろうということだった。
つまり私は鍵盤ハーモニカを3年間担当しその3年間演奏をしなかったのだ。
もし6年生の頃に鍵盤ハーモニカ以外の楽器に挑戦していたら今までの人生での考え方や生き方は違っていたのかもしれない。
そして中学生になるとバスケ部に入るのだが、練習に出たりで出なかったりするほぼ幽霊部員になった。
しかし顧問の先生の粋な計らいにより最後の試合に出されるのだがやっぱり練習してないため何もできずに終わってしまう
何故か悔しかった。
ちゃんと練習に出ていれば違ったのかもしれない。
小学生のころと考えていることはあんまり変わっていない。
高校生になり演劇部に入部した。
そこで役者になり文化祭の発表に向けて練習した。
部活中はもちろんのこと下校中や家でも練習した。
このときは本当に練習した。しかし緊張すると吃音症の症状がでてしまい上手く喋れないことから役者を下ろされてセリフのない通行人の役になった。
今度は本当に練習してもダメだった。
その時に先輩に優しくしてもらえたことが何より心の支えになったのを覚えている。
その出来事は今までで一番悔しかったと思う。
理由は簡単で挑戦して一生懸命に頑張ったからだと私は考えている。
どんなことでも真面目に頑張っていてそれが上手く行かなかったら悔しいことは当然だし、逆に上手く行ったらその分嬉しいと思う。
1つでも夢中になれることがあってそれを頑張れるのなら良いと思う
昔のことを思い出して胸が締め付けられました。