ドアマット系恋愛小説の舞台装置として生まれた彼女
煙るような長いまつ毛の間から、アストレイアは瞳を凝らして眺めていた。湖面のようなその水色は揺らめいている。
「アルベール様…」
ぽつりと呟いた彼女の声は、誰に届くこともなく、宙に浮いて消えた。
学園の階段の踊り場、一人ぽつんと佇むアストレイアの瞳の先には彼女の婚約者であるアルベールが居た。いや、アルベールと可憐な少女の仲睦まじい姿があった。アルベールは少女の膝を借り、目を閉じて寛いでいるようだ。そうしてそれを眺めながら、可憐な少女は頬を染めている。
アストレイアとアルベール、二人が婚約していることは学園で知らないものはない。けれども二人の仲が脆いということもまた、十分に有名だった。
アルベールは有力貴族の三男だ。嫡男では無いけれど、家柄も良く見た目も美しい彼は誰もが恋焦がれる相手。婚約者との仲に問題ありとなれば、付け入ろうとする野心家な令嬢は後を絶たない。
アルベールが薄く目を開け、頬を染める少女を見る。そしてその恥じらう可憐な姿に気付き、くしゃりと笑った。
アストレイアが彼の笑顔を見られなくなって、どのくらいたっただろう。そう考えるとズキリと頭が痛んだ。彼女がアルベールとのことを深く考えると、何故だか頭が痛みだす。
アルベールは昔から、少し難しい少年だった。漆黒の髪に赤い瞳。そのはっきりとした色彩と同じように、彼の心も鮮烈だった。だからアストレイアはいつだって、彼の心の動きを伺うように生きてきた。
それでも子どもの頃、簡単にアルベールの笑顔を引き出せていたのはもう一人の幼馴染がいたからだ。ふわふわとした茶色の髪に、はちみつ色の甘そうなたれ目。もう一人の幼馴染が居たことで、3人は不思議なほどに良いバランスを保っていた。
「今日はお姿を見られて、嬉しい」
アストレイアはほうっと幸せな溜息を吐き、目を細めた。その瞬間に、キリキリと締め付けるような頭痛はふっと消え、不思議な爽快感がもたらされる。
アルベールが辛く当たるものだから、周囲はアストレイアを”可哀想な女”だと思ってしまう。けれども彼女本人としては、それがどうしても分からない。
アルベールを見るだけで、煩いほどに胸が高鳴る。
アルベールの声を聞くだけで、頬が染まる。
アルベールに見つめられればもう、涙が出るほどに嬉しいのだ。
大好きなアルベールが他の令嬢と共にいるのは辛い。大好きなアルベールがアストレイアに冷たくするのは辛い。けれどもそれ以上に、彼女の体はアルベールの動き一つで喜んでしまう。
「危ない!!」
アルベールのことを考えていたからか、後ろからドンとぶつかられても、彼女は反応が遅れてしまった。体はぐんと前に押し出され大きく傾くと、そのまま重力に従い落ちていく。ふっと体が浮くような心地悪さを感じた瞬間、足場が無くなったことにアストレイアは気が付いた。
ああ、落ちる。
そう思ったけれど強張った喉から悲鳴が出ることは無かった。ぎゅっと目を瞑り衝撃に耐えようと力を入れると、アストレイアの細い腕は何かに摑まれ浮遊感も消え去った。
「良かったぁ。心臓に悪いよ、アーシュ」
久々に呼ばれた愛称に驚いて、アストレイアは顔を上げる。ふわふわの茶色の髪、はちみつ色の甘いたれ目。そこには古い記憶の面影を残した幼馴染、セーレがいた。
「セーレ?」
「わぁ、アーシュ、覚えていてくれたんだね?」
甘いたれ目が嬉しそうに揺れる。けれどもアストレイアは驚きすぎて、目を見開いたまま。階段から落ちるかと思ったら助けられ、その相手が何年も会っていない幼馴染だったのだ。
「ぶつかった人、逃げちゃったね。危なすぎるよ、全く。けど今はアーシュが先だ。歩ける?」
覗き込んできたセーレに、アストレイアは何とかコクコクと頷いた。完全に落ちてしまう前に助けられたから、体に痛みはない。
「痛くなくても保健室には行こう。体が緊張しているから、痛みがないだけかも」
いつの間にかセーレのペースになっている。子どものころの空気と同じで、アストレイアは自然と笑った。
「アーシュ、怪我は無いようだけど今日は一人で帰らない方が良い」
「大丈夫よ。私、子どもじゃないんだもの」
心配するセーレと、大丈夫だと言うアストレイア。保健医の前で二人が何度かやり取りをしていると、ガラリと大きな音を立てて扉が開いた。
「アルベール様、お体の調子が悪いのですか?」
アストレイアは扉の向こうに立っていた人物に目を見張る。そこに先ほどまで可憐な令嬢との逢瀬を楽しんでいたアルベールがいたからだ。アルベールの瞳は彼女の姿を映すとさっと冷え、苛立ちを隠さない声を出す。
「お前は本当にどん臭いな。大した怪我でも無いのに煩わせるな!!」
アルベールが何故ここに居るのかが分からない。セーレが呼んだのかとちらりと見るも、彼は苦笑して肩をすくめるばかりだ。
「やあ、アル。汗をかいているようだけど?」
苛立つアルベールを気にした様子もなく、セーレは朗らかに声をかける。しかしアルベールは彼を見ようとしない。
「このままアーシュを一人で帰すのは心配なんだけど、アル、君が送ってあげてくれない?」
「なんで俺が!!」
「そっかぁ。じゃあ僕が送るよ。君の頼みで送り届けるのだから、彼女に落ち度は無いよ。分かるね?」
セーレは穏やかに話すけれど、それはアルベールをより苛立たせたようだ。「勝手にしろ」 そう言って足早に去っていく。
「アルベール様!」
後を追おうとしたアストレイアをセーレは優しく引き留めた。
「アーシュ。調子の悪そうな君に、彼の後を追わせられない。それに追いかけたらいい気になっちゃうよ」
セーレに促されながら馬車が待つ入口まで着いてしまった。セーレと一緒だからか今日はやけに昔を思い出す。幼い頃はもう少し、自分の意見を言えたはず、そんなどうでも良いことが浮かび、またアストレイアの頭はズキリと傷んだ。
「やっぱり体調が悪そうだ」
セーレはアストレイアの青白い顔を見て眉根を寄せる。確かに今日、彼女は何度も頭痛に襲われて爽快とは言えない気分だ。それが顔にも出てしまっているのだろう。
「心配いらないわ」
セーレは何かを言いかけて、けれども空気と共にそれを飲み込んだ。
「ねえ、アーシュ。アルと君は婚約している、それは間違っていないよね?」
「ええ、そうよ。でもどうして?」
「んん、いやぁ、あまり仲が良さそうに見えなくてねぇ。少し、というかだいぶだけれどアルの態度は酷いものがあるでしょう?」
「それはきっと、私が悪いの。私はほら、暗いでしょ? あまり笑わないし、社交的でもない。きっとアルベール様は私にがっかりしてるのよ」
「君はよく笑う女の子だったじゃないか」
セーレの言葉にアストレイアは首を傾げる。自分がよく笑う少女だった、その記憶さえ曖昧だ。
「君が辛いなら、婚約なんてやめてしまえば良いのに」
「辛くなんてない!!!」
思わぬ大きな声にセーレは息を呑む。アストレイアだって分かっている。二人の仲は悪く、円満な結婚生活は予想できない。けれども自分から縁を切るなんて、考えただけで絶望してしまう。頭がズキリとして、それだけはしてはいけないと考える。
「私はアルベール様が好きなの。だから何をされても平気。セーレもみんなも放っておいてよ」
アストレイアはそう言うと、たまらず涙が溢れてしまう。すっと差し出されたハンカチは、エーデルワイスの刺繍が施されていた。それを見てまた、何故だかズキリと頭が痛む。
周囲は二人の婚約を、隙があれば解消したいと望んでる。それは周りで虎視眈々と狙う令嬢たちだけではなく、アストレイアの家族もだ。虐げられ、疎んじられて、このまま黙っていてはいけないと言う。二人の婚約がまだ解消されていないのは、当事者であるアストレイアが強く望むから、そしてアルベールもそれに何も言わないから、ただそれだけだ。
敵を睨むように鋭くセーレを見ると、彼は困ったようにアストレイアを見つめた。
「そうか、好きなんだね。それなのに、勝手なことを言ってごめんよ。幼馴染のよしみで許してくれると嬉しいなぁ」
ポンポンと頭を撫でられる。苦しかった頭痛は消え、心のざわつきも収まった。
「許すわ」
「ありがとうございます、姫君」
セーレはそう言って、まるで騎士のように胸に手を当てた。細身なセーレがそれをすると、どうにも決まらない。おかしくなって、アストレイアは声をあげた。
「ほらね、君はよく笑う」
セーレはそうやって、泣くように笑った。
アストレイアのタウンハウスまで着くと、何故だかセーレも一緒に降りた。驚くアストレイアを見て、セーレはイタズラが成功したような顔でくすりと笑った。
「この国に戻ってきたご報告を、アーシュのお父上にしないとね。終わったら一緒にお茶をしてくれる?」
「それは勿論良いけれど」
「良かった。ではまた後でね」
そう言うと、セーレは一人、父の執務室へと消えていった。屋敷の使用人たちの様子からみるに、学園を出る前に先触れをだしていたようだ。アストレイアはサロンのソファーに座り、こめかみに指をあてながらぼんやりと外を眺めていた。
***
「アーシュ」
心地よいまどろみの中、優しい声がする。アストレイアが重たい瞼を持ち上げると、そこにはセーレが立っていた。
「私、ごめんなさい!」
「良いんだよ。疲れてたんでしょう? 起こしてごめんね」
セーレはそう言いながら、向かい側のソファーに座る。婚約者でも無いということでサロンにはメイドが控え、扉は開けられている。
「アーシュ、僕はさぁ、君のことが心配なんだ」
「心配?」
「ああ。誰もが君を可哀想だと言う。僕も確かに保健室での様子を見ると、そう思えて仕方がない。けれどアーシュはそれでもアルが好きだという。それはなんで?」
セーレは真面目な顔でアストレイアに問いかける。
「だってアルベール様は素敵な方よ。ずっとずっと優しかった。私が転べば手を差し伸べてくれたし、私が泣いていたら探してくれるのはいつも彼だった。」
セーレの甘いはちみつ色の瞳が悲しそうに揺れている。けれどもアストレイアは言葉を紡ぐことに必死で、だからその色の変化に気が付くことは無い。
「昔、彼に刺繍をしたハンカチを贈ったの。すごく喜んでくれた」
「ハンカチ?」
「ええ、そうよ。エーデルワイスを刺繍した、少しいびつなハンカチ」
そこまで言って、その瞬間に、頭の奥を鷲掴みにされたような痛みを感じた。ゴンゴンと鐘が鳴るような音がして、額に滲む脂汗で髪が張り付く。呼吸の間隔が短くなり、ぐらりと体が揺れた。
「アーシュ? アーシュ!!??」
遠くでセーレの声がした。何故だか泣いているように思えたから手を伸ばしたい。けれどもアストレイアは指一本動かせるような力も無く、くたりとその場に倒れ込んだ。
***
「お嬢様、お目覚めになりましたか?」
メイドの声で、アストレイアは自室の寝台で横になっていたことに気が付いた。
「私、倒れたの?」
「ええ、お客様はとても心配しておいででした。しかし長居をするのも迷惑になると、先ほどお帰りになられましたよ。こちらをお嬢様へと預かっております」
アストレイアは食事を断り、セーレから渡された包み紙を手に取った。中から出てきたのは手紙と分厚い立派なノートだった。
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親愛なるアーシュ
君の体調が悪いというのに勝手に帰ってしまってごめん。薄情な僕は友達じゃないなんて言われなければ良いんだけど。
今日は色々なことがあって疲れたでしょう? ゆっくり休んでほしい。学園では元気なアーシュの顔が見たいからね。
ところで幼馴染としてお願いがあるんだけれど、君とアルベールのことについて教えてくれないか? 昔はいつだって三人で過ごしていたのに、僕がよそへ行っている間にすっかりのけ者だ。もちろん君たちは婚約者なんだから、当然のことではあるんだけれど、僕は少し寂しいよ。
ただ、婚約者のいる君に何度も会いたいなんて、そんな馬鹿なことを言っている訳じゃない。城へ出仕しているお父上に、このノートを託そうと思っているんだ。だから気軽な気持ちで書いてみてはくれないかな?
君の友達 セーレ
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この日からアストレイアとセーレのやり取りは始まった。
三人はいつだって一緒に居て、だからこそ離れていた間に変わってしまったこの関係を、寂しく思うのは当然のことと彼女には思えたのだ。何故なら彼女だって、変わってしまったアルベールとの関係を寂しく思っているのだから。
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親愛なるセーレ
この間は倒れてしまってごめんなさい。心配かけたでしょう? いつも元気なのだけれど、昔のことを思い出そうとしたり、あることを深く考えると頭が痛くなってしまうの。
ノートの表紙、エーデルワイスなのね。とっても美しい装丁のノートだから、緊張で最初の文字が震えてしまったわ。どうか笑わないで。
今日はアルベール様を遠くからだけれどもお見かけしたの。最近仲良くされているご令嬢とランチを召し上がっていたみたい。私がそこに居ないのは悲しいけれど、アルベール様のお姿が見られて嬉しかったわ。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
頭痛、そんなに酷いの? お医者様には見せたのかな?
ノート、気に入ってくれたなら嬉しいよ。エーデルワイスの花は、僕の中で君のイメージなんだ。
そうそう、アルベールは他のご令嬢と懇意にしているという噂は本当なんだね。アーシュはそれで、悲しくないの? 寂しくはないの? 僕はアーシュには怒る権利があると思うけど。
君の友人 セーレ
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親愛なるセーレ
今日はお花を一緒にありがとう。バラや百合を貰う女性は多いでしょうけれど、シロツメクサを贈られる令嬢なんて珍しいんじゃないかしら。でもね、すっごく嬉しかった。昔三人でシロツメクサで冠を作ったわよね。アルベール様が頭にのせてくれた気がするんだけれど。
アルベール様のこと、悲しいとか、寂しいとか考えると途端に頭が痛くなるの。昔のこともなのだけど、だからシロツメクサの冠のこともあまり思い出せないわ。とても残念。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
シロツメクサの思い出は、僕にとっても大切なんだ。けれどあのキラキラした時間を君が思い出せないなんて、悲しいことだね。頭痛の原因が分かれば良いんだけど。君のお父上も、お医者様でも原因が分からなかったとおっしゃっていたよ。
アルとのこと、あまりにも頭痛が酷いようなら書かなくても大丈夫だよ。君が辛くない程度で教えてほしい。
君の友人 セーレ
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学園の庭園。あまり手入れの行き届いていないこの場所は、アストレイアのお気に入りだ。木陰に置かれたベンチに腰を下ろし、隣国の文字で書かれた物語を読んでいる。
他国の言葉や風習を学ぶこと。それはアストレイアの数少ない趣味だった。新しい言葉を覚えるために、流行りの物語などを読んでいく。その国の常識なども軽く学べる為、知識欲を満たせるのだ。
何がきっかけで言葉を学び始めたか、彼女にはもう思い出せない。ただ婚約者のアルベールはこの趣味を快く思っておらず、見つかると馬鹿にされてしまう。
「おい、こんなところで何をしてる?」
会いたいときは会えないけれど、見つかりたくないときには見つかってしまう。後ろめたい気持ちがあったからこそ、アストレイアはビクリと大きく体を揺らした。そしてその瞬間、手に持っていた本は地面へと落ちてしまった。
アルベールは舌打ちをして本を拾い上げ、中身をパラパラと見ては顔を顰めた。彼が何故これほどまでに外国語を学ぶことを嫌がるのか、アストレイアは知らない。
「またくだらない本を読んでいるのか」
「申し訳ありません」
「そんな暇があるならちょっとは外見でも磨けばどうだ」
はっきりとした顔立ちのアルベールから見れば、アストレイアの外見は物足らないのかもしれない。色が薄い金の髪に地味な紺色の瞳。貧相な体に変わらない表情。普段アルベールが連れているご令嬢たちと、彼女の見た目は大きく異なっている。
馬鹿にするように本を持つ手を動かしたとき、栞がはらはらと舞った。風に揺られ、薄く軽い栞はくるくると回りながら、すぐに地面に落ちてしまう。
「これはなんだ?」
普段動じないアストレイアが慌てて手を伸ばそうとするも、アルベールはそれよりも先に頼りない薄く軽い栞を摘まみ上げた。
「栞でございます」
「お前は使っているものも貧相だな。もっとマシなものを用意しておくから、そんな汚いものは捨てておけ」
アルベールの言葉は絶対だ。従わなければいけない。アストレイアは彼が好きで、彼が大事なのだから。けれどもなぜかアストレイアは、「はい」 と頷きそうになる口をギリっと噛みしめていた。頭痛がする。けれども口を開きたくはなかった。
「おい、返事をしろ」
確かに栞は不格好だ。本の間に挟んで作ったシロツメクサの押し花の栞。白い花も緑の葉も、退色して少し茶色になっている。台紙に貼り付けただけの栞は貴族令嬢が持つには相応しくないだろう。
けれどもそれを手放したくないと思う自分がいる。
「アルベール様、申し訳ございません。どうかこれだけは自分の手元に置いておきたいのです。ご不快であれば目につくところで使うことはいたしません。持ち出すこともいたしません。ですのでどうか......」
アストレイアは覚えている限りでは、初めてアルベールの言葉に逆らった。出来る限り荒立てないようにと言葉を選んだが、それは彼女の無駄な苦労だったようだ。
「この俺がやると言っている栞より、そんな汚らしい物の方が良いって言うのか!?」
「いいえ、そのような失礼なことを言うつもりでは! 申し訳ありません」
「煩い」
苛立つアルベールはその栞を真っ二つに破り、靴で踏みつけて去って行った。
「......ごめんなさい」
アストレイアはたった一人、日の当たらない庭でしゃがみ込む。土で汚れてしまった栞を拾い上げ、ポツリと一言呟いた。呟いた後、また頭は痛む。けれども今はそれよりも、心の中が痛かった。
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親愛なるセーレ
この間セーレから貰ったシロツメクサの花束。とても嬉しかったから押し花にして栞にしようとしたの。けれども私が不器用だからか失敗してしまったわ。せっかく貰ったのに駄目にしてしまったから、セーレには謝っておきたかったの。ごめんなさい。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
シロツメクサの花束、怒らずに受け取ってくれただけで嬉しいのに、栞にまでしようとしてくれただなんて、その気持ちだけで十分だよ。
でもアーシュは手先が器用だったのに、失敗することもあるんだね。
アーシュが喜んでくれるならどんな花だって贈るから、駄目にしてしまったことは気にしないで。
君の友人 セーレ
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アストレイアはシロツメクサが駄目になった経緯を伝えなかった。嬉しいと思った物を踏みにじられた。それを文字にしたくなかったのだ。懐かしい淡い思い出に、嫌な気持ちを混ぜたくなかった。
嫌な気持ちになれば頭痛がする。けれども嫌だと思う気持ちは珍しく無くならず、きりきりと締め付けるような痛みにもやがて慣れていった。
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親愛なるセーレ
今日はアルベール様のご機嫌を損ねてしまったわ。すごく落ち込んでる。
移動教室の時、少しでもアルベール様にお会いしたくてあの方の教室の前を通ったの。そうしたら会えたのだけれど、「お前のような女がうろうろするんじゃない」 なんて怒鳴られてしまったわ。さすがにずっと悲しくて、頭痛が治まってくれない。
何も食べる元気がないんだけど、セーレから貰った飴だけは食べられる。ありがとう、セーレ。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
大丈夫なの? 頭痛が酷い時は返事を書かなくても良いんだよ。傍に居られたら良いんだけど、権利が無いのが辛いところだね。お父上にはちみつをお渡ししたんだ。街でも人気のもので、癖が無いから紅茶なんかにもよく合うよ。とにかく食べやすいもの、飲みやすいものをしっかりとるようにね。
それにしてもアルは酷い男だな。君の頭痛を酷くさせるようでごめん。君はそれでも彼が好きなの?
君の友人 セーレ
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親愛なるセーレ
はちみつありがとう。とっても美味しかったわ。私、あなたの瞳をはちみつみたいで美味しそうって言ったことあった? なんだか急に思い出したの。私にとって大切な思い出だったのに、なんで忘れてしまったのかな。
彼のことは好きよ。そう思えば幸せな気持ちになれるの。でもアルベール様は私にご不満があるみたい。私は見た目もパッとしないし、彼が連れているご令嬢みたいな華やかさも無い。だから疎まれるのは当然なのかもしれないわ。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
アーシュが僕の友人を蔑むようなことを言うものだから、少し怒っているよ。僕の友人、アストレイアはとても可愛らしい女の子だ。穏やかでよく笑う、ひだまりみたいな女の子。
刺繍が上手くて花が好きで、気を使いすぎるほど優しくて。僕は他の国にも行ったけれど、彼女ほど素晴らしい人は知らないよ。だからアーシュ、君であってもアストレイアの悪口を言うのは許さない。
君の友人 セーレ
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ぽたりぽたり、涙が落ちる。セーレの筆圧の弱い優しい文字が滲んでしまい、慌ててノートをぱたりと閉じた。アストレイアはずっと、自分なんてと考えて生きてきた。それが何故なのかは分からない。けれど家の外で、彼女はずっとそういう評価を受けてきた。
自分を見て、素晴らしいと評価してくれる人がいる。それがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。
今でも頭は割れるように痛い。考えるのをやめてしまえば簡単に治まることも知っている。けれども彼女はまだこの幸せに浸りたくて、頭の痛さをごまかすようにベッドにコロンと横たわった。
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親愛なるセーレ
あなたの友人の悪口を言ってしまってごめんなさい。もう二度と、自分を蔑むようなことは言わないわ。そして庇ってくれて、ありがとう。
実はね、アルベール様に呼び出されたの。 「夜会のエスコートはしない。みすぼらしい姿を晒したくないだろうから引きこもっておけ」 なんて言われてしまった。でも何だか、悲しい気持ちは少ない気がするの。頭痛は続いているけどね。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
夜会って学園であるやつだよね? みすぼらしいだなんて、いつのまにアルは目が悪くなったのかな。けれど婚約者のエスコート無しで行くのも辛いよね。
君には二つの選択肢があると思うんだ。一つは言われた通り、夜会に出ない案。二つ目は目一杯おしゃれして、アルの度肝を抜いてやる案。どちらにするにしても、僕は協力を惜しまない。
けれどももしも夜会に出ないなら、めそめそと引きこもるんじゃなくてご家族で晩餐なんてのがおすすめだ。君のご家族も君のことを心配してる。だから馬鹿みたいな夜会に行くよりも、そっちの方が良いかもね。
君の友人 セーレ
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「アーシュがみんなで食事をしようなんて言うから、あなたのお兄様は数日前からウキウキしていたのよ」
母が嬉しそうに笑うのを見て、目元が熱くなる。けれどもアストレイアはそれを堪え、幸せそうに微笑み返した。
正餐室が華やいでいる。真っ白なクロスは隙なく糊がきいており、磨きぬかれた銀のカトラリーは特別な日に使うとっておき。シャキシャキのサラダに琥珀色のブイヨンスープ、ふかふかのパンにカリッと焼き上げたチキン。どれもこれもがアストレイアの好物だ。
「今日は特別に美味しく感じるよ。アーシュ、ありがとう」
兄が言う。けれどもそれは違うのだ。ありがとうと言うべきは、アストレイアのはずだから。
アストレイアを愛する家族は心配するあまり、婚約をどうにか解消させようと動いていた。だからアストレイアは彼らを敵のように感じていた。深く愛されていた。それを知っているはずなのに、それでも敵と思ってしまった。
長方形の机を囲む家族たち。記憶にある彼らよりも、少し年老いたように感じてしまう。それもそうだろう。アストレイアはここのところ、ずっと部屋で食事をとっていた。それがどれほど家族を傷つけるか、何故考えることが出来なかったのだろう。
「お兄様、違うの。私、わがままばっかりで......みんなずっと優しくて。それなのに私は勝手ばかり......」
真っ白なクロスにぽたりと染みができる。一粒、二粒、涙が零れるたびにズキリと痛む。痛みから逃げたくなるけれど、それが家族から逃げることだとアストレイアは気付いていた。
「アーシュ。本当にここ数年のお前はわがままで、頑なで、父さんたちは酷く心配だった。けどね、覚えておきなさい。お前がどんなに勝手でも、どんなにわがままでも、どんな道を選んでも、私たちはお前を愛している。ただ幸せになってほしい、それだけなんだ」
父は目尻の皺を深く刻み、心に染み込ませるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
この日は誰もアルベールの名を口にせず、ただお互いの楽しいこと、嬉しかったこと、美味しかったもの、好きなこと、他愛もないことを話して過ごした。
かさぶたを剥がせばまた血が流れるかもしれない。
まるでそれを怖れるように、誰もが意識してその名を出さない。優しくて、温かい、ただただ愛しい家族たち。アストレイアは彼らに、「もう気を使わなくても大丈夫」 と口に出して伝えたかった。けれどもまだ頭痛はするし、自分の心も分からない。変わりたい。強く彼女はそう思った。
ズキリズキリと相も変わらず頭は傷んだけれど、そんなことはもうどうでも良かった。
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親愛なるセーレ
この間は素敵なアドバイスをありがとう。ずっと家族と話すことから逃げていたんだけど、セーレのお陰で踏み出すことが出来たわ。
セーレがこの国に帰ってきてくれてから、少しずつ色々なものが変わってきている気がするの。今まで当たり前に思っていたことを少し疑問に感じたりして、深く考えるようにもなった。
頭痛は続いているけれど、それでも考えていたいことが出来たの。
私はきっと、色んなことを忘れていて、色んなことを間違ってる。セーレとのノートを読み返すと、それを強く感じる。まだ絡まった糸がほどけないけど、私、諦めるのをやめようと思う。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
僕は感謝されるようなことは言ってない。もし何か上手くいっているのなら、それは君が勇気を出したから。諦めなかったからだ。
けど頭痛が続いてるというのは心配だな。君が頑張り屋なことは知ってるけど、どうか無理はしないで欲しい。僕にとって幼馴染の君は、どんなに君でも大切なんだよ。だから何よりも自分の体を優先してほしい。
お父上に果物を預けたから食べてほしい。体調が悪くても食べやすいものばかりだよ。
君の友人 セーレ
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セーレから日記と共に届いた果物は、その後も途切れず週に二回のペースで贈られる。変な噂が立たないように、アストレイアの家に出入りする商人を使ってくれている。その気遣いまでもが嬉しかった。
あまりにも頻繁なものだからアストレイアが遠慮をすると、「何年もずっと贈り物をしてなかったんだ。これくらいさせて欲しい」 と連絡がある。様々な国をまわったセーレは果物にも詳しく美味しいものが多いものだから、ついついこれに甘えてしまった。
「アーシュ、このベリーも美味しいわよ」
母がアーシュに微笑みかける。一人では食べきれないほど届く果物は、自然とアストレイアの家に会話や笑顔を生んだ。あれが美味しい、これがおすすめだと机を囲む時間は、家族の中で何より大切な一時となっている。
「食が細いアーシュでも食べられるからありがたいな」
父が目を細めて嬉しそうに笑う。目尻に深く刻まれた皺、退色した元は金色だった髪。アストレイアが家族を目に映さない間に父は酷く疲れてしまったように見える。それはもちろん母も同じ。
「私もみんなで一緒に食べられるのが嬉しいわ」
ただそれだけのことなのに母は息を呑む。父の目尻に光る水滴も、アストレイアには見えていた。
彼女が変われば変わるほど、学園で会うアルベールは不機嫌さを増していった。不安定な様子で怒鳴り散らし、わざと女性を連れて嘲笑うことも増えていく。まだ頭痛はするけれど、不思議とアストレイアの胸は傷まなくなっていた。
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親愛なるセーレ
いつも果物をありがとう。最近少し元気が出て、やってみたいことや楽しみなことが増えたの。頭痛は相変わらずするけれど、なんだか世界が輝いて見えるの。果物に魔法でもかけたの?
そういえば、今度の学園の夜会ではアルベール様がエスコートしてくださるみたい。最近ずっと不機嫌そうだから、今回も他のご令嬢をお誘いするものだとばかり思っていたわ。
あなたの友人 アストレイア
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親愛なるアーシュ
魔法なんて使ってないよ。もともとアーシュは好きなものもやってみたいものも、山のようにあったじゃないか。希望に溢れるその気持ちは、君の中にもともと眠っていただけだ。お帰りなさいって言いたいな。
アルから誘いがあったのか。まあ、婚約者なら当然なんだけどね。
君が参加するなら僕も行くよ。近寄れないことが残念だな。僕はその立場に無いのが口惜しい。
楽しい一日になることを祈って、贈り物をさせてほしい。高価なものでは無いから、どうか遠慮なんてしないで。傍にいられない幼馴染のわがままだと思ってよ。
君の友人 セーレ
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「お嬢様、本当にお綺麗です」
「まあ、ありがとう」
アストレイアは支度をしてくれたメイドに微笑んで、姿見でドレスを確認した。後ろには母も控え、嬉しそうに見守っている。
「その色、とっても似合うわ」
母はもう何度目になるか分からない褒め言葉を飽きることなく口にする。学園の夜会に出かける時、アストレイアはパートナーであるアルベールの色を好んだ。一度もドレスを贈られたことは無いけれど、彼のパートナーであることを示したかったから。
けれど今日のために仕立てたのは紺色の落ち着いたドレスだ。ふくらみが少なく、そしてシックな紺色の布地。地味になりそうだけれど、紺の薄絹には金糸で細かく刺繍が施され、動くたびにキラキラと光る。清楚で落ち着いたアストレイアにこそ似合うドレスだ。
「お嬢様、こちらはどういたしますか?」
メイドは天鵞絨の箱を開けた。そこには金糸で織られたレースのリボン。モチーフのエーデルワイスを見て、アストレイアは嬉しそうに笑った。嬉しく思うほどに頭痛は続く。
「まあ、セーレ君はなんて趣味が良いんでしょう」
母は少女のように頬を染め、天鵞絨の箱の中にあるリボンを見つめる。その箱は出入りの商人から朝届けられた。「君の幸運を祈る」 と書かれたカードとともに届けられたそのリボンはアストレイアに勇気をくれた。
「ウエストの切り替え部分につけられるかしら?」
アストレイアがそう言うと、メイドは勿論だとさっと縫い付けてくれる。朝から不安だった気持ちも、そのレースに触れると何故だか消えてしまった。
「お嬢様、お迎えがいらっしゃいました」
家令のその言葉で玄関へと向かう。アストレイアの姿を見て、アルベールは大きく顔を顰めた。けれどもそれはいつものことで、だからアストレイアは気にすることなく馬車へと乗り込んだ。馬車の中でもぼんやりと外を眺めていたから、アルベールが何を見つめていたのか、彼女は知らない。
「アルベール様ぁ! ファーストダンスを踊ってくださいませ」
会場に着いた途端、小柄な少女がアルベールの腕に体を寄せた。婚約者のいる男性にする態度ではないものの、あまりにも見慣れた光景で誰も気を留めない。
「ああ、わかった。お前はそこでじっとしていろ」
アルベールもいつもと同じで彼女に吐き捨てるようにそう言うと、少女の手を取ってホールへと歩いていく。アストレイアはその背中を眺めながら、胸が軋まないことに首を傾げた。
目の前には軽やかに踊る婚約者と可愛らしい少女。二人は微笑み合って、息が合ったステップを踏む。あんな風に微笑むことが出来たなら、可愛い女であれたのだろうか。そんな風に思うけれど、どこか他人事のように感じてしまう。
いつもであればアルベールからの指示は絶対で、彼女は夜会の終わりまでずっと壁際に立っている。けれども頭痛が酷い今日はそんな気にもなれず、テラスへと逃げ出した。
「疲れた」
吐き出すようにそう言うと、頭痛はさらに酷くなる。家に帰り、自室でセーレの文字を見たい。強くそう思い、痛みを抑えるようにこめかみに指をあてた。
アストレイアは愚かだけれど、決して鈍い人間では無い。だから本当は気付いている。誰を好きであるべきか、心は誰を思っているか。ごまかすように頭は痛むけれど、心はずっと正直だった。
思い出さなければいけない。強く彼女はそう思う。けれども頭は割れそうで、これ以上考えて無事でいられるかも分からなかった。
「お前!! なんでこんなところに居る!?」
後ろからいきなり怒鳴られて、ビクリと彼女の体は揺れる。振り向くと、少女を連れたアルベールが鬼の形相で立っていた。
「壁際に立っていろと言っただろう!」
「申し訳ありません。頭が痛むもので、外の空気を吸っておりました」
謝罪を聞いても苛立ちを抑えきれないアルベールは、さらに一歩アストレイアに近づく。その迫力に怖気づき、彼女はぎゅっと目を瞑った。けれど彼女は腕を掴まれることも、罵られることすらなかった。
「アル! 女性に怒鳴ってはいけないよ。友人として見逃せないなぁ」
優しい声が聞こえ恐る恐る目を開けると、ふわふわの茶色の髪を揺らしたセーレがアルベールの手を掴んでいた。穏やかそうに話しているが、急いだようで額に汗をかいている。
「だがあの女が!」
「うんうん、とりあえず向こうで話を聞こっか。一緒にいるご令嬢も、ちょっとアルをお借りするね」
セーレはこの騒ぎをどうにか収めようと、出来る限り穏やかな声で話している。アルベールも少し落ち着いたようで、「ああ、済まない」 と呟いて我に返ったようだ。このまま騒ぎが収まるかと思ったその瞬間、アストレイアは体に冷たい衝撃を受けた。
「せっかくあたしがアル様と過ごしているのに気を引こうとして!! どこまであたしの邪魔するの!?」
可愛らしい雰囲気の少女が眉を吊り上げている。彼女の手には空のグラス。中身は葡萄の果実水だろうか、ドレスに施された金糸の刺繍は輝きを失っていく。エーデルワイスが紫に染まり、「ああ」 その呟きと共にアストレイアはポロリと涙をこぼした。
一瞬呆気にとられたアルベールだったが、少女の言葉に口を歪める。そして満足気に笑った。
「なんだ、放っておかれて寂しかったのか? それなら素直にそう言え。来い、送ってやる」
アルベールは手を差し出すも、彼女はその手を取る様子が無い。傍らにいる少女はアルベールの腕を引くも、その姿がまるで見えなくなってしまったかのように彼は無視をしている。ピクリと片眉を上げ、「早くしろ」 と言い捨てるもアストレイアは俯いたまま。
「余計な手間をかけさせるな」
そう言って強引にアストレイアの手を引こうとするも、それはセーレにさりげなく止められる。アルベールはもう一度口を開きかけたが、それを制するようにアストレイアの声がテラスに響いた。
「アルベール様、好きだと思っておりました。けれどもう、そんな私を捨ててしまいたい。心のままに生きていたい。私を愛してくれる人々を悲しませたくはない」
いつになく真直ぐと彼を見つめるアストレイアに、アルベールは状況も忘れて見惚れてしまう。けれども彼女の言葉は続く。
「勝手を申し上げますが、私はもう、あなたを好きではありません」
彼女はそう言い切ると、幸せそうな顔でふわりと笑った。すぐに彼女の体はぐらりと揺らぎ、糸が切れたかのように崩れ落ちた。
「ちょっと! どうしたの!?」
アストレイアの耳に心地よいセーレの声が聞こえた。まつ毛が震えるけれど、紺色の瞳を彼は見ることはできない。
他人がいるからかセーレは彼女の名を呼ばない。アストレイアはそれを酷く悲しく感じた。守るようにセーレはアストレイアを抱える。その腕が震えていることは、彼女だけが気付いてた。
「大丈夫だよ」 ただその一言が言いたいのに、口は重たく言葉を出せる気がしない。もしもう一度目が覚めたら、そこまで考えてアストレイアの意識は完全に途絶えた。
「アーシュ、こんにちは」
穏やかで優しいセーレの声がする。けれども返事は聞こえない。夜会で倒れた彼女はそのまま意識を取り戻すことなく、今日もただ、静かに眠り続けている。
医師によると原因不明。ただ眠り続けているだけだという。セーレも家族たちもいつ目を覚ますかと待っていた。けれどももう三日、何も変わることがない。
「僕は間違えていたのかな」
セーレはぽつりと呟いて、寝台の横に置かれた椅子へと座る。家族の許可を得ているため、メイドをつけて寝室に入ることを許可されている。けれども触れては駄目だろう。焦がれるように伸ばした手をセーレは空中で握りしめ、そのまま下に降ろした。
「アーシュに幸せになってほしかったんだ。君が倒れてしまうほどだったなんて。あのまま何もしなければ、君は辛くなかったのかな」
答えは無い。けれどもセーレはぽつりぽつりと呟いた。
「欲張ったから駄目だったのかな。思い出してほしくてさぁ。僕にとっての大切な思い出を君に。でも君が元気で笑うなら、本当はそんなことどうでもいいはずだったんだ。僕が苦しめてしまった。ごめんよ、ごめん、アーシュ」
セーレの悔いる言葉は止まらない。けれどもアストレイアは深く眠り込んだまま、彼の言葉に何も返すことは無い。「また来るよ」 そう言って、セーレは泣くように笑って帰って行った。
アストレイアはその次の日も、そのまた次の日も、ずっとずっと眠り続けた。
アストレイアは変わらなかったけれど、大きく変わったことがあった。アストレイアとアルベールの婚約が解消されたのだ。両家ともにアルベールの行動を良く思っておらず、さらに夜会でアストレイアが関係の解消を願っていたことを野次馬たちは聞いていた。
アルベールは最後まで派手に暴れて抵抗したようだったけれど、今回ばかりは思い通りにならなかったらしい。
「アーシュ、こんにちは」
セーレの声が響く。夜会から8日たった今日も、まだアストレイアの目は覚めない。どんなに不調が無くとも、目を覚まさなければ衰弱して死んでしまう。セーレや家族たちはみな、一日一日と過ぎていくのを怖ろしく感じるようになっていた。
「アーシュ、寝坊が過ぎるよ。目を覚まさないから、部屋がお見舞いで埋まってしまう」
そう言いながら、セーレはいつもの場所に腰を下ろす。
「前にシロツメクサの話をしたよね」
セーレは抱えていたバスケットから、たくさんのシロツメクサを取り出した。そして器用にそれを編んでいく。
「アルが君に冠をかぶせてくれたと言ってたけどさ、今でも君はそう思う?」
茎と茎を編み合わせ、長い束を作っていく。
「アルは不器用じゃなかった? 覚えてないかなぁ?」
指先を動かしながら、セーレはポロポロと涙を流す。懐かしむように笑いながら、それでも目の端からは涙がこぼれ続けていた。
「ほら、出来たよ」
そう言ってセーレは眠るアストレイアに語りかける。
「『僕と結婚してください』 そう言ったことを覚えてない? 僕はあの時心臓が飛び出そうで、今でも忘れられないほど汗をかいてた。君の返事も覚えてないの? でも大丈夫。君が何度忘れても、僕は君に言い続ける。今度は君が忘れないように、毎日だって言うからさ。どうかもう一度、目を開けて」
一度乱暴に袖で涙を拭う。そしてセーレは無理やり笑顔を作った。
「好きだよ、アーシュ。起きてくれなきゃせっかく冠を作ったのに、君につけてあげられない。上手にできたから、きっと......」
沈黙を怖れるように喋り続けるセーレだったが、アストレイアの睫毛が揺れたような気がして、思わず口を閉ざす。どんな音も聞き洩らさないよう、どんな変化も見逃さないよう、凍り付いたように静かに見守っていると、今度は確かに紺色の瞳が世界を映した。
「アーシュ!!!」
慌ててセーレは傍に寄る、上手く声が出せない様子のアストレイアに水を飲ませ、震える手で彼女の背を支える。
「セーレ」
久しぶりに聞く彼女の声は、甘く、胸が締め付けられる。流れる涙をそのままに、「うん」 と彼は頷いた。
「忘れていて、......ごめんなさい」
彼女は必死に言葉を紡ぐ。
「『お嫁さんになるのなら、色んな言葉をおぼえなくっちゃ』 私、そう返事をしたわ」
アストレイアはじっくりと、味わうように話しだす。彼女は昔、確かにセーレが好きだった。彼の家が外交に携わることが多いから、自分も語学を学ぶほど。それなのに何故、忘れてしまっていたのか。
「他の国へ行ってしまうあなたに、だからエーデルワイスを刺繍したのね」
「花言葉、大切な思い出でしょ? 僕、嬉しかったんだから。ああ、おかえりなさい、アーシュ」
その言葉を聞いたとき、ようやくアストレイアは頭痛が消え去っていることに気が付いた。忘れてしまった煌めく思い出が頭の中を駆け巡る。風に揺れる柔らかな茶色の髪、甘そうなはちみつ色のたれ目、笑うとそれが情けないほど下がってしまうこと。
「許されるなら、あなたを好きでいたい」
アストレイアは涙と共に、ただ一言呟いた。
ドアマット系恋愛小説のヒロインという舞台装置でしかなかった彼女。
「違うわ。許されないなら認められるよう努力する。それくらい、あなたが大好き」
けれどもこの日、彼女はようやくただのアストレイアとして笑った。