愚童セカイ《でゅおんりー・わあるど》
バカと天才は紙一重。
バカと煙はなんとやら。
彼女は高いところが好きだ。
思いだしてみれば、彼女との印象的な思い出ほど、高い場所でのことが多かった。親に内緒で、流星群を見に行ったあの日だって。
あの日、あいつは何か大切なことを言っていたような気がするけれども、子供の頃のことで、思いだせない。
ともかく。とにかく。
今日もまた、僕と彼女は高いところにいて、今日は今までの昔話がちんけなものだったと思えるぐらいヤバい状況であることは確かだった。
「ねえ。聞いてくれよ。細胞ってやつは、ひいては生きているものは、生きるために生きている。それは間違いないはずだよね?」
彼女は賢そうな口調でそんな風に切りだした。
実際彼女は賢い。バカな僕と違って、学校の成績もよく、頭の回転もよい。
しかし僕は知っている。幼馴染である僕は知っている。
彼女は賢いが、しかし同時に、愚かであることを、僕は知っている。
「死ぬために生きている生物がいることも、確かに事実だ。寄生虫なんかがいい例だ。しかしどうだろう。あれは死ぬことによって、食われることで、次世代という生を繋いでいる。つまるところ、生きていると言ってもいいだろう。生きるために生きているのだと言っていいだろう――それなのに、死んだあとに働きだす、役立たずの細胞があることをご存じかな?」
バタバタバタ。と彼女のスカートが風にはためく。
視界を自分の黒髪が何度も横切ってうっとうしい。
今日ほど前髪をしっかり切っておけばよかったと思った日はなかったかもしれない。
まばたきする一瞬。
前髪が横切る刹那。
そのかすかな瞬間すら、目をそらすことが、これほどまでに恐ろしいとは思いもしなかった。
「あは」
と目の前の彼女は笑う。
目の前の幼馴染は笑う。
「知らなくても別に問題はないよ。つい最近発表されたばかりの話だからね」
「……一応、知ってる。ネットのニュースで見たよ」
勝ち誇ったように笑う幼馴染――古巻楓に対して、僕は呆れたように口を開いた。
最近ニュースになった話だ。とはいえテレビに出るようなニュースではなく、もっと胡散臭い、アングラでサブカルチャーなニュースサイトに出てくるような、信ぴょう性の薄いニュースだ。
死んだ後にも動き続ける――死んだ後にこそ動き始める細胞があることが発見された。
死んだあとに動く。終わっているのに動く。
それは一体、なんの価値があるというんだ?
そんなわけで僕はこのニュースのことを信じていない。
しかし目の前の愛すべき愚かな幼馴染は、それを信じているようだった。
楓は面白くないと言わんばかりに口を尖らせる。
しかしすぐに、またあの笑顔に戻る。
策士を装った、愚かな笑顔に。
「なんだ。知っているのか。つまらないの。まあ、いいや。じゃあ、私がなにをしようとしているのか。分かるよね?」
「分かるよ。すごく分かる。まさかお前がそんなことをするほどバカじゃあないってことも、よく分かる」
一歩ずつ、一歩ずつ。
できるだけ彼女を刺激しないように、忍び寄るように、彼女に近づく。
「やめない」
しかし彼女は、にぃ。と笑いながら両手を大きく広げた。
「なぜなら、私が気になるから」
人が死んだ後に活動を始める細胞の真意を。
無意味にしか思えないそれの存在意義を。
「だからさ。巻風古木」
確認してよ。
そう、彼女の口は動いた。
「私がしっかり死んだことを、確認してよ」
言って。
言って彼女は。
学校の屋上の端から、まるで道路の段差を――歩道と車道の間にある段差を降りるかのような気軽さで、飛び降りた。
「だから、どうしてそうなるのか教えろっての……っ!!」
楓の下半身が見えなくなる。
それぐらいになって、ようやく僕の体は走りだした。
距離は大股で四歩分。
間に合う。まだ間に合う。
距離を一気に詰め、落下防止用の柵――腰ぐらいまでしかなくて、乗り越えようと思えば乗り越えれる――の隙間から腕を伸ばした。
楓の手を掴む。
体重が一気に腕にのしかかり、僕の体は柵に叩きつけられる。
ぎしぃ。と柵は軋み、僕の肩へとめり込む。
しかし、それでいい。
柵が僕の体を押し止めて、落下するのを防いでくれるだろうから。
僕自身、落下する体をしっかり掴んで自分の体も落下しないように支えることができるほど力がないことは理解しているつもりだ。
ほっと一息つく。
あとは引き上げるだけだ。それで終わる。
そう思っていた。
メキ、という音が耳に入るまでは。
それが柵が壊れた音だということに気づいたのは、壊れた柵ごと屋上の外に体が放りだされてからだった。
突如、体を襲う浮遊感。
真下に見える固そうな地面と、驚きと怒りが半々。といった感じの楓の顔が見えた。
口が動いている。
“なんで古木も一緒に落ちてくるの。誰も確認できないでしょう”
なんてことを言っているようだった。
怒るところがそこかよ。
しかし残念なことに、僕の耳は音を聞くことを放棄していた。
浮遊感は終わりを告げる。
落ちる。
体につけられたヒモを引っ張られているような――強力な磁石によって引き寄せられているような、そんな感じだった。
壁。壁。壁。
地面。
近づく。
近づく。
近づく。
目と鼻の先。
楓の方が速い。
楓が先だ。
まずい。このままでは。
せめて頭だけでも守れるように。
腕を伸ばす。彼女の頭を覆う。
無意味だ。分かっている。知っている。
僕の手のひらが潰れる。
続いて彼女の頭がかち割れる。
面倒で鬱陶しく。
しかし愛してやまなかった顔が。
見るも無残。
体が潰れる。ひしゃげる。
中身が見える。中身だけが見える。
赤い。赤い。赤い。
生々しく。ぐちゃぐちゃとしている。
突っ込む。
触れる。
僕もそれと同じになる。
痛そうだ。つらそうだ。
でも。
一瞬そうだ。
音はしない。
聞こえない。
潰れてしまったから。
分からない。
けれど。
“ぐしゃり”
という音がしたことだけはよく分かった。
***
「ねえ。ちょっと。はやく起きてよ」
声がする。
耳が音を聞くことを再開したらしい。
ゆっくりと目を開く。ぼやけた視界に学校の校舎が映る。
こうして寝転がった状態で屋上を見上げると、かなりの高さから落ちたのだと実感する。
そのかなりの高さから落ちたというのに、僕は見上げることが出来ている。考えることができている。
僕はどうやら生きているようだった。
頭が潰れたような気がしたんだけど。体がひしゃげたような気もしたんだけど。
ただただ、頭から固いアスファルトに激突しただけのようだった。
よくもまあ、生き残ったものだ。
僕は。
……楓は?
記憶が戻ってくる。飛び降りた彼女は確か、見るも無残なミンチに成り果てていたような気がする。
「……楓っ!」
僕は上半身を勢いよく持ち上げた。背中から、ベリ。となにかを剥ぐような音がした。
肩越しに後ろを確認する。
背中は赤かった。
地面も真っ赤だった。
夥しい血が撒き散らかされている。
血、血、血、血、血、血、血。
血、血、血、血、血、血、血。
血、血、血、血、血、血、血。
血、血、血、血、血、血、血。
赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤く赤い――。
ちょうど人間ひとり分の血液全てを撒き散らかしたらこれぐらいになるではないか。そう思ってしまうほどだ。
楓の姿はない。
どこにもない。
まさか、この血は。
「ねえ、ちょっと。ねえ。聞こえてる? 聞こえてるのに無視してる? それとも聞こえていない?」
声が聞こえた。
楓の声だ。
しかし首だけを動かしてあたりを確認するも、楓の姿はどこにもない。
見当たらない。
どこにいるというのだ。
もしかしてまた屋上に上がっているんじゃあ。
「おい、楓。お前いまどこにいるんだよ」
「どこにいる。かあ。説明しづらいんだけど、とにかく、まずは自分の両手を確認してくれる?」
楓はめずらしく、かなり困惑した声色でそうお願いをしてきた。
僕は変だな。と思いつつもそれに従い、そしてその困惑の理由に気がついた。
僕の両手は一言で言ってしまえば――歪な姿になっていた。
指の長さがいつもと違う。指の太さも、いつもと違う。
まるで何本かの指を引っこ抜いて、別の人の指を埋め込んだみたいな。
別の人。
いまここにいない人。
夥しい、尋常じゃあない血の量。
一人分の血液。
二人いた人間が。
いまは一人。
いや。
いやいやいやいや。
まさかまさかまさかまさかまさか。
「その想像通りだよ。古木」
どこにいるのか分からない楓は、僕の動揺を感じ取ったように――直に感じ取ったようにこう言った。
「どうやら私たちの体。足りないところを補うようにして、一緒になっちゃったみたい」
***
「確認するぞ」
「了解了解」
楓の気楽そうな声が、体内から聞こえてくる。
まるで胃に彼女の口が引っ付いているかのようだ。
通常なら一笑に付すような表現ではあるけれども、今の状況だと、その冗談も物理的に実現されている可能性もあるわけで、一笑どころか、ゲラゲラと気が狂ったように笑い転げたい気分である。
「いや、それはないと私は踏んでいるよ」
と楓は言った。
踏む足なんてどこにあるんだ。今のお前に。
「左足と右足の小指は私のものだよ、巻風古木。そうじゃあない。胃に私の口がある可能性はほぼないって話さ」
「どうして」
「私の頭はきみの目の前でぷちっと潰れたんでしょ?」
「そんな可愛らしい擬音で表現されるものでもないだろ」
「そのときに口も一緒にぷちってなっているはずだし、なにより、もしも胃に口があるような、普通ではない状況になっているのなら、私たちの体も、普通の人型ではなくて、肉と肉を繋ぎ合わせたような不気味なフランケンシュタインの化物――あるいは屍肉のゴーレムになってるんじゃあない?」
「不気味であることは変わりないけどな」
「まあ、ぱっと見は分からないよ。多分」
楓は少し自信なさげに言った。もしかしたら目は僕のものだから、彼女にはなにも見えていないのかもしれない。
「えっと、まず質問。お前は見えているのか? 聞こえてるのか?」
「見えてるし、聞こえてる」
見えていたようだ。僕の意見は大体外れている。
「ただし、私の意思で見たいところを見れるわけではないみたいだ。人が操作しているカメラを覗いているみたいな気分で、慣れないと気持ち悪いね」
「耳は?」
「自分の好きなように聞く聞かないを選べたっけ?」
「じゃあ、お前はこの体を動かすことは?」
「できない。あくまでも主導権は巻風の方にあるみたいだね。ただ、どこが私の体なのかは分かるよ。ここで一応忠告なのだけど、胸の部分は私のものだから、できれば注視してほしくないなって」
「これが胸っ!?」
僕は勢いよく視線を下に落として、制服の襟を引っ張って中身を見てからひどく落胆した。
なにせそこにあったのは、通常時の体となにも変わらない平坦さの胸だったからだ。これで胸と名乗るなんて、笑止千万もいいところである。
「私の幼馴染がここまで躊躇と恥じらいを知らないとは思わなかったよ……」
最低。と楓は唾棄するように言った。
最低なのは認めるが、そこに胸があるというのなら、どうしても見てしまうのが男子というものなのである。
「で、これは本当に女子の胸なのか? 男の胸ではなくて?」
「これ以上私を落胆させないでくれよ。巻風くん」
「体はすごく近くにいるはずなのに、呼び方のせいではるか遠くにいるように感じる」
「近くどころか、同じ体だけどね」
そうなのだ。
学校の屋上から飛び降り自殺――という名の実験――を行った楓と、それを引っ張り上げようとして巻き込まれて落ちてしまった僕は、目を覚ましてみると、バラバラになった体をひっつけ合わせるようにして『一人』になっていたのだ。
二人で一人。一人で二人。
まるで息のあったコンビを表しているかのようだが、文字通り二人で一人になってしまっていて、笑うこともできない。
「まさか死んでから動き出す細胞がこんなものだったなんて、さしもの私も想像できなかったよ」
「どんなのを想像してたんだ?」
「ゾンビ」
「ああ、お前好きだもんな。そういうの……」
楓はB級映画と呼ばれるジャンルの映画が好きで、特に『ゾンビが出て来て人を襲う!』だけな映画が大好きだ。
賢いくせに、好みは意外とバカっぽい。
どこまでも愚かな彼女にぴったりだ。
「ふむ」
と、楓は一息つく。
「どうやら『鼻、首、胸、肝臓、膵臓、左手人差し指、親指、右手小指、薬指、中指、右上腕二頭筋、腰、左太もも裏側、左くるぶし、左足、右脚の小指、血液のおおよそ二十パーセント』が私のものらしい。ところで、巻風古木はO型だったっけ?」
「……O型だよ」
「だったらラッキーだ。拒絶反応は起きない」
「やけに冷静だな」
「冷静に決まってる」
楓は当然のことのように、小首を傾げながら言う。
「私が自分でしかけた実験の結果だよ? 結果予想が間違っていたとしても結果は結果だ。なにを驚く必要がある」
「…………」
これだ。
こいつは昔からこうだった。
例えば幼稚園児の頃、楓は『体に血管があって血が流れていること』に疑問を覚えた。
一体なにに疑問を覚えているのか、賢いものたちの脳内は疑問で尽きないが、体の中に管がはしっているという事実に現実味を感じれなかった彼女は、思いついたら即実行、右腕を包丁で切り裂いた。
皮膚をぴっと切ったのとは比べようにならない血がどばどばと流れた。彼女の奇行によって僕は、人の骨が白いことを、人の脂肪は黄色いことをこの目で確認することができた。
失血でくらくらとしながら彼女は、深い傷穴の奥の方に切断された血管があることを確認して、満足げに気絶した。
例えば小学生の頃、楓は『好き』という感情について疑問を抱いた。
なにをしたら好きで、なにをされたら好意で、なにがあったら愛しているのか分からなくて、彼女は学校中の男子と関係を持った。肉体関係までは恐くて聞けていない。学校の男子の初めてのキスの相手は楓になった。無論、僕もその一人だ。
そんなことをして、『クラスの女子』というこの世で一番敵に回してはいけない存在が黙っているわけもなく、学校中の女子は陰湿なイジメを行おうとした。
しかし『クラスの女子』は、天才というのはそもそもステージが違うから敵対すらできないことを知らなかったのである。
数日もしないうちに女子たちの陰湿なイジメ話は聞かなくなり、彼女は女子グループを一つにまとめ上げてリーダーとなった。理由を聞くと皆口をおさえながらそっぽを向く。
まあ、そんな感じに。
楓は自分が疑問に思ったことをとことん突き詰める性格をしている。
ひどく狂気的で、恐ろしいほど無節操で、呆れるほど愚かな彼女。
家族からも見放され、放任主義の名のもとに見捨てられた彼女。
頭がいいだけの愚者。
成績のいい危険人物。
しかしまさか、中学生になると『自分が死ぬ必要がある疑問』を突き詰めるとは、露とも思わなかった。
「まあ、しかし」
と、ここで。
楓は少し申し訳ないと思っている声をだした。
推定。ではない。断定《思ってる》だ。
声の雰囲気からではない。幼馴染としての長年の勘でもない。
楓の申し訳ないという感情が、頭の中に直接流れ込んでくるかのように理解できた。どうやら彼女の意識だけでなく、彼女の感情というものも、僕の中に混ざりこんできたらしい。
「巻風古木。きみを殺してしまったのは私だ。本当に申し訳ない。頭があったら地面に擦りつけて謝りたい限りだが、生憎今の私には頭はないので、きみの頭をこすりつけてくれ」
「いやそれはお前が楽しいだけだろ」
なんていう冗談はともかく。
「なんでお前が謝る必要があるんだよ」
「ここで謝らなくてもいい。と言える聖人君主な幼馴染をもてて、私は幸せだよ」
「そうは言ってない。むしろお前が土下座するところが見れるというのなら、死んでみるもんだな。とすら思っている」
「私も大概だとよく言われるけど、巻風古木もわりと大概だと私は思うよ」
「お前に言われたらお終いだな」
「私が死ぬこと自体は特に問題はなかった。それ自体が実験だったわけだし。しかし、巻風古木。きみを巻き込んでしまったのは大問題だ。私がきみを巻き込んだ。それはつまり、私がきみを殺してしまったようなものだ。本当に申し訳ない」
楓は心の底からの謝罪の言葉を口にした。
そこまで謝られてしまっては、許さなければ幼馴染ではない。
「いいよ。お前とずっと幼馴染でいて学んだことは『やってしまったことは仕方ない』だからな」
「おお、そうか。ありがとう!」
楓はさっきまでの心からの謝罪の念なんてすっかり忘れた声色で喜んだ。彼女の幼馴染をして学んだこと二つ目。こいつに謝罪の気持ちを持ち続けるなんて人間らしいことが出来ると思うな。
さて。
さてさてさて。
やってしまったことは仕方ないから、これからのことを考えるとしよう。
さしあたって、これからの動向だ。
なにせ僕の体は楓の鼻、首、胸、肝臓、膵臓、左手人差し指、親指、右手小指、薬指、中指、右上腕二頭筋、腰、左太もも裏側、左くるぶし、左足、右脚の小指、血液のおおよそ二十パーセントと、残りは僕の体で出来ているのだから。
こんな滅茶苦茶なことをしでかした神様の美的センスは悪くはないようで、そこまで醜い姿にはなっていないものの、それでもパーツの違うプラモデルを無理矢理くっつけたように歪であることは変わらない。
じっと見たら分かる違和感。しっかり見たら分かる歪つさ。
このまま学校に戻るわけにはいかないし、街を歩くわけにもいくまい。
唯一のありがたい点は顔は僕の顔そのままであることぐらいだ。
「家に帰ったらなんて言われるかね」
「そこでまず家の心配をするあたり、巻風古木も色々慣れてると思う限りだが、そこは安心していいと思うよ。人の目は、ない」
「え?」
「さっきから気にならないのかい? 学校が、静かすぎるって」
***
学校の中には誰もいなかった。
楓が飛び降り実験を試みたのは放課後。学校が終わった直後で、空はまだ、僕の足元と同じぐらい赤い、夕暮れだった。
今もまだ夕暮れ。時間にして五時か六時。
そんな時間に生徒全員が家に帰り、なおかつ、先生も全員帰路についたりするだろうか。そんな良職場であるのなら、先生の過労働がニュースになっていたりしない。
「巻風古木。私の予想を言ってもいい?」
「意見でもなんでもいいから話してくれ。無音な学校なんていうのは普通に不気味だ」
「ところできみには、彼女はいるのかい?」
「なんでもいいとは言ったけど突拍子もなさすぎないか?」
「一応ね。私の予想に必要なんだって。答えてよ」
「……いねえよ」
「可哀想に」
「お前がいま内心僕を馬鹿にして笑っていることはひしひしと伝わっているからな」
「確か中学生の頃に私が三時間ほど付き合っていたときは『初めての彼女だ』だと舞い上がってたね。つまり、私が最初で最後ということだ。そうなんだそうなんだ」
「……?」
今の含み笑いになにが含まれているのか、それは今までのように、まるで自分のものであるかのように分かることはなかった。女子は男子よりも嘘をつくのがうまい。自分の心を隠すのもお茶の子さいさいなのだろう。
「いやしかし、生涯孤独でラッキーだったね。巻風古木」
「待て。前だけでなく後にも彼女が出来ないだろうという言い回しは待て」
「なにせどうやらこの街には私たち以外人がいないようだからね」
「弁明することなく先に進もうとするな……は?」
だから。と楓はもう一度言った。
「この街に人がひとりもいない。さらに言えば、生き物もいない」
「なんでそう思うんだよ」
「音だよ」
楓は端的に答えた。
「文明とは『音』だ。集団とは『音』だ。音がない場所には文明も集団も存在しない。ところで、巻風。この街のどこに『音』があるのかな」
確かに。
今現在、僕らがこんな姿になってしまってから、人の姿を見かけないどころか、生活の音すら聞いていない。
聞こえてくるのは風の音と、楓の言葉だけだ。
まるで世界が僕ら二人だけになってしまったように。
「僕ら二人じゃあないよ。私たち一人。だ」
「どうやら問題が起きたのは、僕らの体だけではなかったみたいだな」
「この姿を見られないで済む。というのはラッキーだけどね。とにかく学校を出てみようよ。家に帰るまでに、もしかしたら人を見かけることがあるかもしれない」
「家ってこの場合、どっちの家だ?」
「なに、久々に私の部屋に行きたいって? 仕方ないにゃぁ」
「僕の家に行こうか」
「巻風古木の家に行くのも、久々だね」
楓は楽しみだと、感情を隠すことなく言った。
そういえば。
そうだった。
僕の家に楓をあげたのは、中学校の頃、こいつと三時間だけ付き合っていたときが最後だった。当時は家から帰るときには彼女ではなくなっているとは思いもせずに、舞い上がっていたものだった。
「なあ」
僕は自分の家に向かう途中、なるだけ自然に、楓に尋ねてみた。
僕の内心も、彼女に筒抜けだろうから、そんなに意味のないことだとは思うけれども。
「どうして中学の頃、僕とは三時間しか付き合わなかったんだ?」
「もっと長い間付き合っていたかった?」
「……まあ、本音を言えばな。僕だって、普通に彼女が欲しい年頃だ」
「素直に答えてくれたきみに敬意を払って、私も素直に答えようかな。きみは三時間で充分だったんだよ」
うふふ。と楓は笑った。
三時間で充分?
三時間で理解しきれるぐらいの底の浅い男だったってことか?
「まあ今の大ヒントで気づけないぐらいには底が浅いよ、巻風古木は」
楓は呆れてものが言えないよ。と頭があれば頭を振ってそうな声を漏らした。なにが大ヒントだったのだろう。
家に着くまで真剣に考えてみたものの、なにがヒントなのか、そもそも答えとはなんなのかもさっぱり分からなかった。
我が家からは生活の気配というものがしなかった。
家に帰ってきたらまずわんこらわんこら吠え続ける愛犬ポチの喧しい歓迎すらない。ここで「楓の匂いも混じってるから、僕だと分かりづらいのだろう」とか、そんな甘い考えはしなかった。
この街には、人どころか、生物すらいない。
それはもう、確定事項として扱っていいだろう。
「どうしたんだろうねえ、皆は」
「僕らが落ちた衝撃で地震が起きて、緊急避難してるのかも」
「緊急避難するほどの地震が起きたにしてはものが落ちてないから、可能性はないかな」
「マジメに検証しないでいいから」
「あ、私炭酸飲料苦手なんだ。栄養ドリンク味なんてもってのほか。別のにしてよ」
「飲むのは僕の口だし味わうのは僕の舌だし溜め込むのは僕の胃だろ? 僕の好きなもの飲んでなにが悪い」
「ああ、そんな不健康そうな黄色い液体なんて飲んで。色がついている液体ってだけでもう信用ならない」
「それじゃあお茶も飲めないだろ」
と茶々をいれてみたけれども、楓は色付きの液体が飲めなくて、ミネラルウオーターしか飲めないことは知っていた。水道水も若干濁ってるから嫌なのだそうだ。
しかし僕は色付きの液体大好きだ。
特に健康に悪そうで、値段が妙に安いやつ。
栄養ドリンクとして売り出されていると、特に最高。
「さて。状況を整理しよう」
「整理と言っても、そんなに複雑じゃあないけどな」
「複雑ではないけれども、怪奇的ではある」
「まず一つ、僕らは死んだ」
「そして『死後に動き出す細胞』によって生き返った」
「ただし、僕ら二人の体が引っ付く形で」
「私たちは一人になった」
「すると、学校から人の気配がしないではないか」
「学校の中だけでなく、街からもしない」
「私たちが死んで生き返っている間に、街から人がいなくなっていた」
「もしかしたら世界すべてでいないかもしれない」
「私たちは一人だけになった」
幼馴染だからできる息ぴったりのセリフ回し――と言いたいところだけれども、実際のところは相手の意識も、まるで自分の意識のように分かるから出来ている芸当ってだけである。
だから楓が今考えていることもよく分かるのだけれども、しかし、考えていることが分かっても、理解はできなかった。
「私は、前提が間違っているんじゃあないかって思ってる」
「前提?」
「私たちは、本当に死んだのかな?」
「はあ?」
「だって、考えてみてよ。『私たちが死んで混ざって生き返った』のと『世界から人がいなくなった』という異常事態が連続して起きている。これは本当に、別の話だと思うかい?」
「お前はきっと『うなぎが暴れた直後に地震が起きたので、原因はうなぎです』と真顔で言うタイプだよな」
と、茶々を入れてみたけれども。
さすがにこの現状二つともがともに別の事象であると考えることはできなかった。
猫がキーボードの上を歩いていたらたまたまシェークスピアの戯曲になっていた隣で、猿が数字の0を発明していたような、奇跡に異常を掛け合わせたような緊急事態である。
それに別個の理由があると考えるよりも、『猫も猿も改造手術をうけた超生物だったのである!』とまとまった理由があると考える方が自然だ。そうすれば二匹とも『人間とはなんと愚かな生き物なのか』と考え、滅ぼしに来るだろうから先に殺処分しておく。という選択肢が取れる。
「人間なんてほっといても勝手に絶滅するんだから、いちいち滅ぼすよりも、放置しておいた方がいいに決まってるじゃあないか。自意識過剰な生き物だよまったく」
「なんで人間滅ぼす側に立って話してるんだよお前は」
「人間……なんと愚かな」
「お前にだけは言われたくない」
「そんな愚かな私に付き合ってくれる巻風古木はさらに愚かだ」
いつもありがとうねぇ。と楓は僕の中で笑った。
ああ、そうだ。いつもそうだ。
この笑い声のせいで、僕はこいつの、誰しもが見捨ててしまった愚かさを、許してしまっている。巻き込まれてしまっても、良しとしてしまっているんだ。
しかし、やっぱり。
「笑い顔も見ないと、物足りない?」
「…………」
「きみが私の意識思考を読み取れるように、私もきみの意識思考を読み取れるんだと言うことを忘れないでほしいね」
「…………っ!!」
「ああ、今の私の気持ちはきみをからかえて楽しいという気持ちだけだ。悪しからず」
実際、読み取ろうとしてもその感情しか分からなかった。
全力で楽しみやがって。どうやったらこの状況を楽しむことができるのか。ああいや。この状況はそもそも、こいつが望んでいたことではあったのだから、楽しんでいないと、むしろたまったものではないんだけれども。
「ふむ。しかしあれだね。からかうにしても、やっぱりからかった相手の顔が見えないというのは面白くないね。巻風古木。これからずっと鏡を持って自分の顔をうっとりと眺めていてくれ」
「それどんなナルキッソス? 嫌だよ」
「嫌か。だったら仕方ないね」
と、非常に残念そうに言いながら楓は。
「元の世界に戻ろう」
と言いだした。
「元の世界?」
「ここは恐らく、私たちが一人になる前にいた世界じゃあない」
「なんでそうだと思うんだよ」
「私たちは死んで、『死んだ後に動き出す細胞』によって生き返った。そう思っていた。だよね?」
「まあな……待て、思っていた?」
楓は神妙に頷く。
「でも生き返った後の世界は生前とそっくりな世界ではあるけれども、『人が一人もいない』という明らかに違う部分があった。ここは生前の世界ではない」
「じゃあ、僕らは死んでいるのか? 天国っていうのは街のことで、地獄っていうのは学校だったのか?」
「学校が地獄だという意見には同意するけれども、それは違う。人は死んだらおしまいだ。まあそれに、もしもここが死後の世界だったのだとすれば、『死んだ後に動き出す細胞』で生き返った。という前提は崩れる。だからそもそも、今の状況から考えると、この前提は間違っていたことになる」
「小説でやったら怒られるぞ」
「気にしない。前提を否定する小説なんて幾らでもある。今度読ましてあげるよ。この世界から戻ることができたらね」
「戻るって言ってもなあ」
僕は天井を見上げる。
何度も見た、いつもの天井だ。見慣れない天井ではなく、見飽きた天井。
ここが僕らが飛び降りる前にいた世界と違うと言われても未だ現実味を帯びない――いや今までの話全て現実味なんてないだろう。と言われたらそれまでなんだけど――し、なにより、ここから戻ると言っても、手掛かりもヒントもなにもない。なにを探せばいいのかも分からない。
「なにを探せばいいのかは分かっているよ。いや、正確に言うなら、探すものはこれぐらいしか残っていない。が正解かな。手を見てみたまえ。巻風古木。どちらの手でもいいから」
手が好きだなあこいつ。と思いながら、僕は小指と薬指と中指が楓のものになっている右手を見た。
「なんで、五本なんだろうね」
「は?」
なんで五本なんだろうね?
なにを言っているんだろうか。こいつは。
僕らの手の指が五本であることぐらい、僕らは生来知っているし、人間の長い歴史の中でも変わることはなかったはずだ。
「人間の指の数の話じゃあないよ。私たちの指の数の話だ」
楓は言う。
「私たちの体は足りないところを補うようにして一つの体になった。それは間違いないよね?」
「状況から考えたら、まあそうなるな」
「じゃあ、余りはどこに行ったんだろう?」
「あまり……?」
「潰れてしまったのも、そりゃまああるだろうさ。でも、無事だった指がぴったり五本だった。なんてこと、ありえるかな?」
つまり。と楓は続ける。
「手の指は私と巻風古木の指を合わせてニ十本。腕は四本で足も四本で頭は二つで人体は二つだ。そのパーツを使って、人をひとり造りだした」
足りないところは補った。
じゃあ多いところはどうした?
***
もう一人いる。
僕らがもう一人、この街のどこかに潜んでいる。
足りないところを補って造りだした僕ら以外に、多いところを継ぎ接ぎ合わせて造られた誰かがいる。
「無意識」
と楓は提示する。
「もちろんこれは言葉遊びじゃあないよ。いや、答えを考えると言葉遊びであることは間違いないんだけどともかく、人間の意識には『意識』と『無意識』が存在する。顕在意識と潜在意識。意識できる『意識』と、息しできない『意識』。意識できない意識。なんだか矛盾してるような気がするけど、それは確かにあるのさ。驚くべきことに。知らざることに。おかしなことに。いかれてることに。そして私は今『自分の意識に気づいている』。『私はここにいると気づいている』つまりここにあるのは意識できる『意識』だ。そして、気づけない意識だから本当にそうだとは断定できないけれども、断定できた時点でそれは前提が狂ってしまうのだけれども、『誰か』が動いているというのなら、それは『無意識』が動かしている。と考えていいと私は考えてる。今できることと言えば、この『誰か』を見つけることぐらい。さて、巻風古木。『無意識』に向かいそうな場所に向かおうではないか!」
誰か――もとい、『無意識』が無意識に向かいそうな場所。
そんなもの分かったら、それはもう無意識ではないのではなかろうか。
そんなわけで僕らはこの世界をしらみつぶしに歩いて探し回ることにした。集団を利用できないローラー作戦というのは、まあすなわち無謀を意味するところではあるのだが、なにもしないよりはまだマシだ。
実際、もう一つの謎を見つけることができたのだから。
この世界は街の外がなかった。
空は地平線の向こうまで広がっている。
街の向こうにも街も山もある。
だけど、僕らは街から外に出ることができなかった。
まるで、ゲームのエリア限界で走っているかのように、そこから先に向かうことはできなかった。
ここまで来ると、この姿になる前と、この世界が同じ世界だと思うことはできなくなっていた。明らかに、おかしい。
「どうなってるんだ……?」
「『ロンドンは作られていない』に近いかな。これは」
「ロンドンは昔からあるだろ。僕らよりうんと年上だ」
「でも実際、行ったことはないだろう? 行ったことがないのに、どうして『ある』と言えるんだい?」
「写真も見たことがあるし、テレビでも」
「写真は偽物かもしれない。テレビだって嘘をついているかもしれない」
「陰謀論かよ」
「自分が目視して、しっかり存在を認識できたもの以外は、果たして『世界に実存している』と言えるのだろうか。この世界はどうやら、私たちが見えていた場所までしか、存在していない」
「僕ら基準?」
「私たちしかいない世界。私たちだけのセカイ。だから基準は私たち……ふうん。なるほど」
楓はひひひ、と笑った。
「このセカイがなんなのか、分かってきたような気がするよ」
「ホントか?」
「教えないけどね」
「……ヒントは」
「『きみの無意識ではなく、私の無意識が行きそうなところを目指してみてよ』」
楓はそれを言ったきり黙り込んでしまった。ホントに答えを教えてくれはしないらしい。たまに笑い声が聞こえてくる。楽しそうでなにより。
空が真っ暗になるまで街の中をくまなく探してみたが、見つからなかった。一度探した場所に移動されたりしたのだろうか。楓の『無意識』なのだとすれば、やりそうなことではある。非常に迷惑だし、異常に厄介だ。
「これなら、高いところから見下ろした方が早い気がしてきたぜ……」
「バカと煙は」
「お前にだけは言われたくねえよ、高いところ好き」
『――――――――――――』
多分。
これは彼女からしてみれば、ヒントのつもりではなかったのだと思う。
楓はヒントを出さないと言ったら、ヒントが一欠片もでないように徹底するタイプであるからだ。
だから、今のヒントは彼女の意識していないヒントだ。
無意識の、ヒント。
僕は学校の裏にある山の方を見上げた。
山のてっぺんには、高い高い展望台がある。
***
幼稚園の頃。
楓が血管の存在に疑問を抱く少し前。
僕と楓はこの展望台に一度だけ昇ったことがある。
高いところが好きな楓が、昇ってみたい昇ってみようとせがんできたのだ。
僕は楓からのお願いを断ったことがなかった。
断る理由というのが特に思いつかなかったし、僕は昔から、自分からなにかをしよう。というのが苦手だったのだ。
だから、自分でなにかをしようと思うことしか出来ない幼馴染にべったりだったのだと思うし、その時も同じだった。
彼女は空に浮かぶ星に疑問を抱いたらしかった。
星がどれぐらい高くて遠くにあるのか、気になって仕方なかったらしい。
賢い彼女も、愚かな彼女も。
幼稚園児当時はなにかと愛おしい、愛らしい幼児だったのだ。
僕? 僕は今も昔も変わらず、覇気の感じられない、薄暗い子供だ。
「りゅーせーぐん。と言うらしいんだ。まきかぜふるぎ」
えっほ。えっほと山を登りながら、楓は偉そうに言う。
実際偉いので、偉そうではないのだが、彼女には『偉そう』という言い回しがよく似合う。
「きょうのよる、ほしがおちてくるらしいんだよ。てれびでいってた」
「ほしがおちてくる?」
「いえす。ほしはいつもたかいところにある。すごくすごくたかいところ」
「このまえようちえんのやねにのぼってたね」
「あのていどじゃあとどかなかった」
「だから、やまにのぼるの?」
「いえす」
幼稚園の頃、楓は『いえす』『のー』と答えるのが流行りだった。
それが英語で『はい』『いいえ』であることは、当時の僕には分からなかったが、彼女の表情からして、それは合っているんだな。と思った。
「やまだったら、とどくの?」
「のー。とどかない」
きっぱりと言った。
今も昔も、自分の意見すら否定することを平気とするやつだった。
「でもおちてくるのなら、もしかしたらてにはいるかもしれない。あの、きらきらがてにはいるかもしれない」
楓は額の汗を拭いながら、とても楽しそうに、生きていることが幸せだと体言しているかのように言った。
その目はそれこそ星のようにキラキラと輝いていて。
多分、この日だろう。
僕が楓に、恋心というものを抱いたのは。
「しょーじきなところ、あの頃のお前が一番マトモで手がかからなかったよ。年を重ねるたびに、面倒な子供になりやがって」
学校の裏にある山。
名前は竹田山。
その頂上には高い展望台があって、そこに『無意識』はいた。
彼女の目は指だった。
鼻は肘で、親指が肩から生えていて、二の腕はよく見ると太ももだ。
どこもかしくも、体のパーツは正しい箇所に配置されていることはなく、体の曲がる部分は小腸や大腸といった臓物で縛るようにカバーされていた。顔なんかはもう、歌川国芳の寄せ絵みたいになっている。
それでも多分。
これは彼女なんだろう。と僕は思った。
楓の『無意識』なのだろうと思った。
さっきから、楓の『意識』は一言も発していない。
自分の『無意識』と向き合うというのは、自分の気づいていない本音と向き合うことだ。なにを言いだすのか恐くて、さすがの彼女も、おいそれと話しかけづらいのかもしれない
「お似合いだよ。楓。そのぐちゃぐちゃな感じ。滅茶苦茶な感じ。まさしくお前の性根って感じだ」
「……ずるいよね、巻風古木は」
『無意識』の口は腹にあった。声帯が変なところにあるのか、ノイズのはしっている声になっているが、楓の声であることは間違いない。
「いつも私のことを名前で呼ぶ。ズルいよね」
『無意識』は、ふてくされていた。
その様子に、僕は唖然としてしまう。
「私だって、きみのことを名前で呼んでみたい」
「……は?」
「名前で呼んでみたい。ダメ?」
くてん。と『無意識』は小首を傾げた。
これが、『無意識』?
楓が抱いている、本人も気づいていない、本音?
「許可をくれたら、このセカイがなんなのか、教えてあげるからさ」
「お前も気づいてるのか?」
「『意識』が気づいているのなら、『無意識』だって気づいているさ。そして『無意識』こと私は、『意識』の私よりも、巻風古木に優しい。きみに好かれるためなら何でもしたい。きみに構ってもらうためならなんでもする。きみから目を離されたくないから、どんな無茶だってしてみせる。きみと二人っきりでいたいから、どんなセカイだって構築してみせる。安心して。きみと私は、死んでない。それだけは約束する。じきに目を覚ます」
「待て、じゃあ。これは夢オチなのか?」
「正確に言うならちょっと違う。でも、おおむねその通りだ」
ここは僕ときみの心の中だ。
僕ときみの心象風景だ。
『無意識』はペラペラと、セカイの秘密をバラしていく。
物語を終わらせるように。夢から覚めるために。
「しかし嬉しいなあ。きみにとって一番の思い出の場所。一番心の中に刻まれている時代が私との思い出だったなんて」
『無意識』の姿が消えた。
代わりにそこには、小さな幼女が立っていた。
幼稚園の頃の、楓だった。
「ほら、空を見てごらんよ。そろそろ始まるよ」
何が。とは聞かなかった。
幼稚園児の楓。
竹田山の展望台。
空。
夜。
それだけの情報があれば充分だった。
空を見上げる。
星が落ちていた。
たくさんの星が、尾を引いて流れていく。
まるで満天の星空が、セカイが、崩れていくように。
「……うおお」
僕は思わず声をあげる。
まさか中学生になっても、まだ流星群が綺麗だと思えるとは。
流れ星一つ一つは願いを三回唱える余裕もないぐらい早く流れて消えていく。しかし流れ星は視界から消えないぐらい絶え間なく流れている。
あの時と変わらない。
あの時と同じ、綺麗な光景だった。
「星の説明しようか。どれがデネブでアルタイルか」
「あの日は冬だったよ。夏の大三角形は見えない」
「覚えてたんだ。嬉しいね」
「そりゃあ、この光景が僕とお前の心象風景だと言うなら、僕だって、覚えてるはずだ」
「じゃあ、あの時私がきみに言ったことを覚えてる?」
「でもおちてくるのなら、もしかしたらてにはいるかもしれない。あの、きらきらがてにはいるかもしれない」
「『――――――――――――――――――――――』」
『無意識』は。
なにかを言った。
でも、それがなんなのかは分からなかった。
『無意識』は僕の表情を見て、顔を曇らせる。
「覚えてないんだ」
「……いえす」
「私は今も覚えてるし、返事を待ってるんだけど」
「めんぼくない」
謝った。
なにで怒られているのかさっぱりだったけど、とにかくまず謝った。
『無意識』は頬を膨らませながら、まあいいよ。と言う。
「どうせきみのことだ。覚えてないと思ってよ。でも、この場所を思い出を覚えていただけ、許してあげるよ」
それに。と楓は続ける。
「忘れているのならもう一度伝えればいい。言葉っていうのはいいね。いつだって何度だって、同じ気持ちを、同じように伝えることができる」
『無意識』は僕の前にまで近寄ってくる。
僕の耳に直接語りかけてくるぐらいまで近くまで。
「私はね、巻風古木。きみのことが好きなんだ。それはもう、三時間だけで『恋心』を理解できてしまうぐらいにはね。なあ、きみは、私のことが好き?」
***
目が覚めた。
見知らぬ天井がそこにあった。
病院特有の変な匂いがした。どうやら僕は、病院にいるようだった。
「お、目を覚ましたか。心中少年。死ぬのはまだ早いぞ。あと十年も生きたらもっと死にたいって気持ちになるからな」
知らない声がしたのでそっちを見てみると、白衣を着た、いかにも不健康そうな男が僕を見て笑っていた。
「……もっと死にたい気持ちになるのなら、今のうちに死んだ方が楽なんじゃあないですか?」
「そうでもない。死にたいという気持ちと一緒に、人生楽しいという気持ちも、まるで現実逃避のようにもりもり湧いてくるからさ。あと俺が苦しんでるのに先に逃げるやつがいるのは腹立たしい。自殺者絶対蘇生させる医師とは俺のことだ」
「僕は別に自殺も心中もしてません。自殺しようとしたのは……」
と。
ここまで言い切ってから僕は。
「楓は!?」
と叫んだ。
医師を名乗った白衣の男はうるさそうに耳を両手で塞ぎながら、あごで僕の隣をちょいちょいと指した。
僕は病院のベッドで横になっていた。
個別の部屋ではなく六人部屋。
隣に寝ているのは、楓だった。
すーすーと寝息をたてて、眠っている。
「……生きてるんですか?」
「生きてるよ。心中少年。飛び降りなんてしたから、内臓の幾つかが破裂していたが、どこかの少年がしっかり頭をガードしていてくれたおかげで、一緒に飛び降りてくれたおかげでどうにかなった」
「一緒に飛び降りたおかげで……?」
「心中少年、きみの臓器も滅茶苦茶になっていたよ。特に、肝臓と膵臓がひどいありさまだった。ただ、心中少女の肝臓と膵臓は無事だった。腎臓と胃と肺は跡形もなかったけど。だから、お前ら二人の臓器を移植し合うことにした」
「は……?」
「心中少年の肺の片方と腎臓と肺を心中少女に、心中少女の肝臓と膵臓を心中少年に、互いに生体移植させてもらったよ。生きてるんだ。満足だろう? いや、お前らの場合は死んだ方が満足か」
「……ありがとうございます」
「へえ、お礼が言えるとは今どき珍しい若者だな。こっちはこの件で色々怒られに行ってくるよ。ああ、死にたい。心中少年、もう自殺なんてするなよ。将来の悲しみを味わってから死ね」
医師は投げ捨てるように言うと、さっさと病室から出ていった。
ばたん。とドアが閉まると、楓が目を開いた。
「あの医者、私にも心中少女なんて言ってたけど、自殺したとは露とも思ってないみたいだね。心中したもの同士を同じ病室にいれるはずがないもの」
くすくすと笑ってから、楓は弱々しく笑った。
「おはよう、巻風古木。夢ぶりだね」
***
「『記憶転移』という現象を、きみは知っているかい?」
少しだけ休んでから、楓はそんな風に切りだした。
「臓器移植に伴って、提供者の記憶や性格の一部が、受給者にうつるという現象――まあ、オカルトだよ。ただまあ、その現象が私たちにも起きたと考えて間違いないだろう」
僕の臓器――腎臓と胃と肺。
楓の臓器――肝臓と膵臓。
僕らはそれを交換し合うようにして――1個しかないものは半分ことかにしたのだろう。医療に関しては全然詳しくない――生き延びた。
そして、臓器に秘められていた記憶と感情と性格が、眠っている僕らの夢の中に出現した。そんなオカルトが、僕らの身に起きていたらしい。
「私の夢にも、きみは姿を現したよ。きみは開口一番『迷惑だ』と私を罵ってきた。それからずっと、目を覚ますまでひたすら『危ないことはやめろ』『お前が死んだら僕が悲しむ』『いつも冷や冷やしてるんだ。お前の行動に』『好きな子にケガなんてしてほしくない』『頼むからもう少しおしとやかに――それが無理なら平和でいてくれ』『お前は自由でいてほしい。でも無謀はしないでくれ』なんて文句を続けて、最後に『僕からお前に伝えれる本音なんてその程度だ。さっさと起きてくれ。僕は元気なお前が好きなんだ』と言ってくれたよ。ん、どうした?」
「いや、身に覚えのない告白に頭が痛いだけだ」
「うふふ。嬉しかったなあ、私は。きみがそこまで私のことを心配して、好きでいてくれたなんて。ところで巻風古木」
「なんだよ」
「きみのセカイに現れた私はどんなのだった?」
「目が指だった」
「なんだそれ」
「飛び降りてぐちゃぐちゃになってしまったイメージがあったんだろうなあ」
「酷い話だ。他は? なにか言ってなかった?」
「そうだなあ」
僕は少し考えるふりをしてから。
「僕がお前のことを名前で呼ぶことを『ズルい』って言ってたな。自分も名前で呼びたいって」
実際のところ。
そんなことよりももっと伝えたいことはあった。
返事を返すべきだと僕は思った。
しかし、僕はそれを黙っておくことにした。
黙っていても、多分こいつは『無意識』がなにを言ったか、なんとなく理解しているように思えたからだ。
実際、楓はきょとんとした表情を浮かべてからにまぁ。と笑った。
悪だくみを思いついた、悪ガキの顔。
「それで、そんな私に、きみはなんて答えた?」
「……『いえす』だよ」
「そっか。嬉しいよ、古木。私もだ」
《the world is duo only》is HAPPY END.
congratulation!!




