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灰被り

 気づいたら、灰色の風景が目の前にあった。

 一面べったりと塗りたくったような、ケーキに飾られる砂糖菓子みたいな作り物の色。


「……ん? ああ」


 空を見ているのだと。そう自覚したのは首の痛みでだった。

 痛みでのみ、私は私を知る。

 雨が降っていないのが不思議なくらいの、今にも落ちてきそうな鈍色の雲だ。

 空だと認識したからか、ずっしりと押さえつけられるような感覚にさいなまれる。

 胃が重たい。……顔を正面にそむける。

 数十メートルほど先に鉄の門扉が見えた。

 辺りには人工物は見受けられず木々ばかり。だからそこを目指すほかないと思った。

 ここはどこなのだろう。

 あたまがぼんやりとしている。こうして思考している今も薄もやかかったようで、どうにも自分が自分でないように感じられる。

 前後の記憶かうまく接続されないから、自分の連続性を担保できないのか。

 私の最後の記憶は、月夜にガラスの靴を鳴らしながら世界をもてあそんだこと。――よくよく冷静になってみれば、あんな時間に帰るなど締め出されるならまだいいほうなのに。まったくおそろしいことにそんなことを勘案すらしていなかった。この時期の夜は堪えるだろう。

 もちろん、無気力となった彼女たちがそこまでするとは思えないが、それこそ今思いついた言い訳で、きっとあれはシンデレラゆえの全能感に酔いしれていたからだろう。

 零時になるまでこの幻想の世界は私の都合の良いように回るから。

 私はシンデレラを受け入れた。彼は王子様に成った。

 はじめは最悪だったけれども、よくよく考えれば私にとって都合のいい結末を運び入れてくれた。

 自愛が捨てきれていなかったから怖かっただけ。自分が失われていくのがおそろしいなど、そんなあまったれた考えだったからいけないのだ。

 あの屋上でそれも捨てきれた。だれとも視点を共有できないのなら、私がからっぽになればいい。

 からっぽの偶像に成れば、あとはだれかが祈りを詰め込んでくれる。

 間違って生き延びてしまったこの命を、最適に消費できる。

 そう決めた。


 ――そう決めていたのに、一歩目を踏み出した瞬間に私は骨が抜かれたようにくずおれた。


 ぺたり、と。

 関節が思ったより開いてくれたおかげでそんな柔らかな接地ではあったが。

 鼓膜が破れたのだと思いたかった。

 息や、なにより心臓の音がうるさくそれは否定される。

 なのに、音が、しなかったのだ。

 足元が盤石であるのは何ごともなく立っていられたからわかる。ついた手のひらの感覚でアスファルトなのもわかった。

 なのに私は足元を見やる。足を、見てしまう。

 なかった。そこにあるべきガラスの靴が。いつも使っているぼろぼろのスニーカーがちょこんと収まっている。

 私の価値の証明が失われていた。

 なぜ。記憶をさかのぼってもやっぱりあの月夜しか出てこない。

 この場所へつながる記憶が見当たらなかった。

 奪われた、とは思えない。スニーカーを履いているということは、履き替えるだけの理由があったのだろうから。

 今さらながらに服装が目に入れる。制服ではなく、数少ない私服だった。

 私の意思か、あるいは物語か。いいや、これが私の物語であるのなら、すべては私の意思だ。

 数時間前の私は何かを思い、ここへ来たのだ。前にも似たことはあったじゃないか。

 ひとまずはそう結論付ける。

 重たい体をどうにか起こし、ひび割れの目立つアスファルトの道を歩む。

 それにしても、まったく思い当たらない場所だった。

 アスファルトは途中で途切れており、そこから先は一面の緑。後ろを振り返ってみたが、そこにも木々が生い茂っていた。けものみちでも切り分けなければたどり着けない秘境だ。

 なのに私は切り傷も草もつけていなければ青臭さもない。

 不思議だけれど、世界はこれ以上に不可思議なことになっているのだから今さらか。

 だれもが死を突き付けられ、死にたくないとあえぐ世界。

 死にたくても生きなきゃいけない私への当てつけみたいで気には障るし、だれかが死にかけているのは見ていて気持ちの良いものではない。

 別にだれが苦しもうと私が満たされるわけでもないのだ。

 それでも、この世界を望んだ不特定多数がいることは喜ばしかった。根底にあるものが異なるのはすぐにわかったけれど。

 死にたいのは、生きることを凌辱されたからだ。生への渇望、生きたいという願いが源泉だ。

 生きなきゃいけないと、呪われた死に体のように這いずり回る私なんかとは違う。

 うらやましいと思うから、私は救いたくないけど祝福をした。

 そう生きれたらどれだけ――それは未練だから、あの屋上で断ち切った。

 もうだれに理解されなくてもいい。だれと同じものが見れなくてもいい。

 私の物語は、だから私の望まない大団円(ハッピーエンド)で終わるのだ。

 結末ははじめから決まっている。


「ああ、そっか」


 こんな場所へ来た理由にピンとくる。

 物語の終わりはとっくに提示されており、世界が救われることは確定したのだ。

 ならばそういったわずらわしさからは距離をとりたいと。ひとのいない場所で七日目の鐘を待とうと。

 そう考え至ってもおかしくない。

 というか、考えてもみればそのとおり。あんな場所にいる必要はないのだ。

 律儀に家へ帰ろうなど。帰巣本能というか、飼い鳥だってもうちょっと自由を知っている。

 それに私は彼らとは違い、翼を使うことはついぞないのだから、休む場所なんて必要ない。

 破れることのない鳥かごでぐったりと、愛玩動物として一生を終えるのだ。

 ある意味でそれは、とても恵まれた生き方なのだ。


「着いた」


 鉄の門扉へたどり着く。

 当たり前だが、遠くからでも見えた通り背が高い。少なくとも飛び越したりはできそうにない。

 ……ガラスの靴があれば飛び越えられたかもしれないけど。

 よじ登れそうではあるが、鉄さびの浮きがすごい。腐食が進みぼろぼろ中身が露出している個所もある。

 試しにさわってみたら、ささくれ立ったさびが手に突き刺さった。

 とくとく流れていく命の源に実感がわかない。

 あかい血がさびと交じり合うのを見送る。

 痛みが不快になってようやく私は手を引いた。

 軋む音を立てて門扉が動いた。

 どうやら鍵はかかっていないようだ。セキュリティーの問題はどうなっているのかと思うが、門の隙間から見える向こうの光景に納得もあった。

 ゴンドラの抜けた観覧車。

 つまりは遊園地だった。

 かつて栄華を誇ったであろうきらびやかさとは程遠く、突き付けられるのは解体作業すら中断された現実だけだ。

 あるいは、現実からも置いて行かれた夢の名残。もはや遠い楽園の残骸か。

 惹かれるのは当然か。

 終わりからすら見放され、発展性のない在り方は、まったく私にお似合いだった。

 全体重をかけて戸をゆっくりと開ける。

 もはや過ぎ去った物語へ足を踏み入れる。

 受付はもちろん機能していない。ガラスの外された向こう側にはレジスターはおろかチケットの切れ端ひとつない。

 果たした役割の残滓すらないのは、きっと救いだろう。その場所にとっても、残骸に踏み入る私にとっても。

 入退場のゲートも形骸化している。現実と夢を隔てる柵はなく出入り自由だ。

 だから、嵌めガラスの外れたお土産売り場の通りを抜けて大広場に出ても、ふわふわとたゆたう感覚はなかった。

 正面、案内板の地図はかすれて読めない。

 その裏で、派手に水を打ち上げていたであろう噴水は枯れて、空に手を伸ばすことをあきらめた石造と化していた。

 とりあえず見て回ろう。

 真正面に観覧車が見えるし、館内で迷子になるような複雑な造りではなさそうだ。

 ジェットコースターであっただろう中折れしたレールが見えた。列車は見当たらない。

 頭を垂れた姿は、根が腐りゆるやかに絶えていく花のようだった。

 鉄のアーチをくぐり、コーヒーカップが見えた。

 カップは全部割れていて中身を注ぐことはできそうにない。

 案の定ハンドルはさびついていた。

 試しに乗ろうとふちに手をかけたらカップがはがれた。


「あらま」


 陶器は星屑のように砕け散った。

 一番まともそうなのを選んでこれだ。別にそこまでして乗りたいわけでもない。

 仕方がないし次へ向かおう。

 同じ系統のものであるからか近くにあった、塗装が剥げ部品がむき出しになったメリィゴーラウンド。

 白馬に乗る王子様、お姫様気分など到底味わえないグロテスクな見た目だ。

 手折ることも動くことも許されず、ただ直立不動にたたずむ馬の姿をした何かは、見続けているだけで精神が参ってくる。

 メリィゴーラウンドにはふれることもせず、観覧車を目指す。

 ゴンドラを抜かれ骨だけになったその姿は前衛芸術のようであった。中心には時計の役割をしていたのだろう。電光掲示板の名残がある。

 半周を終え、次の場所へ。

 回転系のアトラクションの真逆には、箱型の建物がひとつ。

 ぽつん、とひとりぼっちなここにだけ、接近禁止の柵が立てられていた。

 関係ない。策をよじ登って中に入る。

 看板は案の定かすれて読めないが、まあ定番のお化け屋敷だろう。

 その予想は当たらずも遠からず。

 扉を開けたそこには、何人もの私がいた。


「――!?」


 無論、本当に私が複数人に分裂したわけじゃない。

 照明が死に、外のわずかな光を反射する鏡が四方八方に。つまり、ミラーハウスだった。


「ッ」


 刺すような痛みが頭に走った。

 不意の感覚によろめき右の鏡に手をつく。

 前を見れば息のかかる距離に私がいた。代り映えのしない、私が。

 ズキズキと痛みは継続する。

 歩けないほどではない。動悸の気配もないし、きっと突然の認識のゆがみにびっくりしたんだろう。

 ガラスにふれたまま奥へと進んでみる。

 変わらない。全方向に私が映っているだけ。

 ゴールを目指していた私の前に光が見えた。どこで方向転換したか。入口の戻ってきていた。

 体調は依然戻らない。

 責め立てられるように、脳の内側から外側へ圧迫される気分にさいなまれている。

 乗り物酔いがひどくなったようだ。二日酔いの症状がこんな感じだと聞いたことがある。

 こんな場所からはさっさと立ち去ろう。

 風をしのげそうなのはここしかないが、まあ幸いに外は無風。

 『零時になるまでの幻想』のおかげか今はそんなに寒さも感じないので、お土産屋さんのどこかで過ごせばいいだろう。

 視野の狭まる痛さにこめかみをゆがませつつ、私は外の新鮮な空気を求めて脱出した。

 ――だからそれは、頭痛の引き起こす幻覚かと思った。

 明るかった。

 その明るさはおひさまとは違う。

 ひとの作った、ひとがふれられる温かさの光だった。

 死んだはずの電気が――否、それだけじゃない。

 今まさにその残骸を見定めたはずのアトラクションたちが息を吹き返していた。

 まったくいる気配のなかったマスコットキャラクターのクマに風船を手渡される。赤色だ。

 私はなぜか、それを後生手放してはいけないもののように受け取った。

 頭痛が波のように引いていく。

 だれかの声がした。

 名前を呼ばれた気がする。久しぶりすぎて、それが私の固有名称だと気づくのに時間がかかった。

 声の主は近く、前のほうにいた。光に目がくらんでその姿は影絵のようだったけど。

 ふたり。どこか懐かしさを覚えるふたりが私を手招いていた。

 私は駆けだした。走らないと追いつけない気がし、なにより走り出したいほど無邪気に高揚していたからだ。

 私たちは園内をめぐる。

 噴水が常時、花火のように空に咲いていた。けど空で毎回十色に変化していたから、きっと花火なんだろう。

 ジェットコースターに乗り込む。

 私は真ん中。ふたりが両端にいてくれたから怖くなかった。怖くなかったけど叫んだ。

 コーヒーカップで回った。

 私が操者。めぐる光景のなか、私たちだけが変わらない。

 メリィゴーラウンドで踊った。

 私が主役。私の乗る馬を先頭に、ほかの馬がくるくるリズムをとるのだ。二人はそれを眺めていてくれる。だから誇らしかった。

 観覧車が満たされる。どこにいたのか、ゴンドラの中はいっぱいで、その中は各々の幸せが広がっていた。

 最後のひとつへ私たちは乗り込んだ。空に散る花火のはかなさに寂寞を抱えながら、終わりの感傷を堪能する。

 ゆっくりと観覧車は回る。――ああならば、この時が一生続けばいいのに。

 楽しい瞬間を切り取りたかった。思い出を宝箱にしまいたくない。

 この楽しい時間が永遠になればいいのにと願う。

 もちろん時間は過ぎていくものだけど私はシンデレラで……そういえば、今は何時なんだろう?

 ふと外を見る。地上の光に目がくらんで、空の明かりを見失っていた。

 空に月はなかった。星もない。

 なんだ、私を糾弾するものはいないじゃないか。

 ホッとする。

 窓ガラスにはふたりの談笑する姿が見えた。相変わらず姿は暗いままだけど、私はこのひとたちを知っている気がするからだれでもいい。

 このひとたちは、いい(、、)のだ。だいじょうぶだと、知っている。

 談笑の輪に私も加えられる。私は相変わらず外を眺めていたけれど、懐かしい物語がそらんじられた。

 愉快なお話があった。寂しいお話があった。悲しいお話があった。

 物語の主人公はかならず幸せになっていた。

 楽しい時間はあっという間で、観覧車はいつの間にかに一周していた。

 終わったのなら、おりなきゃいけない。惜しいけど、次のひとへ席を譲らないと。

 外へ出て、電光掲示板の時間を確認する。

 ちょうど切り替わりの瞬間だったようで、時刻は零時になった。

 最後の花火があがる。

 それは大きな音を立てて私たちの真上で咲いた。


「ああっ」


 内臓が揺れるような桁違いの音の大きさにびっくりして風船を手放してしまう。

 軽いヘリウムは空へ空へと旅立っていく。

 跳ぼうと手は届かない。

 その行方を追った視界に、赤と黄の花火の残滓が流れ星のように散っていく様子が映った。

 終わったのだ。これにて閉幕。明日からまた新しく始まる――はずだったのに、続いてしまう。

 ガダン、ゴドン。

 ゴンドラが音を立てて降ってきた。

 花火に気をとられていた私は直前まで状況を把握できず、気づいた時にはもう遅い。目の前に避けようのない死があって……私は跳んだ。

 空に手は届かず、この足は前に進むことも後ろへ下がることもできなかったのに。

 押された。押し出された。

 すってんころりん転がって、ひざを擦りむいた痛さで生存を実感する。


「なん……で?」


 生きていることはうれしかった(、、、、、、)が、なんで生き延びたのかがわからない。

 さっきまで私がいた場所を確認する。

 なくなっていたはずの頭痛がした。

 悲惨だった。

 すべてのゴンドラが山のように積みあがっている。

 私たちが最後の乗客だから被害者はない……はず……で。

 あかい。

 腐った果実みたい。

 ぐっしゃりと。

 ぶよぶよと。

 まっしろで。

 ……あんなものが。

 あんなものがひとなら、生きているはずがない。

 そこで下敷きになっていたのは、安心感を覚えるあのふたりだった。


「え」


 いみがわからない。

 目の前の光景がぐにゃりとゆがむ。

 どうしてあのふたりがそこにいる? 理由は明晰だ。

 私を助けるために身代わりとなったのだ。

 だからどうしてというのは、この理不尽に対しての叫び。

 どうして私たちがこんな目に合わないといけない。

 助けてほしい。言葉は声にならなかった。

 視線を感じた。

 周りを見渡すと、観覧車の中にいたひとたちが私を囲んでいた。

 のっぺらなだれか。

 ないはずの視線が雄弁に私へ語りかけてくる。

 かわいそう。だいじょうぶ。よかったね。

 善意が私に手を差し伸べてくる。

 私は一番近くに来た手を取った。

 掴んだ手は水のようにつぶれ、節足動物じみた動きで私の腕を駆け上がる。


「ひっ」


 とっさに手をはらうも、全部は落ち切らない。

 目の前を見れば、ひとり、ふたり、いやもっと大勢のだれかがゆらゆら私へ近づいて来る。

 ない口が善意を謳っていた。

 それは救いのはずなのに、どうしてか私には呪いのように聞こえた。

 優しい言葉が私の存在を否定する。あたたかな感情が私の体を縛りあげる。

 いっそ殺してくれればいいのに、彼らは真綿で首を絞めるだけで致命を与えてくれない。これじゃあ苦しいだけだ。

 私は痛む体に鞭を打って走り出す。

 幽鬼も私に追いすがってくる。

 出口を目指す……!

 メリィゴーラウンドの横を通りかかった。

 照明はとうに消えていた。

 がしゃん。音がしたと思えば次々に馬の首が落ちていた。


「……!?」


 直視に難い光景だった。作り物のつぶらな瞳が、一斉に私のほうを向く。

 まるで、お前が殺したんだと訴えるように。

 心がざわめいた。

 罪悪感に目を背ける前に、首は足蹴にされる。

 後味の悪さを飲み込めないままコーヒーカップにたどり着く。

 ひびの入った陶器は決壊して、私の行き先にてらてらとした中身をぶちまけた。

 避けようと思うが遅い。踏みつけてしまえば、生肉に似た感触に吐き気がする。

 足の不快感が消えないままにジェットコースターの下をくぐる。

 レールがぐんにゃり、凹型にゆがんだ。

 水っぽい音がして足を止める。

 振り返って見れば、走り出した列車が私を追う多くのだれかを轢き殺していた。

 残骸が飛び散る。ひとのかたちをしていたものが打ちつけられたかえるのような様になっているのを見て私は、何も感じなかった。

 ようやくひとりぼっちになれた。

 そう思っていたのにひとりだけ、まだかたちのあるだれかがいた。片腕がない。

 なぜだかそれだけがひときわに怖かった。

 震えるひざを叱咤して、もつれもつれに駆け出す。

 花火を咲かせていた噴水は見る影もなく、そこに在るだけの枯れたオアシスと化していた。

 出口は目の前。

 狭いところでよかった。

 そんな安堵は尚早だった。お土産売りの通りの手前でシャッターが下りていた。

 よじ登ったところで天井だ。

 煙臭さに顔をしかめる。

 動きはゆったりとしていたが、ぶつぶつ何事かをつぶやきながら隻腕のだれかはしっとりと私へ近づいていた。

 絶対絶命で、背に腹は代えられない。

 今来たのとは逆の周りで元の方向へ戻る。一か所だけ、立ち寄っていない場所がある。

 ミラーハウス。

 立ち入り禁止の柵はなかった。

 飛び込み、鏡に右手でふれたまま行ける場所まで進む。

 こつん、とへなちょこな走りゆえに軽い衝撃だけを鼻先に食らって、ようやく私はその場にうずくまった。

 一息つくにはまだまだ神経が張り詰めているけれど。

 密室なここならば足音は反響する。そしてまだ、あの影はここへは入っていないようだ。

 少し、休めそうだ。真っ暗なおかげか頭痛もない。

 なんだったのだろう、あれは。

 ああ、そしてそれ以上に――私は今まで何をしてい(、、、、、、、、、、)()

 ぶあっ、と汗が噴き出るように自意識が帰ってきた。

 生き返った遊園地で遊ぶ私。潰れたふたり。追いかけてくる人影。壊れていくアトラクション。

 そのことに今の今まで真っ当な疑問を感じていなかった。

 これも物語――零時になるまでの幻想の呪いか。

 おとぎの国に迷い込んだのはシンデレラではないはずなのに。

 だから、女王様の試練をクリアすれば帰れるなんて保証は、ない。

 頭を回せ。ようやく意識も明瞭になってきたのだ。

 そもそも、だ。

 原点に立ち返れば、ここはいったいどこだという疑問にぶつかる。

 別にどこでもいいと楽観視していたけど、こうなればそうも言っていられない。

 身銭がほとんどない私は、遠出ができないはずだ。

 活動範囲は、既知の場所でしかありえない。

 記憶の途切れた間に、私に何があった。

 ……ないものはないので推察するだけ時間の無駄だろう。

 どうするかを考えなくては。

 けれど、手詰まりだった。そもすべてに脈絡がないのだ。

 出口の作られていない迷路のような袋小路だった。

 思考が底なし沼に沈んでいきそうになるなか、変化があった。

 照明が唐突に点いた。

 光が屈折して私が鏡に映る。

 腕にこびりついた水のようなものはこすっても結局取れず、趣味の悪いタトゥーとなっていた。

 それを気味悪がっていられる時間は、少なかった。

 またまた不思議なことが起こったのだ。

 鏡のなかに私ではなく、小さな女の子が映った。

 辺りを振り返って見てももちろん私以外にひとはいない。けど、どこかで見たことがあるような――

 彼女は向日葵のように笑いながら走り回っていた。

 奥へと消える彼女を追って私は立ち上がった。

 しばらく進むと、走り疲れたらしい彼女は寝床にいた。傍らでお母さんらしきひとが何かを読み聞かせていた。表紙を見たら、有名な童話だった。

 なんとなく、毎晩そうして両親におとぎ話を寝物語に聴かせてもらっているのだとわかった。

 ふと鏡のなかから彼女は消え、さらに先に移動していた。映画のカット割りを想起する。

 ちょっと目を離した隙に彼女はピカピカのランドセルを背負っていた。かりそめの世界をねだる歳ではなくなった。

 思い出は押し入れの奥で、ひっそりと埃をかぶっていた。

 うらやましくなるくらいに順風満帆な人生だ。なのに、この先を見たくないと思うのはなんでだろう。

 勉学に励み、一生懸命に運動をし、お腹いっぱいに食べて、夜更かしせずに寝る。健やかに育つ彼女は、休日の家族とのお出かけを楽しそうに謳歌していた。

 その帰り道。鼎談する家族へ車が突っ込んだ。

 直前に気付いたふたりが彼女を押し出してくれたものの、ふたりは避ける余裕なく歩道へ乗り上げた車に吹き飛ばされた。

 治療の余地はなかった。

 目の前で両親の死を見てしまい自失の彼女は、お母さんの姉の家に引き取られた。

 細い親戚筋のなかで父母在籍の家はそこしかなかったのだ。一人娘、彼女の義姉となる少女は、なぜだかふさぎ込みがちだった。彼女も元の明るさは鳴りを潜めていたのでちょうどいい距離感だったのかもしれないが。

 そんな停滞が悠久に続くはずはなかった。時間はいつだって足を止めたものを置いて行く。

 その家では秘密裏に離婚調停が進んでいたのだ。

 結果が目に見えた時にはもうご破算。

 父親は、あえてほかの女性を作って全親権を放棄した。調停をまとめたらどこへやら。雀の涙程度の養育費を払うだけ。

 残念ながら、彼女にとって義母に当たる人物は、そんな状況で愛を分け与えられるほど慈愛に満ちた性格はしていなかった。

 塞ぎ込んだ彼女の姿が逆立った神経にふれたのだ。

 頻繁に暴力が振るわれた。同時期から義母は煙草を始めた。

 まともにやったことのない家事が滞れば殴り、食事の準備が早すぎれば殴り、花の手入れを少しでも失敗をすれば殴りつけた。

 それを真似て、義姉も顔を合わせるたびに彼女へ暴力をふるった。

 実の娘も、両親の不義に対するはけ口がほしかったんだろう。

 それでも彼女はどうにか頑張ろうと歯を食いしばっていた。ひとりで前を向くことができたわけではなかったけど――せめて両親が遺してくれた空想の世界を拠り所に小さくも歩き出そうとしていた。

 けどある日、彼女は寝坊をしてしまった。夜遅くまで童話集を読みふけっていたから。

 義母はもちろん、彼女が夜な夜なぼろぼろの本を手繰っているのを知っていた。それを咎めたりは別にしてこなかった。まったくどうして、思い出を踏みにじるほど良識に欠けたひとではなかった。

 だから、その日はただ虫の居所が悪かったと思うしかない。

 たまたま煙草が切れていた。たまたま天気が雨だった。

 ぷつん、と。

 静かに義母は童話集を取り上げ、びりびりに破いて捨ててしまった。

 その光景を義母の足元にすがり涙目に見届けた彼女の心中は、語るべくもないだろう。

 支えを失った心はあっけなく折れた。空想に逃げるすべもなく現実にさらされた折れた心は、ざらざらに乾ききって色を失った。

 そこで少女の姿は消えた。ノイズひとつなく、彼女についてのフィルムはそこで完結しているといわんばかりに。

 いや、それは正しい。正しすぎる。

 気づかないのも当然だ。だって忘れようとしてきたんだから。

 乾いた笑いでも出れば気もまぎれたかもしれないけど、失敗する。

 いびつな表情。本当なら、笑うことすらできない本物の私が、鏡の中にいた。

 鏡よ鏡、この世で一番生き醜いのはだぁれ――応えてもらうまでもなく、それは鏡に映る私だ。

 彼女のお話は、私の人生として、物語に続いている。続いてしまっている。

 つまりは、私の過去。

 今さらながらに白色の照明が私の原罪を白日にさらしているように感じられた。

 私が生まれたことはだれに咎められることではない。けれど、生き延びてしまったのだ。両親の命を引き換えにして。

 だから、生きなければいけなかった。もうこの世に私が生きていく理由がなくて、ただ苦しいだけでも。

 なのに――耳鳴りのように義母から言われた言葉が脳内を埋め尽くす。

「あなたなんていなければよかった。いらない子」、と。

 じゃあ別に死んでもよいのでは。

 それを惜しむひとはいない。惜しんでくれるひとが欲しいわけではない。

 生きる理由がなく、死ぬ理由があるだけなのだ。

 これだけはだれにも知られてはいけない。

 考えるだけならまだしも、この世界にわずかでも発露したら、シンデレラの資格を失ってしまう。

 物語のなかの彼女は、根が腐らずじっと耐え続けたから大きくきれいな花を咲かせたのだから。

 もう根っこまで腐りきっていると知られたら。

 せっかく手に入れた生き続ける理由なのだ。

 手放したくは、ない。

 いっそのことうずくまっていたかったけれど変化があった。ぶつん、と照明が落ちた。

 そして音が聞こえた。逃げ切れたと、わずかだけど思っていたのに。

 足音は着実にこっちへ近づいているように聞こえる。

 私は再度走り出す。幸いに前だけは見失っていない。

 何回も鏡に激突する。痛い。

 こんな痛い思いをするなら立ち止まってしまいたいけど、あれに捕まるのはもっと苦しいと心が悲鳴をあげていた。

 壊れた心が、悲鳴をあげていた。

 ならばきっと、あれはそうなのだ。腕にこびりついたものにも覚えがある。

 だって義母に「いらない子」と言われてから、私はひとの善意を信じられらくなったのだから。今だってそう。言葉は呪いだ。

 走る。走る。走る――そうして、立ち止まる。


「なんで……っ」


 いくら進んでもゴールにたどり着けなかった。

 出口が見えない。

 向こうはスプラッタ映画に出てくるゾンビのようにゆったりとした歩みなのに、着実にこちらへ距離を詰めてきているのがわかった。この迷路の内情を把握しているようだ。

 後ろへ戻りあれの脇を抜ける……のは、この暗闇のなかでは無謀だ。

 いつかは追いつかれる。早いか遅いかの違いだけ。

 最後に同じ苦しみに包まれるなら、これ以上、無用な痛みを積み重ねる必要ないのでは。

 結局いつも、同じ結論に達する。

 同じところをぐるぐるとめぐる思考の袋小路。


「そうなんだ」


 この世界がなんなのか、わかった気がした。

 白昼夢――あるいは、白日夢。

 虚飾でふたをした私の醜いところを余すことなく白日に晒す夢。


「……ままならないなぁ」


 静かに眠ることも許されないとは。

 毒リンゴを食んだお姫様がちょっと羨ましい。私は目覚めなくてもいいし。

 私はたぶらかされる魔女を間違えたみたいだ。

 こんな夢まで売らなくていい。本来なら異物混入でまとめて返品だ。

 物語にバッドエンドなんて……けど、私にはお似合いの苦さかもしれない。

 結論が出れば、あら不思議。終わりが目の前まで近づいているように聞こえた。

 私の人生の結末など、とうに決まりきっている。

 むざむざ手を伸ばす気はないが、伸ばされた手を拒む意思もない。

 ほら……終わりが私にふれて……、


「んん!?」


 ふれた感覚が思ったのと違い叫んでしまう。

 というか、これ引っ張られてる。

 力強さに、折れた脚を立ち上がらせる。

 どこかへ向けて走り出している。痛みはない。だから、まっすぐに。

 あれの足音はどんどん遠ざかっている、というか、自分の息の音で雑音が聞き取りにくい。ペース配分もわからないままに人任せで走るのは、体力を使う。

 どこまで行くんだろう。ちょっときつくなってきた。

 杞憂だった。

 出口は唐突に、目の前で開かれたのだから。

 ――大きな光に目がくらんだ。

 けど、目がつぶれることはない。ちょっとだけ優しい光。

 月だ。月が目の前にあった(、、、、、、、、、)

 落ちてきたかのような直近。けどそれを言うなら、落ちているのは私だ。

 出口から飛び出たそこに地面はなかった。

 私は落ちていく。底のない暗闇へ。

 私を引っ張ってくれただれかは、目のくらんだ隙にいなくなっていた。

 がらがら音を立てて遊園地も崩れ落ちていく。

 私は垂れた月の光に包まれる。祝福みたく。私だけ無重力のなかにいるようにゆっくりと落ちていく。

 視界の端に赤いものが横切った。花火に驚いて手放した風船だ。

 しわしわと空気が抜けて、私より速く、けれどもゆったりと残骸の山へ向かっていた。

 それは炎だった。積み重なった過去を清算するための、炎。

 私はちろちろそよぐタコ糸を掴んだ。引き寄せて、めいっぱいに胸に抱いて空気を抜く。

 熱くはない。だって風船だから。

 炎は瞬く間に勢いを弱めて、消えた。

 過ぎ去ったものを惜しむつもりはない。けれど、訣別をする気にはなれなかった。

 そこまでする必要はないと思った。

 だから、残骸はどこかかつてのかたちを思わせながら意味のない瓦礫と化していく。

 終われず、ただ那由他の果てに置いて行かれた楽園の最期を看取った。


「おやすみ」


 腕のよごれは消えていた。それは引っ張られたほうの腕だった。

 夢の痕跡は一切残らずに消えた。この物語は後腐れなく完結したのだ。

 だけど人生とは続いていくもので、私の物語は知っての通り、晒された通り、ずるずると続いている。

 終わりは近い。きちんと終われればいい、と残骸を見送った私は思う。

 月は変わらない威容だ。

 鮮烈な太陽の光を反射しているのに、どこか優しい。

 揺り籠のような温かさが眠りを誘引する。

 夢のなかで寝たら、きっと現実にまどろむのだろう。

 残酷だけど、それは私が落ちているのと変わらない摂理だ。

 夢を見たなら、あとは醒めるだけだから――私は目をつむった。

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