零時の鐘はまだ遠く
このからっぽが埋まればいいと思った。
――だれかのためになりたかった。
そこに詰め込まれるものが汚泥であろうと、満たされれば意味が得られると思ったから。
――けれど私は、『だれか』を愛せない。
生かされた。愛があったから。
――私を孤独にした愛が嫌いだ。
生かされている。義務あったから。
――ひとを構成するすべてが醜い。
幸福な終わりへの道を約束された。
――砂糖菓子のような現実を、私の精神が受け付けない。
答えなんて最初からわかっていた。
魔女の問い。
これが現実だ。
まったく、幻滅してしまう。
たゆたう夢のなかで、私だけが成りきれない。
……きらきらしたものであってほしかった魔法の存在。
なんでそんな憧れを抱いていたのか。
思い出せそうにはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
鼻腔にからむ独特の煙臭さで私は意識を得た。
苦くとげとげしい煙。義姉の好むたばこのものだ。嗅ぎ分ければ義母のものもある。こちらはどうにも厭味ったらしい。
自室。天窓から望む色で朝だとわかる。
時計を見たら、そろそろ義姉が出かける時間だった。
いつの間にそんな時間が経ったのだろう。
昨夜、床に就くまではぼんやりと覚えている。だが、今の今までに連続する記憶はなかった。
それでもやることはやったらしい。
遠くから洗濯機の回る音が聞こえる。
条件反射になっていることに苦笑しつつ、ふと気づいた。
「あれ、あのひとたちなんで出ていないんだ?」
義母は義姉より三十分早く家を出るし、そも昨日は早くに出ていたはずだ。
「……ま、いっか」
事情を詮索してもろくなことにはならない。
このまま時間の経過を待つのがいつもの流れ。
なのに、今日はその浪費が恐ろしく感じられた。
何かをしなければという焦りがある。
「……う」
だっていうのに、動く気力が湧かない。
理由はひとつ。学校に行きたくない。――いや、もっと明確にしよう。
学校に行けば、あのだれかに出会ってしまう。
だから、行きたくない。
その理由の原因に自覚はあった。否定の感情は、胃の中のものとともに吐き出している。
思い返すだけでも胸やけがするが、これはきっと恋と呼ばれる感情なのだ。
問題は、それがシンデレラに定められた感情であること。
ハッピーエンドのために仕組まれた運命。
零時になれば解ける幻想でしかない。
偽物なのだ。
なのに、跳ねる心は理性を溶かす。
それに恐怖を感じないほど鈍感じゃない。あるいは、普通のひとよりはるかに怯えている自負があった。
殻にこもって外との接触を避けてきた。
供給がなければ生まれるものはない。そうやって私の心は緩やかな死を迎えていた。
七色の光は殻を突き破る。心は久しぶりの呼吸に目がつぶれるのもいとわず喜ぶも、私がそれを望んでいない。
かつて捨てたものを惜しむつもりはなかった。
きゅう、としぼむような洗濯機の止まる音が聞こえた。
「……行かなきゃ」
自分が自分でなる感覚に襲われても、飼い鳥と躾けられた習性は変えられないみたいだ。
洗濯物を干して家を出る。結局ふたりは自室にこもったままだった。
けぶる紫煙から解放され、肺と心臓が毒を吐きだそうと荒れ狂う。
走るなんてもってのほか。歩くことすら苦しくその場にうずくまる。
不思議とひとがいないおかげで存分に痴態を晒せる。
酸素は苦く、吐き出す二酸化炭素は甘かった。
あんな場所にいても腐らず綺麗に咲く花の強さに羨望を覚える。
徐々に過呼吸は治まり、もとの無味無臭を取り戻す。
とっくに遠くチャイムは鳴り終わっていた。
今さら走る気力はなく、とぼとぼ通学路を歩き始める。
静かだった。
人の波は引き、風はなく、雲は凪いでいる。
まるで、と思う。
「死んでいるみたい」
からん。軽い音がした。鞄のなか、ガラスの靴がぶつかり合ったのだ。
猫のような誇示の仕方に頬を緩ます。
「忘れてないよ」
こんな世界、救いたいと思わないが――それでも救おう。
用意された価値を全うできれば、きっと意味が生まれると信じて。
だから、すべてはだれかに望まれたとおりに。淡い初恋の感情すら自分のものでなくとも受け入れよう。
そんな歪な前向きさで私は片手を上げた。
この足は学校へとたどり着いていた。
朝、見知っただれかに会った時の挨拶は決まっている。
「おはよう」
決して愛想はよくなかった。偽物を本物に変えられるほどの演技力は持ち合わせてなかった。
それでも、昨日とは打って変わった態度にそのだれかは目を見開く。
けれど、すぐに「おはよう」と返した。
わざわざ校門で待っていたのだ。きっと、わかっている。
示し合わせるでもなく、校舎へ向かう。
そういえば今日が文化祭の初日、生徒だけの日だったな、と看板を見て思った。花は業者さんに任せていたけれど、きっと運ばれては来ないだろう。
上履きに履き替え、校舎をめぐる。
沈むような静寂は、祭りの跡を思わせた。始まったばかりの文化祭は、着飾れた状態のまま放棄されていた。
その通りに、ひとっこひとりいなかった。
なんともむなしい光景だった。廃墟のほうがまださびれているぶん、寂寥を感じさせない。
がんばって積み上げた功績を、当人たちがどこまでたどり着いたのか知らぬまま崩れていくのを見るのはさすがに心苦しさがあった。
「もう少しいるかと思ってた」
たしかに、世界中を見渡せば声を上げ、立ち上がる人もいる。いずれ死の意思に侵され、星の怨嗟を聴くとしても、今はまだ。
だが、大多数はこうなのだ。
義姉も義母もそうだったのだ。
もう間に合わないことを痛烈に思い知らされ、怠惰にその心を貶めた。
私は踊った。くるくると。嬉しくて。
終わる世界の縮図を謳歌する。
笑みがにじむ。隠す必要はもうないのだ。
初めて時計の音を聞いた時のように、ほがらかに咲く笑みは退廃の花。
その歩幅に合わせるだれかは、一瞬だけ目を細めて、呼吸を飲んだ。
聞きたいことは山ほどあったはずだ。しかしそれらは――、
「……まあ、いっか」
かつかつ、かつかつ、音が続く。
照明の落ちた廊下を跳ねる。
階段は一足二足と段差飛ばし。
教室は不思議、どこにも鍵がかかっていない。
とん、と机に飛び乗れば、ひとりでに学校用家具が次々積みあがっていく。
それは窓の外まで伸びて。
どこまでも行けそうだったが、きっと終着駅は決まっているのだ。
空に月が見えた。
日はまだ高いのに、なんでか月が見える。
ウサギはいないから偽物だ。
偽物でもあれが欲しいと思ったから私は躍る。
終着駅は、屋上だった。
手を伸ばして、めいっぱい背伸びしても届かない。
「まぶしいな」
そう言ったのは私じゃない。
手をひさしに、目を細めて私の手の先を眺めている。
それはまるで、太陽を眺めているみたいで。
「そっか……」
痛感した。
私とだれかは、見ている世界を共有できないのだと。
縦横無尽に、世界が終わるその時まで続けるつもりだったダンスを止める。
「あ」
そう声を上げたのはなぜなのか。振り返ってみればわかった。どこからともなく現れたあめ玉が手のひらにあった。
私は上履きをほっぽり出した。
鞄をまさぐり、二足の透明な靴を並べる。
つまり、ガラスの靴を。
そっと足を忍ばせ履き替える。
ちょこん、とスカートを摘まみ、わざとらしくお辞儀した。
「初めまして――私はシンデレラ。あなたは?」
そう、名乗りを上げる。
問われ、すとん、と腑に落ちたようだ。何も理解できていないだろうが、納得はあったのだろう。
小首をかしげる彼女へ気の利いた返しなど持ち合わせていなかったが、せめて胸を張って口の動くままに名乗った。
「初めましてシンデレラ。おれは君を迎える王子様だよ」
そしてだれかもまた、用意された価値に座る。
――これにて、世界が救われることは確定した。
シンデレラは踊り続ける。ひとり、終わりゆく世界をこそ祝福するように。
唯一の観客たる王子様は、その背徳をただ見守り続けた。
日は落ち、夜は深まる。
脚色された世界の天蓋には、満天の星々が瞬いている。
私はそれを見て息苦しいと思った。
彼はきっと、違う感想を持ったはずだ。
だから私たちは並んでそれを見ることはなかったのだ。
二十一時。終幕の鐘が響く。
屋上は閉ざされる。
段を一歩くだるたびに用具は元の場所へ戻っていく。
ぴたりと足を止めたのは昇降口前。
休むことなく踊り続けたのたが、不思議と汗ひとつなく、息も整っていた。
「それでは王子様。今宵はこれまで。次は、終末の時にお会いしましょう」
芝居がかった動作と口調。普段の冷めた表情のままで、普段では考えられないような言葉を紡ぐ。
「さようなら、シンデレラ。また、終わりの時に」
終夜の約束を交わし、わたしたちは別々の道へ。
帰路は異なり、重ならない。
ガラスの靴を音立て私は月下を行く。
私の心は満たされていた。
だから気づけなかった。
背後から迫る人影に。
頭に衝撃を受けた時にはすでに遅く、意識は断絶した。
無貌の祈りが、牙を剥く。




