第二章 旅は道連れ 02
空間のひずみから現れる妖魔に色はなく、種族が異なっても妖魔はどれも漆黒の体毛と体表をしている。そして、これも妖魔に共通することで、鮮血を吸ったかのような深紅の双眸を有している。さらに、目があるということは顔があるということで、顔があれば口があって鋭い歯を持っている。
もちろん、頭の下には胴体があって、大地を駆けることのできる四肢が備わって、その先端にはこれまた鋭い爪がある。人を襲って人を食らうことが目的の妖魔であるから、身体的な特徴はどれも同じである。種族もそれほど多くは確認されておらず、両手の指で足るくらいだろう。
しかし、その妖魔の中でも最強なのではないかと恐れられる、妖熊がディールの視線の先で咆哮を上げている。数々の修羅場をくぐってきたディールであるが、さすがに妖熊を前にすれば逃げ出したくもなる。しかも、それが三匹ともなれば、なおのことであったか。
「妖熊……っ!」
その名の通り、姿形は熊のそれに似て、熊の数倍の大きさがある。複数で現れることは稀であるというが、あくまで稀であって皆無ではない。
妖熊の放つ咆哮がうねりとなって、風を呼んでディールたちを襲う。たったそれだけに浮き足だったひとりが一歩だけ後退すれば、それに釣られてもうひとりが後退を始める。
「恐れるな! 恐れを見せれば、標的にされるぞ!」
叫んだのはディールであるが、それは仲間に向けたというよりも、己自身を叱咤してのものだった。
いやな汗が背筋を伝って、ディールは息を飲む。張りつめた大気の中に妖熊の放つ咆哮が響いて、深紅の双眸がこちらに向けられる。ゆっくりと距離をつめる妖熊は、二本の巨大な足で大地を踏みしめて進んでくる。妖熊の足が大地に接する度、大地が揺れているようにさえ感じられる。
「チッ……こっちには余裕がないというのに、狩を楽しむつもりでいやがる!」
猛然と突進してこないのがその証拠で、ディールはもう一度舌打ちをすると、覚悟を決めて妖熊に向けて一歩を踏み出してから駆け出す。せめて先手だけでも取ってやろうと、ディールは大地を蹴ると妖熊の足元めがけて剣を繰り出した。
自身の魔力をまとわせた剣で、妖熊の右脚をディールは薙いだ。妖魔の体内を巡る、黒味を帯びた青い血が空に弧を描く。だが、巨体を誇る妖熊にとって、それはかすり傷程度でしかなければ、ディールに対して煩わしげな視線を寄こしてくる。
ただし、かすり傷とはいえど傷は傷であるし、蓄積されれば妖熊といえども倒れるしかない。地味な戦法ではあるが、妖熊と対峙した時の、これが有効的な手段だとされている。実際に、ディールもこの手で妖熊を倒したことがある。ただし、その時は、妖熊の数は一匹であったし、五人がかりで仕留めた。それを思えば、今回は分は悪いが、勝機がまったくないこともないだろう。
ディールが妖熊に一撃を加えたことで、それまで怖じ気付いていた面々も、自身が何をするべきかを思い出して妖熊に向かっている。身を低くして妖熊に向かえば、妖熊の爪は届きにくい。振り上げた足の下敷きにならないよう注意すれば、妖熊の爪をかいくぐって、その足に攻撃を加えることは不可能でない。
妖熊からみれば、ディールたちは蠅のようなものでしかなかったかもしれない。捕まえることができれば、自らの餌ともできるが、すばしっこい蠅は捕らえることもできない。足に無数の傷を負いながらも、三匹の妖熊は苛立たしげに咆哮を上げると、両手までも大地に着けた。そして、片手を振り回して、群がる騎士を捕らえようとする。
「……やつらを、本気にさせたかっ」
乱れた息でディールはそうつぶやいて、襲ってくる妖熊の爪を剣で弾く。前回妖熊を仕留めた時とは違って、数が三匹と多くある上に騎士の数も足りないことで、時間をかけすぎてしまったのかもしれない。だからといって、今さら悪かったと詫びたところで、妖熊も気を鎮めてはくれないだろう。
そもそも、言葉が通じる相手ではない。
「まだ倒れぬのか……!」
ディールが紙一重でかわした爪が、傍にいたひとりの騎士を薙ぎ払った。飛ばされた騎士が、大地に横たわるのが見えたが、ディールにそれを気にする余裕はない。油断をすれば、一瞬の後にはディール自身が大地にひれ伏すことになるのだ。
しかし、追いつめられていることに違いはなく、荷馬車につながれた馬が暴れ始めて収集がつかなくなっている。このままでは全員が妖熊の餌食になってしまうのではないか、ディールがそう思ったその瞬間、夏の陽射しが一瞬だけ陰った。そして、瞬きする間に、目の前の妖熊が一匹、轟音を響かせて大地に沈んだ。
その首元からは青い不気味な血が流れて、大地を濡らしていく。
「油断するな、まだ二匹いる!」
突如として現れた騎士が、呆然とするディールを振り返ることなくそう言った。騎士の視線はすでに次の妖熊を捉えており、ディールもその騎士に習って視線をそちらに向けた。
強い、妖熊を一撃で倒した騎士を称えるに、ディールはそれより他に言葉を知らなかった。
*
リオンの視界が妖熊の姿を捉えたのは、公道を大きく曲がったその時だった。隊商の列であるのだろう荷馬車が並ぶその先に、三匹の妖熊と対峙する複数の騎士が見えた。妖熊が放つ咆哮は、風に乗ってリオンの耳にも届いてくる。
状況が緊迫していることは明白であったし、騎士の側が不利であるらしいことも瞬時に理解できた。
「リ、リオンさま、あれが、妖魔ですか……」
すぐ後ろからエルマの、恐怖に憑かれた声音が聞こえる。妖魔を目にするのはこれが初めてであるだろうし、その初めて目にする妖魔が妖熊であることは、エルマにとっては不運であったかもしれない。
「エルマはここで待て!」
騎士でもないエルマを、妖魔の前に連れ出すわけにはいかない。もちろん、エルマにも妖魔を相手に自身が無力であることは承知しているので、ふたつ返事でリオンの指示に従って馬の足を止める。リオンはそれを振り返ることもせずに馬の足を急がせてから、馬から飛び降りると大地を走る。
妖熊の方は己に群がる騎士に気を取られているようで、遠くから近付いてくるリオンの存在があることに気が付いてはいないようだった。さらに、妖熊が大地に手を着けたことで、妖熊の体高が低くなる。それを見てリオンは大地を蹴って跳躍すると、妖熊の頭上を取った。剣を妖熊の首筋めがけて振り下ろすことで、妖熊の首を断つ。
轟音と共に妖熊が倒れて、青い血が大地に流れを作る。
しかし、妖熊はまだ二匹いる。倒れた妖熊になど見向きもせず、リオンは背後の騎士を叱咤して、新たな妖熊に視線を向ける。
「助太刀、感謝する……っ!」
リオンが倒した妖熊と対峙していた騎士が、リオンの傍に駆けてくるとそう言った。リオンよりもこぶし二個分ほどは背の高い、濃茶の髪をしたその男を横目に見やってから、リオンは右に跳んだ。仲間を倒された妖熊がリオンに向けて爪を振るってきたからで、リオンの横にいた男は後方に跳んで難を回避していた。
「わたしが囮になる! あなたが妖熊を討て!」
新たな妖熊の攻撃を紙一重でかわしながら、リオンは男に向けて声を張り上げる。妖熊はもう一匹いるが、そちらは健在の騎士が数人がかりで挑んで、妖熊を追いつめつつある。リオンの強さを見て、一匹をリオンに任せることにしたのだろう。
それでリオンが倒れることになっても、目の前の一匹を倒してから、残る一匹を仕留めればいい。つまり、リオンに期待されているのは、騎士たちが一団となって妖熊を倒すまでの、時間を稼いでくれることだ。だが、リオンは時間を稼ぐことだけで、終わらせるつもりはない。