第十二章 対峙のとき 05
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ただいま、その短い言葉と同時に、自宅の玄関をくぐったリオンを迎えてくれたのは、エルマの悲鳴にも似た怒声だった。
「杓から直接水を飲むな!」
ここのところ、毎日のように聞くおなじみの台詞に、リオンは溜息を吐き出す。
「何度言ったらわかるんだ!」
怒鳴るエルマの声音をたどるようにして、リオンは台所を覗く。そこには、住み込みで働いてくれているハンナとエルマの他に、イズヴェルの顔がある。
あの日、無事に聖剣を持ち帰って、王カエサルの御前に報告をしてから、一ヶ月ほどがすぎようとしていた。旅に出る前のリオンは、王朝騎士団第三騎馬隊の所属だった。もちろん、リオンとしてはそこへ帰参するつもりでいたが、カエサルはそれをよしとせず、リオンを近衛の騎士に叙した。
王の傍近くに仕えるのが近衛であるが、リオンには見張られているような気がしてならない。療養のためという見え透いた嘘で、シュメールは宮廷魔導師長の任を解かれた。リオンがあの日振り下ろした剣は、シュメールを傷付けることなく、リオンの意思のままにシュメールの思念だけを断ち切った。王子は何事もなかったように床を離れて、今では元気な声を響かせて走り回れるほど回復している。
一見、何事もなかったかのように、日々が戻ってきた。王子の平癒に誰もが胸をなで下ろし、これからも続いていくだろう王朝の未来に安堵した。
しかし、リオンにはそれで終わりにすることができない。
「その剣は、きみが賜った、きみの剣です」
クリフの言葉がリオンの脳裏に貼り付いて、消えないでいる。リオンにはまだ成すべきことがある、クリフはそこまで口にしなかったが、言葉にされずともリオンも承知している。だが、リオンがふたたび旅に出ることを、カエサルは了承しない。厳密に言えば、リオンが聖剣を持って、クリフを伴って旅に出ることが怖いのだ。
剣をあずかる、そう言ったカエサルの言葉には逆らうことができずに、あの日あの場所で手渡した。ただし、リオンが望めば剣はいつでもリオンの手に返ってくるはずだ、とはクリフの言葉で、そのクリフの言葉を借りれば、カエサルにあずけておくのは、盗難防止にはうってつけだった。
もちろん、そうしたことはカエサルの知るところではない。
そして、クリフがどうしているかといえば、ディールとともに軟禁状態に置かれている。クリフがアシュタール王国の王子であることを、シュメールは未だに否定している。思い返せば、クリフと対峙したシュメールは、クリフが自身の弟であることを、最後まで認めなかった。
しかし、クリフ自身はシュメールの弟であることを、認めている。アシュタールの王子が、こうして生かされているのは、リオンが生命乞いをしたからでもある。
「彼がなければ、聖剣を手に入れることも、持ち帰ることも叶わなかったはずです」
最大の功労者がクリフであることを強調して、斬首だけは免れた。ただし、クリフの魔力は封じられてしまったが、それも、リオンが剣を取り戻せば封印は容易に解くことができるだろう。だから、というわけでもないのだろうが、クリフは不満も不平も口にすることなく穏やかに笑っていた。屈強な門番のお陰で、泥棒の心配をしなくていいのだと言う。監視の目がある中での面会で、クリフは堂々と戯れを口にする。
「さらに、金銭がかからないのですから、ありがたいだけです」
その一方で、これまでを傭兵として、土地から土地を旅してきたディールには窮屈でしかないようだった。剣を取り上げられて、それでも騒がずにいるのは、いつかリオンがふたたび旅立つのことを知っているからだ。
それが証拠となるか、別れ際にディールが言った。
「あまりのんびりしすぎると、身体がなまる」
騎士としての能力を、封じられているわけではない。実際には、妖熊を討ち取った剛の者であるのだが、ディールはその証を所有しておらず、実力を侮られた結果である。
そして、侮るというのなら、イズヴェルも同様だった。ただ、イズヴェルの場合は、生まれがエイドリア王国というだけの理由で蔑視されたのだが、結果としてリオンと同じ屋根の下で暮らせるのだとしたら、皮肉以外の何者でもないだろう。
イズヴェルがエイドリア出身であることは、両の耳で揺れる金環の耳飾りが告げている。隠しようのない事実、隠すことをしない事実のまま、王都の街を出歩くだけで周囲は蔑みの目を向けてくる。それを気にすることなく、イズヴェルは堂々と表を歩く。
「おれは何も悪いことはしていないよ」
そう言ってうそぶいてみせるイズヴェルだったが、どうやらエルマの前では話が違うらしい。
「今度同じことをしたら、出て行ってもらうからな!」
「悪かった悪かった」
あまり悪びれた様子もなく、イズヴェルはそう言って、片手をひらひらと振ってみせる。それに溜息をもらせば、リオンの存在にようやく気が付いたらしいエルマが、身体ごと振り返る。
「リオンさま、お帰りなさい!」
先ほどまでの怒りをどこに置いたのか、エルマは満面の笑みをリオンに向けてくれる。ハンナも笑顔で迎えてくれて、イズヴェルだけが頭をかいてから、そういえば、と言葉を続ける。
「今日、通りを歩いていたら、珍しい顔と会ったんだったな」
「……?」
「アーニャだよ。昨日、帰ってきたんだと」
その表現は、どちらかというと正しくない。アーニャが本来帰るべき場所は、あの村だ。
カエサルが手配した騎士と、アーニャは村へと帰っていった。文句もなくアーニャがそれに従ったのは、一度村へ帰って、クリフが一緒に暮らしていたリィザとエフロフを、迎えに帰るという目的があったからだ。もちろん、同道した騎士の側には別の目的があって、アーニャがどこに住んでいるのかを確認するためだ。
アーニャの生命を奪うことは、カエサルには容易いはずだが、それをしなかったのはリオンをはばかってのことだろう。それで、アーニャの住まいを確かめて、いつでも村ごと潰してしまえることを恫喝しているのだ。帰らずの森の淵にあるような村である、一夜にして消えてしまっても、森の獣の仕業に見せかけることだってできるだろう。
人質が村人全員となれば、アーニャもあの日のことを他言することはない。もっとも、アーニャ自身、誰にも語ることをしないだろうが。
「すっかりと女らしくなっていて、一目でアーニャだと気が付かなかった……」
装いを変えたのは、衛兵の目を誤魔化すためだろうとリオンは推測する。イズヴェルの目をだませたとなると、誰もあの時の娘だとは思わないだろう。我ながら不覚だ、と溜息するイズヴェルを無視して、リオンはそれでと先を促す。
「その足で、大聖堂へ向かうんだと行ってたから、レイシアどのとつなぎを取るんだろうと思うよ」
そうか、とうなずいたリオンに、エルマが弾んだ声を投げかけてきた。
「リオンさま、そろそろですか?」
「二度と、ここには戻ってこれなくなるが、それでも着いてくるか?」
カエサルの許しもなく旅に出るのだ、それがたとえ必要なことであっても、二度と帰参することはできないだろう。
しかし、リオンは別に忠誠を約した。その証として剣を賜った。
「せっかく、近衛の騎士になれたというのに、自ら進んで逆賊の汚名を着ることもないだろうに……」
そう言ってあきれるイズヴェルに、リオンは苦笑で返す。
「だったら、イズヴェルはここに残るか?」
「ん? それも悪くはないだろうけど、あんたといれば、少なくとも退屈だけはしない」
つまるところ、一緒に行くということだが、もちろんハンナまで同道させるわけにはいかない。だからといって、今度もここで待っていてくれとは言えないので、解雇を言い渡す。ハンナに危害が及ぶことを、極力回避するために、文章に残しておく必要があるだろう。
とりあえず、アーニャに会うことが先決かもしれない。
「忙しくなりそうだ……」
リオンの新たな旅が、始まろうとしていた。
── 完




