第十一章 忠誠と代償と 01
名もなき湖の水は空の青を映して、陽光に照り輝いていた。伸びた木の根は湖底にまで達して、その根の間を数え切れないだけの稚魚が、気持ちよさそうに泳ぎ回っている。水が有害なものでないことは、魔導を用いてクリフが証明してくれた。
そのクリフは、エルマを手伝って湖水を利用して、鍋を洗っている。水に浸した鍋に、鍋の底や縁に残っていたのだろう飯粒を目当てに寄ってくる魚が面白いようで、村にいたころには一度も見せたことのない笑顔で水の中を覗き込んでいる。
そんなクリフを離れたところに見付けて、アーニャも自然と笑顔になると、クリフの名を叫ぶように呼んだ。
「クリフ! お魚、何匹食べる!」
アーニャの声に顔を上げたクリフだったが、笑みを冷ややかなものに変えて答える。
「アーニャの残りでかまいませんよ」
「それ、どういう意味さ!」
ふたたび、視線を落としたクリフから返事はない。だが、それをアーニャは不満には思わない。傍にいたい、その一心だけでクリフに着いてきた。だから、こうしてクリフと一緒にいられるだけで、アーニャは満足だった。
感じ方は違うかもしれない。それでも、クリフと同じ景色を目にし、クリフと同じ音を聞き、クリフと同じ匂いをかぐことができる。それだけで、アーニャは幸せだと思いながら、ディールと連れだって湖に足を入れていく。
水はアーニャの胸の辺り、ディールなら腹までしかない。
アーニャは湖底を蹴って水に身体を浮かせると、そのまま手と足で水を掻いて進んで行く。久し振りの水の感覚を堪能して、アーニャが背後を振り返れば、クリフは先ほどと同じ場所で同じように座っている。手元を覗き込んでいるようなので、未だに鍋に引かれて集まってくる魚を楽しんでいるのだろう。
「見事なものだな」
その声は後ろから、アーニャを追いかけてきたディールのもので、素直な感嘆に彩られていた。視線を岸からディールへと移して、アーニャは笑顔を見せると言う。
「村には池もあったからさ、泳ぎはそこで覚えたんだ」
もちろんもぐるのも得意だと、それを証明するため、アーニャは大きく息を吸い込むと水中へと全身を沈める。水深は浅いので、もぐればそこに湖底を見ることができる。水中をしばらく進んで行くと、そこに片手を広げたくらいの黒い魚の群れを見付けた。
アーニャはふたたび顔を覗かせると、大きく息を吐き出してディールに言う。
「ディール、少しもぐれば、お魚がいる!」
離れてしまったディールに向けて、アーニャは声を弾ませると大きく手を振ってみせる。すぐに行く、ディールからの返答にうなずいたアーニャだったが、先ほど目にした魚が右足にかみ付いたのがわかって、その痛みからアーニャは顔をしかめる。
さらに最悪なことに、アーニャの足には左右の別なく、魚が群れを成してかみ付いてくる。さすがのアーニャもその場から逃げ出すために水を蹴るが、そうして全身を水に浮かべたことで、黒い影はアーニャの全身にかみ付いてくる。
「やだ! 離れなさいよ!」
身体に群がるようにかみ付いてくる魚を、アーニャがどれほど手で払ってみても、その魚はアーニャから離れることをしない。やむなく、銛の代わりとして持ってきた、矢の先端で黒い魚を突き殺す。鏃に刺し貫かれた魚は、気味の悪い青い液体を流して水面を染めていく。それには、アーニャの血の色が混じる。
アーニャの異変に気が付いたのだろうディールが、水をかき分けて近付いてくると、無言のままアーニャの片手をつかんだ。そして、そのままアーニャの身体を水面から引き上げると、ディールはアーニャを肩に担ぐ。
水面から身体が浮き上がると同時に、アーニャの身体にかみ付いていた魚は、いっせいに力をなくして水面へと落ちていく。落ちる魚と一緒に、アーニャの全身のいたるところから、鮮血が流れていく。
「何なのさ、これ!」
「妖魚だ!」
それが妖魔の一種なのだと知って、痛みと恐怖にアーニャは青ざめる。だが、ディールはアーニャに息つく暇もあたえることなく、アーニャを担いだまま岸を目指して進んで行く。おそらく、ディールとしても目いっぱい急いでいるのだろうが、水の抵抗と妖魚の攻撃に思うように進めないのだろう。
アーニャの身体は水の上にあるが、ディールの足は水の中にある。
「ちょっと、あんたの、足……っ」
「気にするな」
その言葉をディールがどんな表情で口にしたのか、肩に担がれたアーニャにはわからない。だが、水の中を進むディールの足には、先ほどまでアーニャの全身にかみ付いていた魚が群がっている。平気なはずがないのに、ディールは大したことではないと言う。
湖岸の方でもこちらの異変を察知したのだろう、クリフとエルマの声が風に乗って聞こえてくる。
「水に入るな……!」
ディールの叫び声が舌打ちに変わって、エルマのひどく慌てた声がクリフの名を何度も呼ぶ。何が起きたのか、アーニャは担がれたまま身をひねってそれを確認すると、悲鳴にも似た声を上げた。
「降ろして! クリフが溺れる!」
アーニャを心配して駆け付けようとでもしてくれたのだろうか、それとも、誤って足を滑らせたのだろうか。あろうことか、クリフが水に落ちてもがいている。足が届かないはずがないのに、極度の混乱がその事実を失わせているのだろう。
助けに行かなければと思うのに、アーニャを拘束するディールの力がゆるむことはなく、アーニャはディールの背中を乱暴にもたたきながら降ろせと繰り返す。
「あまり暴れると落ちるぞ」
その声音が冷静であるだけに、アーニャにはいっそディールが恨めしい。だが、ディールはクリフの元にたどり着くと、空いているもう一方の手でクリフの身体を水から引き上げた。そして、アーニャと一緒に柔らかい草の上に降ろすと、自身も水の中から岸へと上がる。
妖魚が陸にまで付いてくることはなかったが、水から上がったディールの足には、アーニャ以上の傷があった。
リオンとイズヴェル、それにレイシアが戻ってきたのは、そんな時だった。
*
大気を切り裂くようなアーニャの甲高い悲鳴を聞いて、慌てて駆け戻ってきたリオンだったが、そこには妖魔の気配も獣の姿もなかった。
それだというのに、アーニャは身体のいたるところに怪我を負い、ディールも両の足に無数の傷を負い、クリフは全身ずぶ濡れになって肩で喘いでいる。無事なのはどうやらエルマだけのようで、岸から遠く流された鍋も無事とはいえないだろう。
「何があったのか?」
不幸中の幸いとでもいうべきか、ディールにしろアーニャにしろ、傷はどれも深いものではないようだった。クリフにいたっては傷もなく、エルマは顔色を青くさせて口を虚しく開閉させている。
「妖魚がいたのだ」
リオンの問いかけに答えたのはディールで、苦い顔をして続ける。
「妖魚は、煮ても焼いても食えぬ」
大気中ではなく水中に亀裂が生じて招喚される妖魚は、人の目には触れにくい。そのため、退治されることなく、妖魚は繁殖する。ただし、糧となる人間を得にくいため、妖魚は自滅の道をたどることになる。この湖の妖魚を、時間と共に滅びる定めにあるのだろうから、遭遇したことは運が悪かったとしか言いようがない。
何はともかくとして、傷の手当てが先だろうと、リオンが言えば呼吸を整えたクリフが、水滴をしたたらせながら言う。
「手当は、ぼくがします」
魔導を用いた方が早いというのには、リオンも異論はない。
ただし、傷は簡単にふさぐことができるが、完治するまでには時を要する。特に、騎士ではないアーニャには、時間だけが養生だった。
「今日は、このままここで野営をしようか……」
そう言って、リオンは改めて周囲を見渡した。




