第十章 試しの森 05
「……近くに?」
おそらく、イズヴェルは冗談として口にしたのだろう。だが、イズヴェルの発した言葉が正しければ、男を襲った何者かは、迷うことなくリオンらに襲いかかってくるはずだ。今のところ、そうした気配が見受けられないのは、向こうからこちらが見えないからだ。
つまり、リオンらがここにいたる間に、相手も移動したということだ。そうであるのだとして、その何者かは、どちらの方向へ向かったのか。
「何か、いやな予感がする」
リオンがそうつぶやいて、視線を上げた次の瞬間、何かが破裂する音が大気を振動させて響いてきた。その音の方角を確認したリオンは、イズヴェルを促して走り出す。木の枝で穴を掘っていたディールも、それを手伝っていたレイシアも、作業を中止させるとリオンの後に続く。
音が聞こえてきたのは、リオンがクリフと一緒にエルマとアーニャを待たせている方角からだ。子どもに死体を見せるべきではないと、置いてきたことが徒となっただろうか。破裂音はクリフが発動させた、魔導による攻撃で間違いない。
さらに新たな破裂音が聞こえて、リオンは確信を深める。
逸る思いにせき立てられながら、きた道を逆にたどった先でリオンが目にしたのは、大地の上に横たわる二頭の一角獣だった。ただし、帰らずの森で目撃した一角獣とは違って、毛並みの色は純白よりも白銀と呼ぶ方が近かい。角は螺旋を描いて長く伸び、その先端は槍の穂先よりも鋭く見えた。
そして、その二頭の一角獣を前にして、泰然と佇むクリフと、クリフの背後に隠れるエルマとアーニャがいた。もちろん、それには七頭の馬も無事にいる。
「クリフどの、これは一体……」
「殺してはいませんよ」
確かに、一角獣は二頭ともに目を閉じてはいるものの、腹部がわずかに上下して息をしていることを証明していた。だが、リオンが知りたいのはそんなことではない。
「一角獣が人を襲うとは意外でしたが、ぼくたちの方が彼らの縄張りを侵してしまったようです」
「それは?」
「他にも一角獣がいて、ぼくたちを狙っているということですよ、リオン」
クリフはそう言うが、リオンには囲まれているという認識はない。どれほど感覚を研ぎ澄ましてみても、リオンの視界に映る六人と七頭の馬以外に、動くものの気配は感じられないのだ。
「他に一角獣がいて、何故、襲ってはこない?」
「それは、ぼくが二頭も、気絶させてしまったからでしょうか」
「つまり、あんたの強さに、恐れを成して逃げ出したというわけだな」
皮肉っぽくイズヴェルがそう言うのに、クリフは小さく肩をすくめて見せる。
「だが、何で殺さない?」
わざわざ気絶させるよりも、いっそのこと葬ってしまう方が易いのではないか。ディールの素朴な疑問に、クリフはアーニャの手から自身の馬の手綱を受け取りながら答える。
「仲間を殺された怒りに、我を忘れて襲いかかられても厄介ですからね」
だから、一角獣の角はあきらめてほしい、クリフはレイシアにそう言ってから続ける。
「とにかく、みんな集まったようですから、ここからすぐに離れましょう」
これ以上この場に留まって、一角獣を刺激するのは得策ではない。それには誰もが同意して、馬にまたがると細い水の流れを越える。
相変わらず動くものの気配はなく、風に揺すられた枝葉のすれる音だけが森に広がっていく。自然と口数は減って、馬が踏む落ち葉と枯れ枝の音が森に響く。
やがて、沈黙に耐えられなくなったのか、イズヴェルが口を開いた。
「……これからどうするわけ? ただ闇雲に森の中をさまようわけ?」
「残念ですが、その通りですよ」
クリフが応じれば、イズヴェルは溜息して言う。
「やっぱり、着いてくるんじゃなかったかな……」
何か言いたげにレイシアがイズヴェルに視線を向けたが、結局何も言わないまま前を向いた。
*
試しの森に入って三日、その間、獣と遭遇したのは最初の一日だけで、それ以降は妖魔に襲われることもなくきた。道なき道を進んで、森のどの辺りまできたのか、リオンに知る術はない。もしかしたら、森の奥へ向かっているつもりが、森の外へと向かっている可能性もある。
森で生きる獣にしろ虫にしろ、気配を現さないことに変わりなかったが、植物たちは密やかに自己主張していた。山菜に茸、食べられるものとそうでないものをアーニャが見極めて、エルマとふたりで採取する。それをエルマが調理して、ささやかな食事を摂る。
「食糧に困らぬというのは、ありがたいことじゃ」
レイシアがそう言う傍らで、ディールが渋い顔をして言う。
「こんな野草ばかりの食事というのも、悪くはないが……」
「たまには、肉も食いたいよな」
ディールの後をイズヴェルが受けて、匙を口に含んだまま何度もうなずく。
小さな湖を見付けて、その岸でたき火を囲んで車座になる。対岸まで泳いででも渡れそうな湖には、周囲に並んだ木々の根が、水の中にまで入り込んでいる。その根の間を無数の魚が泳ぎ回っているのだが、大きさが小指の爪にも満たなければ、食糧とするには向かなかったか。
湖面は午後の陽光を受けて、まばゆくきらめいている。渡る風に広がる波紋を見つめて、エルマが思案顔で言う。
「リオンさま、湖にもぐってみたら、食べられそうな魚がいませんか」
「もぐるといって、誰がだ? わたしは、泳ぎは得意でない」
「そうなんですか!」
リオンになら何でもできると、エルマが思っていたのなら、少年の夢をひとつ壊してしまっただろうか。だが、騎士といっても万能ではない。常人とは違って、身体能力に優れてはいても、剣も覚えなければ使えない。それと同様に、泳ぎも鍛錬を必要とする。
「ふふん、あたし、泳げる」
得意に胸を張ってみせるアーニャの向かいで、人の悪い笑みを浮かべるディールが、悪いなと言って続ける。
「おれも泳ぎは達者だ」
そして、ディールはイズヴェルに視線を向ける。視線を受けて、イズヴェルはこれまでになく不愉快な顔をして答えた。
「悪かったな、泳げなくて」
結局、泳げるのはディールとアーニャということのようで、食事が終了次第さっそくもぐってみようということになる。それなら、今日はこのままここで夜を明かそうと話がまとまって、クリフがエルマを手伝って食事の片付けを始める。ディールとアーニャは薄着になると、矢を銛の代わりに湖へと入っていく。
それらを見届けて、リオンとイズヴェル、そしてレイシアの三人で必要な薪を拾いに行く。
「こっちはレイシアどのとふたりで間に合うから、リオンは帰って向こうを手伝ったら?」
「向こうで、わたしに何かできることがあるというのか」
「違うよ、あんたが邪魔だって言ってるんだよ」
なるほど、と奇妙な得心にリオンは顔を上げる。その視線の先で、イズヴェルの思惑など意にも介さぬ様子で、薪を拾っていたレイシアが手を休めることなく言葉を寄こしてきた。
「邪魔と申すのであれば、イズヴェルの方であろうな」
「レイシアどの……!」
「いっそのこと、魚の餌にでもなってみてはどうじゃ。その方が、みなも喜ぶであろうと思うが、いかがじゃ?」
「ふむ、それがレイシアどののご本心か」
「どういう意味じゃ」
それは、とイズヴェルが何かを言いかけたその時、アーニャのものだろう甲高い悲鳴が、風に乗ってリオンらの元へと届いてきた。巨大な魚に遭遇しての歓喜の悲鳴とは思えない、切迫した緊張感をはらんでいるのがわかれば、のん気に軽口を聞きながら薪を拾っている場合ではない。
抱えるほど拾っていた薪を、投げ捨てるとリオンはイズヴェルとレイシアと共に、湖岸へと引き返した。




