第一章 旅立ち 05
リオンが声を上げて笑ったものだから、エルマはそれを揶揄されたと感じて憤った。少年には少年なりの自尊心もあったし矜持もあった、それを笑われたとエルマは思ったのだが、もちろんリオンにそんなつもりはない。
頬を膨らませてむくれているエルマに、リオンはそうではないとばかりに笑いかけてから言う。
「わたしは、エルマに元気をもらっているのだ」
「……」
「試しの森へ行くのだと思えば、さすがにわたしとて緊張せずにはいられない。だが、エルマのお陰で緊張は解けたし、こうして笑うことができた」
ありがとう、リオンが言えばエルマの顔にも笑みが戻ってくる。そして、顔を上気させると、エルマは興奮気味に声を弾ませる。
「だったら、おれがいつでもリオンさまを、元気にしてみせます!」
両手でこぶしを作って、気合いを入れるエルマの姿に、リオンは苦笑をもらす。旅がどれほどの危険を伴うものであるのか、王都の街から一歩も外にでたことのないエルマは知らないのだろう。結界で覆われた町であれば安全であるが、街道を行けば妖魔が現れることもある。むしろ、妖魔に遭遇するのが当たり前であるし、妖魔は人間を人間と知って襲ってくる。さらには徒党を組んで旅人を襲う、無頼の輩もいるだろう。
おそらく、エルマも知識としてはそうした危険を知っているのだろうが、経験としては何も知らないはずだ。剣術は教えていても、騎士ではないエルマの剣が実戦で役に立つかはリオンにも未知である。リオン自身でさえ妖魔と対峙したことは、数えるほどしかないのだ。
やはり、エルマを同伴するのは無理だろう。旅支度をしてくると、食堂を飛び出していくエルマの背中を見送って、代わりに入ってきたハンナに向けてリオンは言う。
「明日を待たずに、わたしは今夜の内に旅立とうと思う」
「エルマさんは、どうなされるのですか?」
「置いていく」
リオンの言葉にハンナが息を詰めるのがわかって、ハンナの視線がエルマの出て行った扉を捉える。リオンもその扉を見つめて、言葉を続けていく。
「それで、三年……」
覚醒と昏睡を繰り返しているという王子の、その余命がどれだけあるのかをリオンは知らない。この王国で一番の魔導師であるはずのシュメールも、すぐのことではないだろうと言っていた。
「……もしも三年しても、わたしが帰らなければ、この家はエルマに継がせてやってほしい」
「旦那さま!」
「もちろん、わたしとてそう簡単にやられるつもりはない。だが、何が起きるか知れない危険な旅であることに違いないだろうから、後顧の憂いは取り除いておきたい」
「……」
「必要なことは文書にまとめておくから、三年経ったらしかるべき手続きを取るように」
これではまるで遺言のようだ、そう思えば何やら苦い感情がこみ上げてくる。
「旦那さま、わたしは旦那さまのいない間の留守はお守りいたしますが、それ以上のことは何もいたしませんから、三年が五年になろうとも、どうかご無事にお帰りください」
そう言ってハンナは頭を下げると、夕食の仕度をするために台所へと向かっていった。その背中に向けてリオンは小さな溜息を吐き出すと、リオンも席を立つ。ハンナは三年が五年でもと言ってくれたが、だからといって、何もしないというわけにはいかないだろう。
自室に入ると、リオンは王朝騎士団団長グレンに宛てた手紙をしたためる。今度の旅にリオンを推薦したのがグレンであるのなら、これくらいのわがままは許されてしかるべきだと、自らが帰ってこれなかった後のことをよろしくお頼みいたしますと記す。
それを封筒に入れて封をして机の上に置いてから、リオンは改めて室内を見渡す。ハンナが毎日欠かすことなく掃除に気を配ってくれるお陰で、質素ではあっても清潔で居心地もいい。今向き合っている机と寝台の他には、衣装箪笥と本棚があるだけで、床には敷物のひとつもない。
「今度帰ってきた時には、暖炉に火が必要になっているだろうか……」
つぶやきに自嘲して、リオンは旅に必要な荷をまとめる。騎士として戦に赴いたことや、妖魔退治に駆り出された経験から荷造りを終える。荷袋の中には、グレンからいただいた勅書と金貨の他に、シュメールからもらった玉を忍ばせる。騎士の象徴である剣の柄には、国王直属の騎士となったことを示す金のメダルを取り付ける。旅の過程で、このメダルがリオンの身分を保障してくれることになるだろう。
そして、荷袋を剣と一緒に部屋の片隅に置くと、手には小さな革袋を持って階下に赴く。食堂ではエルマがハンナを手伝って食器を並べているところで、リオンの姿を認めるとエルマが言う。
「リオンさま、今夜の内に旅立とうなんて思ってませんか?」
「ハンナから、何か聞いたのか?」
ハンナには「何か」を話したと自ら暴露したリオンに、エルマは口をとがらせると、やはりそうなんだとつぶやいてから続ける。
「おれ、今夜はリオンさまの部屋の前で寝ます」
「……窓から出て行くかもしれないな」
「だったら、窓の下で寝ます!」
「いや、それは止めてくれ」
「だったら……っ!」
声を荒げるエルマに向けて、リオンは両手を軽く上げると、ゆるく首を横に振って降参の意を伝える。
「わかった、エルマは連れて行くから、ちゃんと部屋で休んでくれ」
「本当ですね? もしも、朝になってリオンさまがいらっしゃらなかったら、おれはひとりでも試しの森へ向かいますから、そのつもりでいてください!」
エルマなら本当にひとりでも旅立ちそうだ、とリオンが溜息した時、大きな鍋を両手で持ったハンナが現れる。そして、食卓の上に並んだ皿の中に、鍋のものをよそいながら笑顔で言う。
「どうやら、旦那さまの負けのようですね」
「剣以外の勝負には、どうも弱いらしい」
リオンも笑顔で応じて席に着くと、革袋をハンナに向けて差し出す。
「些少ではあるが、わたしの蓄えだ。ハンナの好きなように使ってくれ」
「大事に使わせていただきます」
この家を維持するのにも金銭はいるだろうし、日々の生活には当然欠かせないものであるから、ハンナも遠慮なく革袋を受け取る。
「では、食事にしようか」
リオンの一言で、つましいながらも温かい団欒が始まる。
幾百となく繰り返してきた光景は、この夜もいつもと同じで、そして、迎えた朝は夏のよく晴れた青空がどこまでも果てしなく広がっていた。
「今日も、暑くなりそうだ」
照り付ける陽射しに目を細めると、リオンは馬上からエルマを振り返る。同じように馬の背にまたがったエルマが、緊張を隠そうともしないで、リオンの斜め後ろに従っている。
「怖いのか?」
リオンが問えば、心外だとばかりにエルマが激しく首を横に振る。その様は笑みを誘うに充分であったが、リオンは真摯な表情で言う。
「わたしは、怖いと思う」
「え?」
「だが、ひとりでないことが、今は心強い」
本心からそう思い、リオンは驚くエルマに微笑してみせる。
「さあ、行こうか……!」
明けたばかりの王都の街は、どこかにまだ眠気を宿しているようで、朝の静寂に包まれて通りは閑散としていた。だが、軒を連ねる家々の煙突からは、炊事に追われる煙がのどかに立ち上っていたし、広場では市が立とうとしていた。
見慣れた町並みの、見慣れない早朝の風景を心に刻んで、リオンは王都マエリアを後にする。王都の城門をふたたびくぐることができるのか、リオンにはわからない。そして、この旅路の先に何が待ち受けているのか、それを知る者は誰もいない。