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第十章  試しの森 04

 不気味なくらいに静まり返った森の中に、水の流れる音が微かに聞こえてくる。枝葉を揺する風の音しかしなかった森で、それ以外の音を耳にして、リオンはそっと安堵の息を吐き出す。先頭を行くディールも、思いはリオンと同じであるのか、水の音を耳にしてからは馬の足を少しだけ速めた。

 そうして、水の音を頼りに進んで行けば、木々の間を縫うように這う、細い水の流れに行く着く。

 またいで渡れるほどの幅しかない水の流れは、片手で簡単にせき止めることができる。どこから運ばれてきたのか、一枚の葉っぱが流れに乗って通りすぎていく。それを見送ってから、リオンは流れに右手を差し入れた。


「……冷たい」


 まだまだ暑い日が続けば、水の冷たさは心地よい。汗を拭うために、手拭いを水に浸そうとしたリオンがその手を止めたのは、澄んだ水の流れが赤く染まったからだ。


「な、何これ……っ」


 アーニャが悲鳴を上げて、文字通り飛び上がる。


「これは……血?」

「どうやら、そのようだ」


 リオンのつぶやきにディールが賛同すれば、アーニャが怯えた顔をして言う。


「何だって血が流れてくるのさ!」

「そりゃ、誰かが上流で、森の獣を殺めたからだろうと思うよ」


 聖剣を求めて森に踏み入る生命いのち知らずの強者つわものは、他にもいるだろう、そう言ったイズヴェルの意見にクリフは別の可能性を示唆してみせる。


「その逆かもしれませんよ」

「いずれにせよ、リオン卿は、放っては置かれぬのであろう?」


 レイシアの言葉に無言でうなずいてから、リオンは赤く染まった水が流れてくる方角を見やった。





 鮮血を溶かして赤く変色した水の流れを逆にたどって、馬の手綱を引いて歩く。徒歩にしたのは、いつ起きるかわからない不測の事態に備えてのことだ。悲鳴さえ聞こえないほど離れた場所から、鮮血は流れてきたのだ、どれほど急いだところで、できることはしれている。

 クリフが先行させた精霊は、動くものを見付けることができなかったのだ、人にしろ獣にしろ生きてはいない。


「……すでにむさぼり尽くした後だったりしてな」

「いやなことを言うな!」


 イズヴェルの軽口に、エルマが猛然と叫ぶ。それに小さな溜息をもらすと、イズヴェルは面白くなさそうな顔をしてエルマに言う。


「あのさ、前から思ってたんだけど、おまえって、おれにだけため口きいてない?」

「言葉は人を選んで使えって、死んだ母さんの遺言なんだ」

「亡き母上のご遺言であるのなら、仕方がなかろう」


 そう言ってレイシアがエルマを擁護するのを聞いたイズヴェルは、盛大な溜息を吐き出してうなだれた。


「つまり、イズヴェルも他者から敬われるような、そんな人間になれということだろう」


 とどめの一撃をディールによって刺されたイズヴェルが、さらに意気消沈する様に、リオンは苦笑をもらす。

 しかし、やがて血の臭気までもが確認できるようになれば、冗談を言う余裕はなくなったようで、リオンだけでなく緊張をまとい始める。


「エルマとアーニャは、こない方がいい」


 この先に待っているものを想像して、リオンはそう言った。エルマとアーニャは異論を口にしたが、クリフが一緒に残ると言えばアーニャは簡単に折れて、エルマもリオンの言い付けには逆らえずに結局はうなずいた。

 こうして、三人と馬を残してリオンを含めた四人で、さらに流れを遡って行く。

 最初に目に飛び込んできたのは、大樹の陰から覗いた二本の足だった。もちろん、獣のそれではなく、人のそれだ。誰からともなく駆け出して、大樹の向こうへと回り込む。案の定というべきか、そこにはひとりの男が仰向けに倒れていた。


「……むごいな、心の臓を一突きか」

「背中まで貫通しているようだね」

「だが、この傷は剣によるものではない」

「つまりは、獣に襲われたのじゃな」


 細い流れの上に倒れた男の身体からは、未だ鮮血があふれ出ている。傷の大きさは、親指と人差し指で輪を作ったくらいあるだろうか。大きく見開いたままの青い瞳が、最期に映したものとは何であったのだろうか。もはや何も映すことのない、虚ろな目をリオンが閉じてやれば、レイシアが小さな声音で死者を弔う祈りの言葉を口にする。

 その祈りの言葉が終わると、レイシアは男の顔を凝視してつぶやいた。


「この男、どこかで見たような気がするのじゃが……」

「知り合いか?」


 ディールの問いかけに、レイシアが首を横に振るのを見て、イズヴェルが安堵の息を吐く。


「レ・シャリフォンの町にいた男ではないか」


 男の赤い髪にリオンは覚えがあって、記憶が正しければ、レ・シャリフォンでイズヴェルが見付けた男だ。だが、リオンが同意を求めれば、イズヴェルは首を傾げる。


「おれは、男の顔は覚えないことにしているからな……」


 どちらにしろ、男の身元を示す所持品はなく、これ以上してやれることといえば、埋葬して弔ってやることだけだろう。

 あの木の根元はどうだろうか、と場所を決めて、そこに穴を掘るために近付いてみれば、となりの木の幹に擦り付けた血の跡が見えた。高さは、リオンの目線よりか低い。


「これは……?」

「当然、血を拭いた跡だろうと思うよ」

「それはわかっている。問題は、何者の仕業であるのかだ」


 リオンが改めて言えば、横から覗き込んでいたイズヴェルが言う。


「見当は付いてるんでないの?」

「……おそらくは、つのだろう」

「ま、妥当なところだろうね」


 その獣は何であるのか、それがリオンにはわからない。人間を背中まで一刺しにできるほど長く、鋭利な尖端を持ち、それなりの太さも有している角、そんな角を持った獣とは何だろうか。


「他にも、跡があるだろうか」


 別の痕跡を求めて、リオンが付近を見回れば、イズヴェルが後ろを着いてくる。その結果、穴を掘る役目はディールとレイシアが担うことになるが、大半はディールがこなすことになるだろう。

 周辺の木々をぐるりと一周して、何もないことを確認していく。リオンが確かめた後を、イズヴェルが再度確認していくが、変わったところは何もない。手がかりはなしか、とリオンがあきらめかけた時、イズヴェルが大地の一点を指差す。


「なあ、リオン、これ何の足跡だと思う?」


 降り積もった木の葉をうがつように付いた足跡は、跳躍する際の踏み切りの跡のようだった。型は馬の蹄にも似ているが、ここから男までの距離は、大股で歩いて一〇歩はある。


「一角獣って、人を襲ったりしたと思う?」


 蹄を持って角がある、そして木の幹に残した血痕、そこからイズヴェルは一角獣を想像したのだろう。リオンも一角獣の存在を思いはしたが、イズヴェルが疑問に思う通り、一角獣が人を襲ったという話をリオンは聞いたことがない。

 リオンが首を横に振ってみせれば、そうだよな、とイズヴェルも口にする。

 帰らずの森で一瞬だけ目にした、一角獣の優美な白い肢体が思い出される。青い瞳はとても穏やかで、争いごとを厭うかのように走り去っていった。


「……一角獣の角は、人を貫けるほど長くもなければ、鋭くもなかったはずだ」

「この森に、おれたちの常識が通用しなければ、あり得ることだとは思わない?」


 森に踏み入って、まだそれほどの時間は経っていない。だが、森の入り口で狐狸と対峙して以来、動くものといえば、リオンら一行の他には虫の一匹も見ていない。常識が通用しないことは、その一点からも明白であるだろう。

 思案するリオンに、イズヴェルがさらなる懸案事項を提示して見せた。


「それに、気配がわからないだけで、もしかしたら、おれたちの近くにいたりして……」


 

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