第十章 試しの森 02
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あれから一ヶ月か。もう帰ってはこないだろうな。
レ・シャリフォンの町を歩けば、そうしたささやきがあちこちから聞こえてくる。試しの森を目指す時、その多くがこの町を経由して行くからだ。自らの勇敢さを誇示して、これから自分は試しの森に向かう、と宣言する声に、止めておけと言う声が重なる。
おまえもどうせ帰ってはこれない、侮るわけでもなく蔑むわけでもなく、町の者は無謀な挑戦者に声をかける。だが、その声に男は耳を貸すことをしない。自分は他の奴らとは違うのだ、何を根拠にしてか、男はそう言って胸を張る。
「なあ、リオン、もしかしてだけどね、森の中であの男と遭遇するとかあるわけ?」
あの、とイズヴェルが顎をしゃくってみせる先には、癖毛の赤い髪を短く刈り込んだ男がいる。道具屋の店先で何やら品定めをしているようだが、他に連れもなさそうで、男の言葉通りなら単身試しの森へ向かうつもりなのだろう。
「可能性として、あるかもしれない」
リオンが答えれば、面倒なことにならなければいいが、とでも言いたそうな顔をして、イズヴェルは肩をすくめる。リオンとしても森の中での面倒ごとは、できることなら回避したい。だが、どこかで出会うことにでもなれば、放ってはおけないのだろう、とリオンは気付かれないように溜息をもらした。
その時はそう思ったが、レ・シャリフォンの町を出て、馬上の人となるころには男のことなど忘れている。頭にあるのは、これから向かう場所のこととそこで待ち受けているだろう何者かのことだけだ。
ただし、夢に見た場所が、試しの森であるという保証はない。
だから、確かめに行く。
「やっぱり、おれ、帰ろうかな……」
レ・シャリフォンを出立して一〇日、果樹園のその先に広がる森に向けて馬を進めながら、イズヴェルが緊張感もなくそう言った。もしかしたら、偽らざる本心であったかもしれない。イズヴェルには試しの森に足を踏み入れる、明確な目的がない。
レイシアが行くから行く、というのがイズヴェルの行動原理であるから、そうは言いながらも着いてくるのだろうことは間違いない。それが証拠に、だったらこなければいい、というレイシアにいつもの軽い口調でイズヴェルが答えて言う。
「見目麗しいご婦人をお守りするのは騎士の務め、途中で投げ出したりなどしては、ご先祖さまに会わせる顔がない」
「さように悠長なことを申しておらずに、さっさと詫びを入れにいってはどうじゃ」
「おれがいなくなると、レイシアどのは寂しいくせに」
「誰がじゃ、清々しようというもの」
ふたりの変わらない遣り取りを耳にすれば、知らず知らず緊張していたリオンの身体から余分な力が抜けていく。そうして、リオンが短い苦笑をもらせば、となりに馬を並べたエルマが、リオンを見上げて真顔で言う。
「リオンさま、おれは、このままリオンさまに着いていってもかまいませんか?」
「たとえそこが冥界でも、着いてくるのではなかったのか」
冗談を交えてリオンが言えば、そのつもりでした、と声を落としてエルマは視線をうつむける。
「おれは、リオンさまのお世話も満足にできなかったし、それどころか……」
「ちょっと、あんた何言ってんのさ!」
エルマの言葉をさえぎったのはアーニャで、エルマを振り返ると、こちらも真顔で続ける。
「あんたがいなくなって、誰が食事を用意するのさ。この中で、料理がまともにできるのは、あんただけなんだから、あんたがいないとクリフが餓えてしまうじゃないのさ」
アーニャの言い様はいささか極端だが、リオンとクリフにアーニャを除いた四人は、紛いなりにも料理ができる。ただ、イズヴェルは面倒だと放棄し、レイシアは生まれ育った環境から得意ではないようだった。そして、ディールにいたっては、肉さえあればいいの。
「そういうことで、森に入る前に、食事にしよう」
リオンが言えば、元気を取り戻したエルマがふたつ返事で応じる。
うっそうと繁る、濃い緑の繁みを前にして、一行は休憩に入る。地面に穴を掘ってその周りに石を並べて簡易の炉を作ると、集めてきた枝にクリフが魔法で火を点ける。そうしておけば、後はエルマが思うように調理にかかる。
食事が整うまでのわずかな時間を利用して、リオンは森に入るための道を探す。ふもとの村で聞いた限りでは、森に向かうための道はないということだった。その正しさを証明してか、獣道のひとつもない。
「森に入りたければ、どこからでも入ればいい。ただし、一度森に踏み入れば、二度と森の外には出られない。それでもよければ、行ったらいい」
忠告はしたからな、リオンが尋ねた村の男はリオンにそう言った。怯えたような引きつった表情をしていた男の顔を思い出して、リオンが緊張を新たにした時、クリフの警戒を告げる声が低く響いた。
「さっそく森の洗礼を受けるようですよ」
リオンが振り返れば、クリフは不敵に笑って続ける。
「森の中から何かがきます。気配から妖魔ではないようですから、森の見張り番でしょうか?」
試しの森には、この森にしか棲息しない獣も多くいるらしい。森の奥深くに入って、生きて帰ってきた者はいない、と言われているので試しの森の全容を知る者はいない。そんな森からどんな獣が姿を見せるのか、リオンだけでなくディールもレイシアも、それにはイズヴェルも腰の剣の柄に手をかけ身構える。
相手が妖魔ではないとわかったからか、アーニャも得意の弓に矢をつがえてかまえる。完成間近の料理が入った鍋を、両手に持ったエルマは火を消して、クリフの背中にかばわれている。
「……来るぞ、狐狸だ!」
ディールが獣の正体を明かせば、それに重なるようにして、枝を踏む音と草をかき分ける音が複数響いて、静かだった森はにわかに騒々しくなる。
しかし、姿を現した狐狸は見えない壁でもそこにあるのか、低いうなり声を上げて威嚇するだけで、繁みの影から出てこようとはしない。
「襲ってこない?」
大きさは小型犬よりか、少し大きいくらいだろうか。犬のように突き出た口を持ち、三角にとがった耳をピンと立てて、丸みを帯びた身体に短い手足が伸びている。体毛は黒いものから灰色に茶色と様々で、大きな尻尾を誇示するように立てていた。
牙をむく様は凶悪そのものだが、手懐けることができれば、愛玩動物に向いているかもしれない。それが狐狸だった。
「どうなってるんだよ、リオン?」
拍子抜けしたかのように、イズヴェルが目を瞬かせて問いかけてくる。だが、リオンに答えられるはずもなく、わからないと首を横に振るしかできない。
互いに顔を見合わせていれば、場にふさわしくないクリフの陽気な声音がリオンを呼んだ。
「リオン、このすきに、食事をすませてしまいませんか?」
「クリフどの……?」
「おそらく、この森に棲まう獣は森の呪縛を受けていて、森の外には出てこられないのだと思いますよ」
実際、目と鼻の先に侵入者を置いて、狐狸は威嚇するだけで襲撃してくる気配を見せない。
「それに、腹が減っていては、戦ができないでしょう?」
冷めてしまっても美味しくありませんからね、クリフはそう言ってエルマを振り返って同意を求める。鍋の釣り手を両手で持ったエルマは、怯えた顔に引きつった笑みを浮かべて、一歩だけ後退った。
「これがゆっくりと飯を食っていられる状況とは、とうてい思えないんだけどね」
「だったら、イズヴェルは食べないでおきますか?」
イズヴェルの皮肉を受け流して、クリフは意地悪く笑って見せる。
「誰も食わないとは、言ってないよ」
そう言うと、イズヴェルは足を組んで座り込むと、そこに転がっていた碗をつかんで、エルマに向けて突き出した。




