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第八章  襲来 04

 

「花はどれだけあっても、腹の足しにはならないのだそうですよ」


 視線を落とすアーニャに、クリフが揶揄するように言えば、うつむけていた顔を上げてアーニャが言う。


「あたしは、そんなに食いしん坊じゃないさ!」

「そうでしたか?」


 場所は、一夜をすごした宿屋の玄関先である。リオンが溜息する中、クリフとアーニャが無駄な論戦を始めた傍らで、上機嫌で話しかけるイズヴェルをレイシアが冷たくあしらっている。それらを俯瞰的に見やるディールは、口角を持ち上げて意味ありげに笑っている。

 そして、取り残されたエルマが、リオンを見上げて言う。


「リオンさま、船の時間は大丈夫なんですか?」


 一隻の船が対岸とを行ったりきたりしているため、乗り遅れれば次の便は昼すぎになる。エルマに指摘されて、そのことを思い出したリオンは、行こうかとディールにだけ告げて、馬の手綱をにぎって歩き出す。どれだけも行かないうちに、残りの面々も後から着いてくる。

 水路と平行する通りを、水の流れにそって進んでいく。水路を船で下れば、船着き場まで一直線にたどり着けるのだが、馬を引いているのでそれは叶わない。町中を走る船は、どれもみな小型の船ばかりで、七人と七頭を一度に運べる船はない。

 水路にかかる橋を渡り、時には水路から離れた通りを歩いて、ようやくリムル川が見えてくる。


「これってさ、海にまで続いてるって本当なわけ?」

「そうなのですか、リオンさま?」


 川岸の土手の上には、その別名を春告の花ともいうアスリアの木々が、今は緑の葉を繁らせて植わっている。左右のどちらを見ても終わりの見えない並木に、季節が春であったならさぜ綺麗であったことだろうとリオンは思う。

 長く厳しい冬の終わりを告げるアスリアは、薄紅の小さな花をいっせいに咲かせて、絢爛たる優美さを誇示した後に、またいっせいに散っていく。はかない花ではあるが、そのはかなさの中に、人は刹那の美を探求するのだろう。


「川というものは、必ず海に流れ着くようになっている」


 アーニャとエルマの疑問に答えながら、リオンは並木にそって歩く。リオン同様にこれから船に乗る者や、船から降りてきた者たちが、忙しなく通りすぎていく。中には大きな荷を背負った者や、荷車を押して行く者もいる。

 とにかく、向こう岸に渡るためには、ここの船を使うしかない。はるか上流には橋があるが、それを渡るには、ここからさらに五日も歩かなければならない。

 向こう岸の見えない川の流れの中に、桟橋は突き出すようにあって、見上げるほどの大きな船がつながっていた。三本の帆柱が、真っすぐ天を突くように伸びている。今はまだ、たたまれたままの帆が、風をいっぱいに受けて進む様を想像するだけで、リオンも胸が高鳴る。あるいは、ここまできたのだという感慨であったか。

 リオンの旅は、まだ道半ばである。





 白い帆に風を受けて、船は川面をすべるように進んでいく。

 馬を専用の船室にあずけたリオンは、船縁に立つと目を細める。吹き抜けていく風は頬に心地よくあって、リオンの亜麻色の髪を揺らす。黙っていても目的地まで運んでくれるので、今だけはのんびりとしていられる。

 散歩と称した探検に行くと言ったエルマに、アーニャが同行を申し出て、ふたりは仲良く連れ立っていってしまった。珍しい組み合わせだとリオンが思う傍で、子どもは元気なものじゃ、とレイシアが微笑ましそうにつぶやく。


「子どもは子ども同士で、仲良くしてくれればいいのですよ」


 そう言ったのはもちろんクリフで、アーニャがこれを聞いたなら何と言ったかはわからないが、その代わりにイズヴェルが口を開いた。


「だったら、レイシアどの、こちらは大人同士で、仲良くしないだろうか」

「お断りじゃ」

「ふむ……昼間はまだ子どもの時間か」

「そなた、何を考えておる」

「それはもちろん、レイシアどのと同じことかな?」


 そして、片目を閉じて見せるイズヴェルに、レイシアは鋭い視線を向けると、無言のまま背中を向けて行ってしまう。それでも、機嫌を損ねないイズヴェルに、リオンはあきれて言う。


「あなたは、よく懲りないものだ」

「ん? いやよいやよも好きのうちだよ」


 クリフにならわかるよな、とイズヴェルはクリフに同意を求める。アーニャのことを言っているのだろうことは、リオンにもわかるのでクリフにも理解できたはずだ。だが、イズヴェルを無視すると、クリフは姿の見えないディールはどこかとリオンに問うてきた。


「ディールなら、船室で寝ているはずだ」


 退屈なので寝ている、そう言ったきり、ディールは船室を出ていない。

 リオンの答えに、そうですか、と応じたクリフの言葉が終わるよりも先に、リオンは胸騒ぎと同時に大気がざわつくのを肌で感じた。

 視線を上げ、リオンは虚空の一点を凝視する。


「くる……っ!」


 それはまさに、妖魔の気配だった。

 しかし、甲板上にはまだ何も知らない男女が、幼児まで含めて船旅を楽しんでいる。忍び笑う声にささやきあう声、それらが次の瞬間には悲鳴と怒号に変わる。


「妖魔がくる、全員、逃げろ……っ!」


 叫んでみるが、果たして水の上でどこに逃げろというのか。その前に、状況の理解できない彼らには、リオンの叫び自体が滑稽に聞こえるようだった。誰ひとりとして、動こうとする者はいない。


「無駄だよ、こいつらは本物を見るまで、信じたりはしないよ」


 口調は軽いが、その声音に緊張をはらんでイズヴェルが言う。魔導師であるクリフにも、もちろん妖魔の気配を感じ取ることは可能である。リオンと同じ方角を見上げて、クリフが言う。


「もしかしたら、一昨日の招喚陣に、触発されたのかもしれませんよ」

「触発……?」

「空間自体がゆるくなってしまった、と言えばいいのでしょうかね。とにかく、ひずみができやすくなってしまったのですよ」

「そんなことがあり得るのか?」


 リオンが問えば、クリフは自虐的な笑みを浮かべて小さくうなずいた。


「きますよ、おそらく、妖烏よううです!」


 妖烏、その名が示すように、鳥の姿をした妖魔である。単純に、元から色の黒いカラスに、妖魔の漆黒の肢体が似ているからそう呼ばれるようになっただけだ。実際の妖烏は、カラスがスズメに見えるほど巨大で、その翼から起る風は強烈である。

 翼で起こした風で、人を大地にひれ伏させてから、かぎ爪で固定した後に、くちばしでついばんで人間を食らう。残虐性では妖魔の中でも一、二を争う。

 その妖烏が、今まさに空間を引き裂いて姿を見せようとしていた。船が接岸する予定の岸は、遠くにかすんで見える。もう少し妖魔の出現が遅ければ、乗客を陸に逃がすこともできただろう。リオンが負うべき責任ではないが、どうしても悔やまれる。

 しかし、妖魔の方も待ってはくれない。

 見上げる虚空に小さな黒い点が現れ、それはやがて上下左右へと伸びる。ひび割れた硝子のように、それは縦横に広がる。ただし、硝子のように、空間に入った亀裂からは音がしない。だが、そこで乗客の誰かが異常に気が付いたようで、あれを、とひび割れた空間を指差す。

 そして、次の瞬間、空間にできたひずみから発生する生ぬるい風に乗って、漆黒の翼が空を切って飛翔する。標的をリオンが乗る船と定めたのだろう妖烏が、大きく翼を動かして近付いてくるのが見えた。水面に広がる波紋のように、甲板上が騒然としていく。

 船室へ、誰かが口にしたつぶやきによって、いっせいに人々が動き出す。それには目もくれないで、リオンはイズヴェルに向けて叫ぶ。


「……一二匹だ!」

「はっ、先日の妖狼ようろうよりかは少ないって?」


 もちろん、それがなぐさめになる状況ではない。

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