第八章 襲来 02
まさに、その刹那のできごとだった。夜の闇を微かに揺れせて現れた何者かが、クリフを引き裂かんとした妖狼を、一刀のもとに両断してみせた。妖狼の全身が黄金の光に包まれ、やがて大気に溶け込むようにして消滅する。
さらにもう一匹を光の塊に変えた何者かが、妖狼を包んだ光と同じ色をした、金環の耳飾りを揺らして言う。
「……やっぱり、くるんじゃなかったかな」
「イズヴェル、助かりました、礼を言います」
「わたしからも、礼を言う」
不満そうな顔をするイズヴェルに、クリフがまずは応えて、リオンが付け加える。その間にも、妖狼を斬り伏せていくが、数は一向に減ったようには思えない。
クリフを互いの背中にかばって、妖狼と対峙するリオンとイズヴェルの元にディールが合流して、口元に皮肉とも厭味とも取れる笑みを浮かべて言う。
「イズヴェル、ずいぶんと遅かったではないか」
「主役は遅れて登場するものだよ」
「ほお、臆病風に吹かれて、逃げ出したのかと思っていたのだが」
「今からでも、逃げ出したいけどね!」
それが、イズヴェルの偽らざる本心であるに違いない。妖狼に囲まれれば、イズヴェルでなくとも逃げ出したくなるだろう。
「それで、レイシアはどうしたか」
イズヴェルが身をかわしてよけた妖狼を、薙ぎ払いながらリオンが問えば、イズヴェルは別の一匹を水平に薙いで答える。
「ふたりの娘さんを、送っていったよ」
そうか、とリオンが応じれば、イズヴェルが続けた。
「おれとしては、レイシアどのと行きたかったんだけどね、あんたに何かあったら、レイシアどのが口をきいてくれなくなる」
どんな遣り取りがあったのか察せられたが、言った方は本気でないだろうし、言われた方もそれと承知しているはずだ。それでも、仕方がないからきたのだと言う方が、イズヴェルらしいといえばらしい。襲ってくる妖狼を切り捨てながら、そう思うリオンの背後でクリフが言う。
「リオン、招喚陣によって発生した、空間に亀裂が入った場所がわかりました」
「それは?」
「これから、ふさぎに行きます。一緒にきてください!」
言うが早いか、クリフはすでに走り出している。
「後を頼む」
誰にともなくそう言うと、リオンはクリフの背中を追う。招喚陣の中心にその場所があるのではないか、リオンはそう思っていたが、クリフが向かう先はどうやら違うらしい。
リオンの指摘に、クリフが答える。
「招喚陣の内側であれば、どこに亀裂が入ってもおかしくはないのです」
そして、それは必ずしもひとつであるとは限らないらしいが、この招喚陣であればひとつだけだろう、と笑みもなくクリフはそう言ってから続ける。
「この招喚陣を知っている者は、アシュタールの魔導師でも、限られた者だけです」
「……」
「そして、招喚陣を発動することのできる者は、さらに限られます」
そこまで言って、クリフは一度言葉を切ると、リオンを振り返った。
「リオン、きみは、その何者かの顔を見ませんでしたか?」
「クリフどのには、心当たりがあるのか」
「……そんなわけ、ありません」
クリフは否定したが、おそらく、そうなのだろうとリオンは見当を付ける。だが、リオンの推測通りだとして、限られた者しか知ることのない招喚陣を、さらに限られた者にしか発動することのできない招喚陣を、クリフが知っているのは何故なのか。
果たして、クリフは何者であるのか。
脳裏をよぎったある答えに畏れを抱いて、それを振り払うように、リオンは向かってくる妖狼を両断した。
*
そのすべてを斬り伏せることは、いかなリオンでも不可能である。取り逃がした妖狼は、ディールとイズヴェルに任せることにして、クリフの背中を追ってリオンは走る。途中、目にした衣服をまとったまま白骨と化した骸は、ここをねぐらにしていた夜盗の、なれの果てだろう。
痛ましい光景には、胸をえぐられる思いがしたが、立ち止まる余裕はない。今もこうしている間にも、妖狼は開いたままの空間から、絶え間なく姿を現しているのだ。
「クリフどの、どこまで行く?」
「すぐそこです、ほら!」
走りながらリオンが問えば、息を切らせたクリフが指を差す。そこへ視線を向ければ、大地に黒い染みが見えた。それが空間のひずみであることを証明するかのように、一匹の妖狼が頭を覗かせる。そして、次の瞬間には、全身を現して、深紅の双眸をリオンとクリフに向けると大地を蹴った。
もちろん、リオンの剣が妖狼を一閃する。だが、すぐに別の妖狼が姿を見せる。
「クリフどの……!」
新たな一匹を地面にたたき伏せて、リオンはその名を叫ぶ。
一瞬の自失から立ち直ったのか、クリフが肩を揺らせてリオンを振り返る。
「もう少しだけ、持ちこたえていてください!」
そう言うと、クリフは両膝を折ってその場に座ると、両手を大地に着けた。
呪文を詠唱する声はなかったが、空気が次第に緊張を帯びるのがリオンにも感じ取れた。ただし、それでも妖狼は次から次へと現れては、リオンとクリフを狙って襲いかかる。
どれだけの時間が経過しただろうか。
さすがのリオンも呼吸が乱れ始めたころ、クリフの両の掌から発生していた黄金に輝く淡い光が、夜の闇を照らして昼間の様相を作り出した。集中力だけでなく、魔力と気力も最大限に発揮させたその顔は、畏怖の念を抱くほどだった。
明るく照らし出しながらも、その光は目をすがめたくなるほどまぶしくはない。穏やかで優しく、そして温かい光が闇を静かに飲み込んでいく。
やがて、己の指先を一心に見つめているのだろうクリフの額に浮いた汗が、顎を伝って大地に落ちる。その音さえも聞こえるような静寂が辺りを包み、大気さえも凍て付いたかのような錯覚にリオンは陥る。
一匹の妖狼がリオンの脇を通りすぎたようにも思えたが、定かではない。
「……くっ……」
クリフの低くうめく声がリオンの耳に届くと同時に、辺りを包んでいた黄金の光は消え去り、本来の夜の闇が取り戻される。
「リオン、終わりましたよ……」
その言葉に促されて、リオンは大地に視線を落とす。つい先ほど、それこそ一瞬前までそこにあったはずの、黒い染みは消えていた。妖狼の気配は未だ感じられたが、すでにひずみを抜けた妖狼のものだ。それもディールとイズヴェルで、片付けてしまうだろう。
「何も、ない……」
大地に片膝を付いて、目の前の土をひとにぎりだけすくい取る。昼間の雨で湿りを帯びている以外、何の変哲もない土塊だが、確かにこの場所から妖狼は現れていた。
「魔導が、怖くなりましたか?」
未だ整わない呼吸に、息を弾ませるクリフの声が背後から聞こえた。振り返ることなく、リオンは首だけを横に振ったが、口に出しては何も言わなかった。
「それでも、きみは魔導を覚えるべきだと、ぼくは思いますよ」
「クリフどの?」
「そうでなければ、きっと、聖剣はきみに応えてはくれない……」
リオンが振り返れば、嘲笑を浮かべたクリフがリオンを真っすぐ見返している。真意を測るように、リオンもクリフを見つめ返すその視線の先で、クリフはゆっくりと目蓋を閉じる。細い華奢な身体が、大地に触れようかという間際、リオンの片腕がクリフの体重を受け止めた。
編んだ栗色の髪が、力なく垂れ下がって、クリフの口からは規則正しい呼吸音が聞こえる。とりあえず、安堵の息を吐き出してから、リオンはクリフの身体を両腕に抱えて立ち上がった。
「空間のひずみをふさいだのだ、無理ないことだろう」
しかし、腕に抱えた身体は、リオンが思う以上に軽く感じられた。
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