第五章 魔導師の山小屋 03
きしみを上げて開いた扉から、エルマを両手に抱えて、リオンはエフロフの先導で屋内へと入った。時間の経過に比例して、魔力を消費したことに対する身体のふらつきは感じなくなったが、それでも疲労感は拭えない。腕にかかる少年の重みが、その疲労からのものであるのか、少年の成長の証であるのか判断に迷うところだった。
玄関と呼ぶことさえはばかられるような小屋の出入り口は、そのまま土間になっていた。向かって右側には竈があって、水瓶がふたつ並んでいる。その傍には、ウサギが一羽横たわっているが、それをここまで運んできた男の姿はなく、リオンが厩舎に行っている間に帰っていったようである。
そのウサギを食用とするために、アーニャが捕らえて男に運ばせたことは確かだろう。だが、つり棚には調理に必要な鍋も釜もなければ、包丁も食器の類いもなく、がらんとした空間が口を開けているだけだった。
本来そこにあったものが、並んだ三つの木箱に収められているのだとしたら、アーニャが言う出て行くというのは嘘ではないのだろう。取り残されたように置かれた、椅子が四脚添えられた食卓を挟んで、起立の姿勢で見合うアーニャとクリフだったが、リオンが現れたことでクリフがアーニャに休戦を申し込んだ。
「アーニャ、この議論はまだ続けますか?」
「当然! 出て行きます、はいそうですか、って納得できるわけないさ!」
そう言って食卓を両手でたたくアーニャの手には、もちろん剣はなく、弓と矢筒と一緒に食卓の上に並べられている。興奮に息を乱すアーニャに、クリフは盛大な溜息を吐き出すと、リオンに視線を寄こして言う。
「そういうわけですので、アーニャが納得してくれるまで待っていてくださいね」
目を細めてクリフは笑って見せるが、それに笑顔を返せる余裕はリオンにはない。
「待てと言われればお待ちするが、それでエルマに大事はないだろうか?」
「さあ、まだ生きているのなら、大丈夫なのではありませんか?」
そして、皮肉めいた笑みを浮かべて、クリフは続ける。
「アーニャは自分でここまで案内しておきながら、きみたちのことは、もうどうでもいいようですからね」
「そんなこといつ言ったよ!」
「だって、アーニャはぼくに説明をさせたいのでしょう?」
「わかったよ……」
全身から力を抜くように息を吐き出して、アーニャは椅子に座る。だが、熱意まで喪失したわけではないことを証明するように、アーニャは顔を上げると力強い口調で続けた。
「……けど、あたしは、このままクリフを行かせるつもりはないからね」
「黙って旅立たせてはくれないのですか?」
「将来旦那さまになろうって男を、二度と会えないとわかって、黙って見送る女がどこにいるのさ」
照れも恥じらいもなくアーニャが言えば、イズヴェルが冷やかすように口笛を吹く。それをレイシアが鋭くにらんで、さらにそれを見たディールが忍び笑いをもらす。
「将来の約束などした覚えはないのですけどね」
そう言いながら、リオンの前にまで歩を進めてくるクリフを視線で追うアーニャが言う。
「あたしが、そう決めてるんだ」
その言葉を結果として無視して、クリフはリオンの腕の中で目を閉じるエルマの顔を覗き込む。そして、額に手を当てて難しい表情をする。言葉もなく息を飲むリオンに、クリフは顔を上げると、表情をそのままに、奥に通じるふたつある扉のひとつを示して言う。
「とりあえず、寝台へ……」
「助かるだろうか?」
「できる限りのことはしますよ」
それだけ言うと、クリフは先に立って奥へと向かう。その横に寄りそうにようにしてエフロフが続いて、リオンは後ろから従って部屋に入る。そこにはひとりの年配の女が待っていて、クリフに対して丁寧に頭を下げた。
*
想定した最悪な事態にはならなかった、それとも、そう思わせて油断させるつもりだろうか。部屋に備え付けになっている二台ある寝台の内、布団が敷かれた奥側の寝台をクリフが示せば、リィザが上掛けをめくってやって、そこへ少年の身体が横たわる。
どういういきさつがあって、アーニャが運ぶことになったのか、四本あった剣の一本には金のメダルが付いていた。それが王直属の騎士である証だということは、クリフにもわかる。その所有者が目の前の亜麻色の髪をした騎士であるだろうことは、漂う雰囲気から判断した。
「きみの名を、まだ聞いていませんでしたね?」
「わたしはリオン・ハーン……」
それだけでは足りないと思ったのか、リオンと名乗った騎士は他の者たちの名まで教えてくれた。ひとりがエイドリアの出身であることを除いても、正規の騎士はリオンだけであるようだった。
「それで、エルマは大丈夫だろうか?」
枕元をクリフにゆずって、リオンが不安を隠すことなく言う。足元にはリィザが控え、クリフの横にはエフロフがいる。部屋には寝台の他には何もなく、敷物の類いもないので床の木目までわかる。窓はひとつあるが、カーテンはない。
この何もないに等しい部屋を見て、リオンはどう思っただろうか。クリフが曰く付きの魔導師であることは、リオンも察しているはずだ。そうでないとこんな辺境の地に、魔導師が隠れ住むようにして暮らしている理由がない。
それとも、エルマと呼ぶ少年が心配のあまり、そこまで考えが及んでいないのだろうか。今の段階でクリフに言えるのは、リオンにクリフを捕らえる意思がないということだ。ただし、少年が回復すれば豹変する可能性はあるが、裏を返せば少年が伏せっている間は、リオンには手を出せないということになる。
「……助かると思いますよ」
床に両膝を付いて、改めて少年の顔を覗き込んでクリフは言う。
「毒消しの薬草を飲ませたのでしょう? それがよかったのですよ」
そうはいっても、危険な状態にあることは間違いない。おそらく、このまま放置しておけば、明日の太陽を見る前に少年は息を引き取るだろう。
しかし、それがいかなる形であるにせよ、目の前で誰かが死んでいく様をクリフは見たくない。死ななくてもよかったはずの生命、助けてやれたかもしれない生命、そして死なせてしまった生命、多くの生命が理不尽にも奪われていく光景を目にした。
だから、明日にはクリフ自身を殺してしまう生命であっても、クリフはその生命を助けたいと思う。
「……大地に息づく偉大なる使徒テラよ」
死の淵に立たされた少年の額と胸に、左右それぞれの掌を当てて、クリフは大地母神に仕える神の名を口にする。横に控えるエフロフがたしなめるようにクリフの名を呼んで、背後からはリオンが息を飲む気配がした。リィザが胸の前で指を組んで瞑目するのが見えたが、それは少年のために共に祈ってくれているからではない。
リィザが案じてくれているのがクリフだと、その理由と合わせて知りつつも、クリフは神に慈悲を求める言葉を止めなかった。
「古より続く、血の盟約に従い我にその力の一端を付与されたし……」
クリフが口を閉ざすと、室内に沈黙が舞い降りる。ただし、板一枚の薄い壁の向こうからは、普通に会話する声音が聞こえてくる。クリフがどれだけ素晴らしいかを自慢げに語るアーニャの声に、クリフは苦笑してから魔法を発動させた。
黄金の輝きがクリフの掌から発生して、横たわる少年の全身を包み込んでいく。音もなく光は広がっていくのに、聞こえてくるアーニャの声音を確実に打ち消していく。
「……これで、朝には目を覚ますと思いますよ」
言葉と同時に魔法を収めて、クリフは立ち上がると、呆然と佇むリオンに笑いかけてから部屋を後にする。後ろから付いてくるエフロフの足音を聞きながら、クリフは土間を横切って屋外へと向かった。




