第五章 魔導師の山小屋 01
生きよ、そう望んでくれた人があったからこそ、これまで生きてきたのだと、男は沈む太陽に染まる空を見上げて思う。そこに希望があるわけでもなければ、要望があるわけでもない。ただ死ねないから生きているのだと言えば、今日まで着いてきてくれたリィザとエフロフは何と言うだろうか。
様々な土地を転々と移り住んで、この地に落ち着いて一年がすぎた。帰らずの森と呼ばれる深い森と併存する小さな村に暮らす人々は、自分たちのことをあまり快くは思っていない。それでも、何かあれば男を訪ねてきて、何とかならないだろうかと問うてくるのは、一月ほど前に村を襲った妖魔を退治して見せたからだ。男が魔導師だと知って、村の者たちの男を見る目が変わったのだ。
魔導師である男を利用しようとする小ずるい者は、男がこの村に留まることを望んでいる。その逆に、魔導師であるからこそ、この村に留まることを迷惑だとする者もいる。
背後から近付いてくる足音に、気付かない振りをして、だからこそ潮時だと男は思う。
「……クリフ、荷がまとまった」
名を呼ばれて振り返れば、視線の先に小さな小屋が目に付く。小屋とはいっても、部屋は三つあって厩舎まであるのだから、それなりの大きさがある。それなら、荷物もそれなりにあるのかといえば、大きめの木箱に三つもつめれば充分で、幌を張った荷馬車に丸めた布団と一緒に乗せれば、いつでも出立ができる。
口調の馴れ馴れしさとは裏腹に、礼儀正しく頭を下げるのはエフロフで、年のころなら三〇代後半といったところだろうか。クリフと呼ばれた男が二〇歳くらいと若く見えれば、兄弟にしては歳が離れすぎている。もちろん、両者は兄弟ではなく、その証拠となるか、容貌にも体格にも相似点は見られない。
長く伸ばした栗色の髪を背中に垂らしたクリフに対して、エフロフは癖毛混じりの漆黒の髪を短く整えている。瞳の色もクリフが紫であるのに対して、エフロフは髪と同じ黒で、触れれば折れてしまうのではないかと思えるほど華奢なクリフとは違って、エフロフはいかにも頑丈そうな体躯で背丈もクリフよりか頭ひとつ分高い。
山の木立に囲まれた粗末な小屋に暮らしながら、ふたりともに土臭さは感じられない。上質な生地で仕立てた衣服を身にまとっているわけではないが、清潔で破れも綻びもなく、着古した感じも一切ない。どこからともなく流れてきた割には、小綺麗な格好をしているのも、村人の不信感を誘うのかもしれない。
しかし、それも今夜で終わりになる。
「それでは、荷を運び出しますか」
エフロフを正面から見る時、その右肩が下がっていることに気が付く。それを見る度に、クリフが悲しげな顔をするためか、エフロフはクリフの正面に立つことをしなくなった。今も斜めの方向からクリフを見返して、本当によろしいのかと気遣わしげに問いかけてくる。
それに対して、何故とばかりにクリフが首を傾げてみせれば、エフロフが言う。
「アーニャを待たないのか?」
「待って、それでどうするのです?」
エフロフが言わんとするところを理解して、クリフは故意に作った意地悪な顔をして、エフロフが困惑するのを楽しむ。
「ふふっ……冗談ですよ」
クリフはそう言ってみたが、何が冗談であるのかはわからない。
帰らずの森に寄りそうようにして築かれた小さな村の、森の反対にある山の中腹に小屋を建てた時から、アーニャはずっと変わることなくクリフを気にしてくれている。魔導師だと知られた時も、それであんたの何が変わるのさ、そう言って摘んだばかりの山菜を籠いっぱい差し出してくれた。
そこに見返りを求めていないことは、クリフも承知している。それでいて、何故この小屋にアーニャが通うのか、その理由も承知している。だが、クリフにはアーニャの期待に応えることができない。それもこの地を去ろうとクリフに決断させた、理由のひとつであるかもしれない。
「何も知らない方が、いいことだってありますよ」
「……」
「それに、今日はもうこないでしょう」
いつもであれば、必ず陽のある時間にアーニャは顔を見せる。それが、夜の帳が降り始めても姿を見せないということは、今日は顔を見せる気がないということだろう。
そこまで考えて、クリフは小屋に向けて進めていた足を止めた。クリフの後ろに従っていたエフロフが、どうした、と問うてくるのに、クリフは顎に手をやって答える。
「……初めてだと思ったのです」
「何が?」
「アーニャが通ってくるようになって、顔を見せない日は、今日が初めてではありませんか?」
それでも自分とは関係ない、そう切り捨ててしまうには、アーニャとは誼みを深めてしまったようである。しかも、相手はまだ一五歳になったばかりの、女である。
「森で、何かあったのでは?」
村と境を接しながらも、誰も足を踏み入れたがらない森に、アーニャは好んで出かけていく。森の入り口までしか行かないので、危険な森の獣と遭遇することはないのだと言ってはいたが、そこが森の一部であることに違いない。
森の深くにしか棲まないという獣も、時には迷って村に現れるくらいであるから、アーニャが獣に襲われていないという保証はない。
「クリフ、どうする?」
どうする、とエフロフが問うのは、捜しに行くのかという意味だろう。
「そうですね。これまで、いろいろと差し入れてばかりもらっていますしね、何もしないというのは目覚めが悪いでしょうね」
そう言ってクリフが小さな溜息を吐き出した次の瞬間、エフロフが素早く動いてクリフをその背中にかばうようにして立った。そして、村から小屋に通じる唯一の道がある方角を、エフロフはにらむように見つめる。エフロフから感じるただならぬ雰囲気に、クリフも緊張を強いられて固唾を飲んだ。
脳裏に甦ってくる光景を、頭を振って追い出してからクリフは声を潜めてエフロフの名を呼んだ。
「馬蹄の音が、それも複数聞こえる」
「ここにぼくがいると、悟られたのでしょうか?」
荷はすでにまとまっているとはいっても、荷馬車に積み込むのはこれからだ。荷をあきらめて逃げ出すべきだろうが、唯一の山道をふさがれてしまっている以上、馬も捨てて徒歩で山を下りるしかないだろうか。
そう思うクリフに、エフロフが言う。
「アーニャの声がする……?」
考えたくはないが、それはつまるところ、アーニャが敵に回ったということなのだろうか。何があっても、アーニャだけは変わらないと信じてきた自らのあまさを呪いながら、クリフは口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
馬に乗っているのだとすれば、相手はかなりの高確率で騎士だろう。それも複数人となると、エフロフひとりでは荷が重い。エフロフは確かに騎士の血統に生まれたが、肝心の利き手である右手は、肩よりも上には上がらない。クリフを生かすために、エフロフは己の右手を犠牲にしてくれた。そんなエフロフのためにも、生きろとそれだけを望んでくれた人のためにも、クリフは戦う覚悟を決める。
やがて、馬の蹄の音とそれに混じるアーニャの声が、クリフの耳にも聞こえてくるようなる。陽気に元気に響くアーニャの甲高い声音には、クリフが考えるような悲壮感は一切なく、エフロフの大きな背中から顔を覗かせてクリフは首を傾げた。
「クリフ! 会いにきてやったよ!」
自ら押しかけてきて、恩着せがましい物言いをする。闇の向こうから聞こえてくる声音に、クリフは安堵の息を吐き出す。それを見て、安心するのはまだ早い、とエフロフが緊張を解くことなく言う。
そして、見守る先の闇が揺れて、アーニャが走り寄ってくる。その両手には四本もの剣を抱えており、それにはエフロフも意表を突かれたようで、クリフを振り返っていぶかしげな表情をしてみせた。




