第四章 帰らずの森 03
レイシアに胴を断たれた兎鬼から流れる血が、赤いものであれば、やはり兎鬼は妖魔ではないということになる。だからといって、その脅威が変わるものではなく、音もなく大地を蹴って飛びかかってくる兎鬼の群れを一匹ずつ薙ぎ払っていくしかない。
リオンもディールも馬を下りて、兎鬼を迎え撃つ。
兎鬼の攻撃を受けて馬がいななき、それをエルマがなだめて回るが、エルマも兎鬼に用心しなければならないので、思うに立ち回ることができないようだった。
「リオンさま……!」
兎鬼はエルマに対しても、容赦なく襲いかかってくる。リオンから馬を頼むと言われた手前、エルマはにぎった手綱を放すことなく、右手に持った短剣を振り回している。相手は妖魔ではないが、エルマのつたない剣技では、素早く跳ね回る兎鬼を仕留めることはできないようだった。
そんなエルマを弄ぶように間合いをつめていく兎鬼を、リオンは剣で両断する。
「エルマ、無事か!」
木々が密集して、それでなくとも動きが制限される。それには木の根が大地を這って、足場も悪い。だが、兎鬼はそうした環境を苦にすることなく、木の陰から姿を現し、あるいは樹上から飛びかかってくる。
今も樹上から降ってきた兎鬼を払って、イズヴェルが言う。
「レイシアどの、兎鬼の角は薬にならないのかな?」
「何の薬になるというのじゃ?」
その言い様からして、兎鬼の角は薬効はないのだとリオンは知る。
兎鬼は四人の手にかかって、すでに二〇匹は骸をさらしている。それでも、兎鬼は引き下がることなく、新たな攻撃におよんでくる。大樹の幹に背中をあずけたエルマが、懸命になだめる馬のいななきが聞こえて、剣を振るう音と兎鬼の上げる断末魔に混じって、イズヴェルとレイシアの言い合う声がリオンの耳に届く。会話を交わす余裕があるふたりを横目に見て、それを頼もしく思いながら、リオンは新たな一匹の胴を断つ。
もちろん、ふたりも会話の合間に、もしくは単語の途中で、兎鬼を確実に斬り伏せていくが、飛び交う言葉はこの場に相応しいものではない。
「そうだな、レイシアどの、ほれ薬とか作れないものかね?」
「ほお、そなたにも、好いてほしいと願う女性がおるとは、思ってもみないことじゃ」
「おや、その物言いは、嫉妬してくれていると?」
「そなたに好かれた女性に、同情しておるだけじゃ!」
そう答えて、レイシアが横から跳びかかってきた兎鬼をかわす。その兎鬼をイズヴェルが薙いで、レイシアに笑いかける。余計な真似を、とでも言いたそうにレイシアが横目でイズヴェルをにらんで、にらまれたイズヴェルが小さく肩をすくめる。
そんなイズヴェルに正面から襲ってきた兎鬼を、ディールが切り捨てて言う。
「まだまだ、詰めがあまいな」
「……だったら、こいつらを何とかしてくれないものかね?」
改めて間合いを計りながら、イズヴェルがそれでも笑みを絶やすことなく言う。それを受けて、ディールが兎鬼を右足で蹴飛ばして答える。
「魔導師でもいれば、ことは早いのだがな」
「それは?」
そう応じたのはリオンで、エルマに向けて跳躍のかまえをとった一匹を、剣先で突き刺してディールを振り返る。
「野生の獣が炎を嫌うように、兎鬼はそれがさらに顕著だ」
だからといって、この状況で火を熾している余裕はない。それに対して、魔導師は一瞬で炎を喚び出すことのできる。魔導師の能力にもよるが、招喚された炎は魔導師の制御に従って、どれほど膨れ上がっても他に飛び火することがない。
よって、森の中でも木々や落ち葉に、炎が燃え移ることがない。
しかし、この場にいるのは、騎士の能力を持つ者だけで、魔導師と呼ばれる魔力の高い者はいない。ただし、魔力が低いというだけで、騎士も魔力は保有していれば、精霊に頼らない小さな魔法なら使うことだって不可能ではない。
「……だったら、わたしが炎を作ろう」
その間に二匹の兎鬼を新たに冥府へと旅立たせて、リオンはそう言って続ける。
「魔導師には到底及ばないが、わたしにもそれなりの炎は作れる」
「金のメダルは、伊達じゃないってか」
皮肉とも厭味とも取れる言い方をして、イズヴェルがリオンに視線を向けてくる。それを無視して、リオンはディールに言う。
「ただ、炎を作るのに時間を要する。その間の援護を頼みたい」
「承知した!」
頼もしい声がリオンに応えて、リオンはうなずくと、兎鬼の血に濡れた剣を払うと鞘に収める。そうしてから、両手を胸の前で合わせると目を閉じた。
深呼吸を二度三度と繰り返して、リオンは集中力を高めていく。全身を血液のように巡る魔力を、ただ一点、合わせた掌に集めていく。深く息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。自らの鼓動の音に耳を傾け、それ以外の音を遮断する。兎鬼の気配が消えていき、兎鬼と対峙する三人の動きもリオンの意識から消えていく。
己を自然の一部とすることで、リオンは大気の中に弾ける気泡の音を聞くと同時に、気泡を弾けさせる太陽の熱を感じ取る。かつて教えられた文言を唱えて、降り注ぐ太陽の光を閉ざした視界の中に探す。その光と一緒に感じた熱を、合わせた掌の中に具現化させる。
それに要した時間は、リオンにとって永遠にも等しいが、実際にはディールが二匹の兎鬼を相手にした間のことでしかない。
合わせた両手の中に収めることのできない熱を感じて、リオンはその熱に両手を左右に押されるようにして開いていく。そこには小さな炎が紅く揺らめいていて、リオンが両手を広げるのに合わせて小さな炎も大きく成長していく。
「……くっ……」
リオンの口から短いうめきがもれ、男にしておくには惜しまれる秀麗な顔を苦痛にゆがめる。騎士が複数でもってようやく一匹の妖熊を倒すのを、リオンは己の剣のみで可能にする。そんなリオンであっても作り出した炎を維持するには魔力が低く、一瞬でも気を抜けば炎は大気に吹き消されそうになる。
いやな汗が背中を伝って、膝から崩れそうになるのを懸命にこらえて、リオンは炎を維持する。大きさでいえば、人の頭ほどくらいの炎だろうか。それが小さいのか大きいのかリオンにはわからないが、包むようにしていたその炎を、両手に乗せるようにして前へと突き出す。
イズヴェルが口笛を吹くのが聞こえて、ディールがリオンの名を呼ぶ声が聞こえてきた。
果たして、兎鬼はこんな稚拙な炎に、恐れおののいてくれるだろうか。そのリオンの疑問に答えをくれたのは、レイシアのつぶやきだった。
「兎鬼の気配が、消えたようじゃ……」
それに安堵した瞬間、リオンの中で張りつめていた糸の切れる音がして、リオンの視界が黒く染まる。その結果、足は体重を支えることを拒否して、リオンの身体が前方へと傾ぐ。大地との不本意な抱擁を強いられる前に、リオンの身体を支えてくれた腕があって、リオンはうっすらと開けた目にディールの男らしい精悍な容貌を映した。
大丈夫かと短く問うてくる声に、大丈夫だと答えて、リオンは震える足に力を入れるとディールの胸を押して、自身の足で大地に立つ。そして、一度大きく息を吸ってから、改めて周囲に視線を巡らせる。兎鬼に恐れを成したのか、馬の姿が見えなかったが、それほど遠くへ行ってはいないだろうから、呼べば戻ってくるだろう。
それよりも、リオンには気になることがあった。
「エルマは……?」
森は常の穏やかさを取り戻したようで、鳥がさえずる声と、枝を渡る小動物の気配がして、風が枝葉を揺する音が聞こえる。それらを背景にして、ディールが案じ顔でリオンを見返して、レイシアが近付いてくるのが見えて、そして見せ場を全部リオンに奪われたためか、憮然と佇むイズヴェルが見える。
しかし、もうひとつ、リオンに無条件の尊敬と憧憬を向けてくれるエルマの姿は見えなかった。




