第四章 帰らずの森 01
幾重にも重なった緑が濃い影を作り出し、大樹の枝のすき間から、弱められた夏の陽が帯のように射し込んでくる。シダやコケは大樹の根元にまとわり付き、大樹に巻き付いたツタは陽の光を求めるように上へ上へと伸びている。そうした植物の中には、毒を保有するものや吐き出すものもある。
大地に横たわる、寿命の尽きたのだろう大樹には、新たに芽吹いた小さな双葉が並んでいる。競争に勝ったものだけが、大樹を養分として成長することになるのだろう。
見渡す限りに広がる緑が、濃淡交えて深い森を形成している。
堆積した落ち葉は腐って、森を支える土壌を維持する役目を担うのだろうが、独特の臭気を吐き出した森特有の空気を作り出していた。入植のされない森には、獣が踏んだ跡しかなく、リオンは道なき道を馬の背に揺られて進んでいく。時折、ぽっかりと穴が空いたように現れる空間から、天を見上げるのは太陽の位置から方向を確かめるためだ。
見上げたはるか上空を、一羽の鳥が翼を広げて旋回する姿が見える。渡る風にざわつく森のあちらこちらからは、幾種類もの鳥の鳴く声が聞こえてくる。目の前を横切っていく小動物がいるかと思えば、木を登って枝を渡っていく小動物の姿も見えた。
一見しただけでは、のどかな森の風景にも思えるが、いつどこから森の獣たちが、牙をむいて襲ってくるか知れない。帰らずの森、そう呼ばれて恐れられる理由は、獣たちのどう猛さにある。
「はぁ……何でおれが、あんたの後ろなんだよ」
緊張感もなく不満をこぼしたその声は、リオンの背後から聞こえてくる。クロンの町を出て二日、森に足を踏み入れて半日の間、これと同じ台詞をすでに数え切れないだけリオンは耳にしているので、今さら答える言葉は持ち合わせない。
背後で繰り返される溜息を完璧に無視して、リオンは馬を並べてとなりを進むレイシア・オレットに視線を向ける。
レイシア・オレット、「虹の橋」亭でリオンに声をかけてきた女の名で、神殿に仕える女神官だということだった。爵位を持てない下級貴族の家に、騎士としての能力を備えて生まれた。そして、その容貌も合わさった結果、レイシアの父親は娘を子爵家の当主に嫁がせようとした。
「子爵家には騎士の血統が入ることになり、実家は子爵家からの援助を受けることができるというわけじゃ」
互いの利害が一致した、典型的な政略結婚であったらしいが、当時まだ一五歳になったばかりのレイシアは、冗談ではないとその婚姻話を一蹴して、神の住処に逃げ込んだ。今にして思えば短慮にすぎた、とは本人の語るところで、レイシアは美貌に似合わぬ深い溜息を吐き出したのだった。
聞くと見るとでは大違いの聖職者の暮らしに、それまで自由奔放に生きてきたレイシアは馴染むことができなかったのだ、と自嘲もなく語って続けた言葉がリオンの脳裏に甦る。
「還俗するのも癪でな、それで調材司に志願したのじゃ」
市井あって、神殿に求められる最たるものは、祈祷でも救世でもなければ免罪でもなく、病気や怪我の治癒だった。もちろん、病も傷も軽いものであれば、治癒の魔法で完治させることができる。人が持つ「治そうとする力」を高めてやるのが治癒の魔法で、それには当然のように限界がある。
だったらどうするか、その答えは明快で、薬剤を用いる。
ただし、薬を作るためには「材料」が必要で、調材司とは必要な「材料」を「調達」することを仕事にする神官のことを指す。旅費はすべて神殿がまかなってくれるが、報酬は一切支払われないというのは建前で、経費を水増しすることで差額を懐に収めているようだった。
「わたくしは、さような真似はしておらぬ」
そう言った時のレイシアの、射るような眼差しに嘘があるとはリオンには思えないが、レイシアの言葉にもったいないと応じたイズヴェルであれば、水増しすることに罪の意識は覚えないのだろうことは、リオンでなくとも確信したところだ。
そのイズヴェルがリオンの背後から、声を潜めて話しかけてくる。
「さっきから、レイシアどのを見つめているようだけど、抜け駆けはなしだよ」
「……あなたと一緒にしないでくれ」
レイシアが帰らずの森に向かうと知ると、イズヴェルは簡単に掌を返して、リオンに同道すると宣言した。
「おれの中の義侠心が、美しいご婦人をお守りせよとささやくのだ」
そんな言葉を口にして、イズヴェルは片手を胸に当てると、レイシアに向けて片目を閉じて見せた。だが、レイシアがよろしく頼むと片手を差し出したのはリオンで、リオンがその手をにぎり返せば、イズヴェルからは恨みがましい視線が投げられた。
そして、これまでを徒歩で旅をしてきたというイズヴェルに馬はなく、話し合う余地もなくイズヴェルはリオンの鞍の後ろと決定して、今もリオンの後ろで軽口をたたく。
「あの美貌だ、男なら誰だってその気になるよ」
だから、恥ずかしがらなくてもいい、そう言ってうなずくイズヴェルにリオンが反論するよりも先に、先頭を行くディールが口を開く。ちなみに、ディールとリオンの間を、エルマが緊張に顔を強張らせて馬を進めている。
「レイシアどの、この森に、本当に一角獣がいるのか?」
一角獣の額にある角は、熱病に効くとされている。だが、その姿を見た者は少なく、幻の獣だということで「幻獣」と呼ばれている。
かつての乱獲で数を減らしたのが目撃されない原因ではないかとする説もあるが、昔から貴重種であったことは間違いがない。その姿は馬に似て、純白の毛並みに白銀のたてがみと尻尾を有し、額の角は青白い光に包まれている、それが一角獣の特徴である。
「さて、確かな証拠は何もないのじゃが、人目に触れぬというのは、人の目の届かぬところにおるからではなかろうかと思うただけじゃ」
レイシアの声音が涼やかに響いて、次いでディールの野太い声音がそれに応じる。
「たったそれだけで、この森に足を踏み入れるつもりだったのか?」
「ひとりであれば、こようとは思わぬ」
そうだろうな、とディールが返すことで、さらにふたりの会話は進んでいくことになるのだが、それをリオンの後ろで聞くイズヴェルが不満をもらす。
「なあ、リオン、おれには素っ気ない返事しかくれないのに、何だってディールが相手だとレイシアどのは饒舌になるのかね」
「……ディールには下心がないからだろう?」
「心なんて目には見えないものを、どうやって見分けたりするわけ?」
自身には下心がないことを否定することなくイズヴェルはそう言って、微かに首を傾げる。金環の耳飾りが釣られるように揺れて、緑のすき間から射し込んだ夏の陽射しを反射した。
「その者の常日頃の言動から、目に見えずとも察することはできる」
「そんなもん、幾らでも偽ることができるよ」
リオンの答えにイズヴェルが反発して、リオンは溜息すると言う。
「だったら、イズヴェルも少しは言動を改めてはどうか」
「おれは、自分に対しては常に正直でありたいと思っているんでね」
そう言ってイズヴェルは不敵ともとれる笑みを見せて、ディールと会話しているレイシアを呼んだ。それで振り返ったレイシアがその蛾眉を寄せるのは、ここにいたるまでのレイシアに対するイズヴェルの言動に原因があるのだとしても、イズヴェルは一向に気にした風もなく話しかける。
「レイシアどの、お疲れではないか?」
「疲れてはおらぬ」
「いやいや、あまり無理はなさらぬがよかろうと思うよ。手綱をこのおれにあずけて、レイシアどのはおれの背中で休まれるがよろしかろう」
「そなたの背中に身をあずけるくらいならば、そこらの大樹でも同じことじゃ」
「またまた、照れておいでか」
「誰がじゃ!」
声を荒げるレイシアに、イズヴェルは涼しげな顔をして、片手をひらひらと振ってみせる。それを目にして、リオンは休憩しないかと持ちかけた。
太陽は、すでに中天をすぎている。




