第三章 新たな出会い 03
片手をひらひらと振りながら、イズヴェルがリオンの脇を通り抜けていく。そんなイズヴェルに手を伸ばして捕まえることは易いが、イズヴェルを捕まえて警吏に突き出したところで、イズヴェル自身が言ったように無罪放免になるだけだろう。
もちろん、金のメダルを所有するリオンの主張が無視されることはないだろうし、リオンさえその気になればイズヴェルを掏摸の罪で服役させることだってできなくはない。だが、それは権威に頼ったやり方で、リオンの本意とするところではない。
「で、彼は何者なんだ?」
イズヴェルの背中を憮然と見送るリオンに、ディールがそう言って、イズヴェルが残した酒を飲むと続ける。
「見たところ、エイドリア王国出身の騎士のようだが?」
その言葉にリオンが無言でうなずけば、そのとなりでエルマが声を上げる。
「さっきの人も、騎士なんですか?」
「騎士の血統に生まれたというだけで、騎士とは呼べない」
リオンが言えば、ディールが苦笑して言う。
「エイドリア王国の者なら、祖国を滅ぼしたリアンデル王国は、快く思っていないのだろう」
「だからといって……」
「リオンどのは、からかわれただけではないのか?」
そうなのだろうか、ディールの言葉にリオンは沈思する。掏摸ではないとした主張が正しければ、イズヴェルの手が懐に入ったのもリオンの思い違いということになる。他者には言えない王命に、リオンにも緊張はある。その緊張が、リオンにイズヴェルを疑わせただけであるかもしれない。
しかし、からかわれたのだとしたら、それはそれでリオンとしては面白くない。そうはいっても、イズヴェルとは二度と会うことはないだろう、この時のリオンはそう思った。
*
山中では湯を使うことはもちろん、寝台に横になることも叶わなかった。大地の上に直接横になって眠る経験は、リオンにとって今回が初めてではなかったが、慣れないことであるに違いはない。湯に浸かって汗と一緒に疲れを洗い流したリオンは、二階に取った部屋に入ると大きく息を吐き出してから、小さな窓を開けて風を呼び込んだ。
もれ聞こえる程度であった階下の喧噪が大きくなって、通りを歩く人々の笑い声も近くなる。
眠ることだけを目的とした部屋は広くなく、二台の寝台が部屋のほとんどを占めて、窓際に置かれた小さな円卓と、それに添えられた二脚の椅子で部屋はいっぱいだった。その椅子には座らずに、リオンは窓枠に腰を下ろして、夜の闇を渡る太くなり始めた月を見上げた。
どれだけそうしていたか、背後からエルマに声をかけられることで、リオンはわれに返る。
「リオンさま、まだお休みにならないのですか?」
欠伸をこらえるようなエルマの声に隣室の窓を見れば、ディールはですでに休んでいるようで、窓に明かりは見えなかった。
「そうだな、明日も早いことだし、そろそろ休むことにしよう」
寝台の端に座ったエルマにリオンがそう言って笑いかければ、少年はどこか安心したような顔をして、はいと応じた。
エルマはリオンとは違って、山中で夜を明かした経験はないだろうから、リオン以上に疲れていたのだろう。リオンが寝台に向き直ったのを確かめると、エルマはすぐに横になると布団を被った。その様を微笑ましく見やって、リオンも身体を横たえようとした時、扉をたたく音が聞こえた。
こんな時間に何事だろうか、かけられた声はディールのものではなく、この夜初めて耳にしたばかりの亭主のものであることが、リオンの警戒心を強めた。
「リオンさま……?」
横たえたばかりの身体を起こして、エルマが不安そうにリオンを呼ぶ。エルマが扉側に置かれた寝台にいるからというわけではなく、亭主の声に応じようとエルマが寝台を下りる。それを制してリオンが自ら扉を開ければ、申し訳なさそうに身体を小さくさせる亭主の背後には、緊張した面持ちでふたりの騎士が立っている。
廊下に点された常夜灯の明かりを受けた騎士のひとりが、亭主を押しのけるようにして前に進み出ると、騎士はリオンに向けて軽く頭を下げてから口を開いた。
「夜分にお騒がせして申し訳ありません。自分はロベル・ジールという者で、ここクロンで警吏をしております」
おそらくそうではないかと当たりは付けていたが、リオンには警吏の世話にならなければならない理由など思い至らない。ただし、男の態度は慇懃にすぎるほどであったし、どう見てもリオンを捕らえにきたようには見えない。
男の真意を測りかねて、リオンが目を細めれば、ロベル・ジールと名乗った警吏の騎士はふたたび頭を下げると続けた。
「恐れ入りますが、リオン・ハーン卿でいらっしゃいますか?」
否定する必要もないだろうと、リオンがうなずいてみせれば、ひとつうなずき返してからロベルは意外な人物の名を口にする。
「リオン卿には、イズヴェル・シューツなる人物をご存じであられますか?」
知らないと言えば、それは完全な嘘になっただろう。だが、ロベルが求めている意味で「知っている」かと問われれば、リオンの答えは「否」となる。
「……彼が何かしたのですか?」
ロベルの質問には直接答えずに、リオンが逆に問い返せば、ロベルは困ったように眉根を寄せて答えた。
「同じ宿の客から金銭を盗んだと、訴えがありました」
「……!」
「実際に大金を所持しておりましたし、エイドリア領の者が、この町にいること自体が怪しいのですが、その者は金のメダルを所有しているというリオン卿の従者だと主張していますので、念のために確認をしに窺った次第です」
旧エイドリア王国の者であるから怪しい、というロベルの意見には、リオンは同意しかねた。だから、自分がイズヴェルから利用されているだけだと理解しながらも、イズヴェルは間違いなく自分の従者だとリオンは断言してみせた。
金のメダルをリオンが所持しているのは、剣の柄に下げているのを、イズヴェルは目にしたのだろう。
「彼には町の様子を見てきてほしくて、こことは違う宿に泊まるようわたしが指示した」
もちろん、そんな指示などしたこともないが、イズヴェルを従者だと断言した以上、宿が別であることに対するそれらしい理由が必要となるだろう。
リオンの言葉に、ロベルがもうひとりの騎士と顔を見合わせる。
イズヴェルに対する嫌疑が揺らぎ始めたことを見て取って、リオンは言葉を続けた。
「わたしの従者が、盗みを働くはずがない」
掏摸は芸術だが盗みは下種だ、とイズヴェルは言っていた。自らそう言い切ったことを、イズヴェルが行うようには思えなかった。
リオンが真っすぐロベルを見返していれば、そのロベルがリオンに対して、身分の証を求めてくる。それを受けて、リオンは背後でずっと様子を窺っていたエルマを振り返ると、自身の剣を持ってくるよう指示する。
「確かに……」
エルマが両手で捧げ持つようにして持ってきた剣を、リオンは片手で受け取るとロベルに向けて突き出す。常夜灯に照らされて鋭利に閃くメダルに、ロベルは表情を硬くさせた。
金のメダルを目にするのは、ロベルにとってこれがおそらく初めてであるのだろう。その真贋を疑うのであれば、金のメダルよりもさらに確かな、国王カエサル直筆の勅書をリオンは携えているが、それまでも提示する必要はないだろう。
「これで、彼への疑いは晴れただろうか?」
リオンが問えば、ロベルは居住まいを正して答えた。
「はい、早速解き放ちます」
「だったら、わたしが迎えに行こう」
そう言ったのは、イズヴェルを逃がさないために他ならなかった。




