08.しかし呪われている
まるで柱のような脚に、岩の塊にしか見えない胴体。
その背からは様々な色合いの宝石が、巨大な獣の牙のように鋭く突き出し、圧倒的な存在感を誇る両の鋏は、無数のナイフを並べて作ったノコギリを思わせる。
「…………」
多分、鉱石蟹の大量発生の原因はアレだ。
ミチアの頭のどこか冷静な部分が、そう判断する。だけど今さら、それが分かったところでどうしようもない。
鉱石蟹の攻撃性は、身体の大きさに比例する。
ならば、人間を容易く踏み潰せてしまえるほどのアレは、いったいどれだけ凶暴だろうか。
(に、逃げなきゃ――!)
どこに、と自問してくる自分を黙らせ、ミチアは無理矢理に足を動かした。
扉からは離れてしまうが、とにかくまずアレと距離を取らなければ、何が起こるかわからない。
だから、巨大な鉱石蟹――鉱山蟹に背を向け、ミチアは全力で駆け出した。
直後、ズゥン、ズゥンと、後ろから聞こえてくる足音。
懸命に足を動かしながらも、ミチアがちらりと振り向けば、鉱山蟹はその図体に見合った歩みで、ゆっくりとこちらへ前進してきていた。
(……よし。足は遅いみたい。良かった)
だけど、安心してはいられない。
向こうは明らかにこちらを狙ってきているし、追い付かれないようにしながらも、ここから脱出する方法も探さなくちゃならない。いつまでも逃げ続けられるとは、限らないのだから。
と、今度こそ油断なく考えられたと思った瞬間だった。
――ブブブブブブブクブクブクブク!
鉱山蟹が、その口を細かく震わせたかと思うと、そこから勢いよく泡の波を放ってきた。
「あ、うそ、そ、んな――!」
泡の直撃を受け、その場に倒れるミチア。
だが決して、水圧に負けたわけではない。いくら勢いがあったとはいえ、所詮は吹けば飛ぶほどの軽い泡だ。
しかし、その性質が問題だった。
(身体、が……動かない……)
全身が強い痙攣を起こし、まるで自由がきかない。
麻痺毒を含む泡だったんだ――と、唯一動かせる頭で理解するも、もう全てが遅かった。
ミチアの『奇跡』は、致死性の高いものほど強く作用する。だから怪我や出血は、あっという間に治る。実際に五年前、馬車の事故に巻き込まれたときも、その傷はみるみるうちに消えていった。
だがその反面、直接的に命にかかわらないようなものには、その効果は緩やかなものとなる。風邪などの病気には普通にかかるし、貧血で倒れたことも少なくない。
もちろん、それでも回復速度は人より圧倒的に早い。
だが、ズゥン、ズゥンと着実に近付いてくる足音が、ここに到達するまでに間に合うほど、授かった『奇跡』は万能ではなかった。
「…………!」
フッと差した影は、巨大な鋏のもの。
それが器用にミチアの右腕だけを挟み込むと、まばたきさえ許されない瞳の前で、小枝を切り落とすかの如く、その凶悪な刃を閉じた。
「――――――――っ!」
声にならない悲鳴が響く。もし口が動かせたなら、泣き叫んだだろう。
だけどそんな痛みも、一瞬だ。
切り落とされた腕は光の粒となって霧散し、それが見えたときには、ミチアの姿はあるべきものに戻っていた。
――ブブブ?
感情の見えない目でありながらも、そこには鉱山蟹の困惑があった。
もちろん、それで怯んで、あるいは興味を失って、ここから去ってくれたなら、ミチアにとってこれ以上嬉しいことはなかった。
だが現実は、この『奇跡』のように非情だ。
「――――――――ぁっ!」
次は、太もも。一つの鋏で両方同時に挟み込まれると、まるで作業のごとく無機質に切断された。
今度は少しだけ、声が漏れた。
おそらく、腕を一本失った分だけ、毒が和らいだのだろう。
だが今は、そんな回復力すら恨めしい。全てを元に戻してしまうせいで、痛覚もまた、元に戻ってしまうのだ。
だから痛みはいつも新鮮で、そして永遠に続く。
死なないのだ。
死ねないのだ。
「――た、……て……」
『奇跡』によって修復され、かろうじて動くようになった両足を使って、重たい身体を後ろへ後ろへと押し進める。
幸い、鉱山蟹は鋏に引っかかった修道服の裾を眺め、再び困惑するような動作を取っている。逃げるなら、今だ――。
――だけど、逃げてどうするの?
――どうせ、逃げきれないよ?
――もしかして、死にたくないの?
――どうせ、死ねないのに?
――というか、死にたかったんじゃないの?
――ねえ?
――ねえ? ねえ!?
分からない。
分からない分からない。
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない――。
私は、何がしたいか分からない。
だって、何がしたいかなんて言ったことがないもの。
死ねない自分を押し殺して、教会のために――みんなのために生きてきた。
それが、私のやらなきゃならないことだから。
不死の『奇跡』を授かった私の義務だから。
だけど、もし。
もし一つだけ、言っていいのなら。
神様以外に祈っていいのなら――
「――助けて、カイさん」
「当たり前だ! そのために召喚されてきてんだからな!」
と。
そんな怒声にも似た言葉と共に、巨大な扉が吹き飛び、それは鉱山蟹を巻き込んで壁に衝突した。
「どうせ、この世界も救わなきゃならねぇんだからな。全部ついでに救ってやるよ」
空間いっぱいに響き渡る轟音。巻き上がる土煙。
扉があった場所から現れたのは、まさしく勇者の姿だった。