01.勇者召喚(再)
マティチカラ王国の西方にある由緒正しき教会。
規模こそ小さいものの、しっかりと管理・清掃の行き届いたその中で、国王をはじめとした国の要職を担う者たちが肩を並べていた。
ずらりと揃うは、酸いも甘いも噛み分けてきたであろう顔ばかり。
だが今、そこに威厳や余裕というものは見えず、不安や緊張といったものが浮かび上がっている。
「それでは、儀式を始めさせていただきます」
面々に向かい、そう挨拶をしたのは教会の主だ。祭事にのみ着用が許されている衣を纏い、その手には古ぼけた本と杖。
そして彼は、国王たちに背を向けると、本を開き、そこに並ぶ文字を詠唱し始めた。
「ル・ベッシ・ベクッチ・アンルモ・イ・ウリュ……」
はるか昔に途絶えた言葉。
それに反応して彼の前、教会の床に描かれた魔法陣が幻想的に輝き、その光は詠唱と共に増していく。
国王たちが、ごくりと息を呑んだ。世界の命運は、今この瞬間にかかっている。
古代魔法『勇者召喚の儀』――かつて世界が闇に覆い尽されそうになったとき、この教会のシスターがこの魔法を用い、異世界の勇者を召喚し、共に世界を救ったのだ。
そして今、語り継がれてきた伝説と同じことが、繰り返されようとしている。
故に、詠唱が終わり、魔法陣が全てを包むほど光り輝いたとき、その場にいる誰もがそこに希望を見た。
「…………」
「…………」
光が消え、音も失われた教会内。
様々な感情が入り乱れ、誰一人として声を発せないその中で、魔法陣の上に立っていたのは一人の男だった。
黒の瞳に黒の髪。歳は、二十代後半といったところだろうか。上下揃いの珍妙な衣装に身を包み、中には襟付きの白いシャツ、首からは何やら細長い布を垂らしている。
「ここは……」
「よ、よくぞ! よくぞお出でくださいました、異世界の勇者様! ここはマティチカラ王国。私は国王のクレン・ティシタモン・マティ――」
「た、大変です!」
国王の名乗りは、そんな声によって遮られた。
声の主は、教会の扉を乱暴に開け放ち、中に飛び込んできた騎士。そんな彼に、国王の側近の一人が「無礼だぞ、貴様!」と怒りを露わにし、他の者たちも続々と騎士を叱責する言葉を並べる。
だが、そんな言葉など聞こえていないかのように、騎士は青ざめた表情で口早に続けた。
「モンスターが! ど、ドラゴンが迫ってきています!」
直後、爆発にも似た衝撃音が轟いた。
あまりに一瞬の出来事に、国王たちは何が起きたのか分からない。ただ理解できるのは、魔法陣の向こう側――祭壇と聖母像が建物ごと削り取られ、瓦礫と化したことだけだ。
「何やらコソコソと動いていると思えば、やはり勇者を召喚しておったか」
そう語るのは、文字通り半壊した教会内を、蛇のような長い首で見下ろす巨大なドラゴン。
返り血で黒ずんだ鎧のごとき鱗で全身が覆われ、その爪や牙は、鉄さえも容易く引き裂けるほど大きく鋭い。現に今、その前脚の一薙ぎで、一つの建物が半分失われたのだ。
「我が名は七邪竜が一角、黒焔竜ダガヤツヴァ。先の聖戦では不覚を取り、魔王様と共に封印されたが、今回はそうはいかんぞ。何故なら今ここで、我が直々に、貴様らの希望を摘み取ってやるからの」
――さしもの勇者も、召喚されたばかりでは手も足も出まい!
邪悪な表情でそう笑うダガヤツヴァに、国王たちはもちろん、周りの騎士たちも絶望に身体が固まった。
七邪竜と言えば、伝説にもその名が刻まれる魔王直属の配下だ。
無論、その脅威を直接知る者は今の時代には一人もいないが、そんなのは戦わずとも分かる。
圧倒的な存在感。普通のドラゴンでさえ、一頭を相手するのに騎士が数十人がかりだというのに、その頂点がどれほどの力を有しているかなど、考えたくもない。
そして、そんな存在が今、この場にいるという事実。
かつて召喚された勇者は、仲間を集め、共に旅をし、その中で選ばれし者としての強さを目覚めさせ、ついには魔王を封印するに至ったという。
つまりダガヤツヴァの言う通り、今この時点での勇者は、一般人と大差ないのである。下手すれば、周りの騎士たちよりも劣るかもしれない。
それを理解しているから、誰も動くことができない。
一瞬見えた希望の光が、絶望の闇に落ちていくのを、ただ黙って見ているしかないのだ。
「ちょっと、その槍貸して」
しかし、そんな中で唯一、何事もないかのように動く者がいた。
もちろん他の誰でもない、勇者として召喚された人間だ。
彼はそう言って、近くの騎士に歩み寄り、その手に持つ槍を借り受けた。
いや、騎士としては『貸した』という意識はないのかもしれない。ただ言われるままに、あるいは、言われたことが理解できないままに、槍を手放したに過ぎない。
だから勇者が槍を手に、ダガヤツヴァと向かい合ったことも、どこか現実味のない光景として彼の瞳には映っていた。
「カカ……カカカカカ、カーカッカッカ! さすがは勇者様じゃ! たとえ死に戦じゃろうと、戦意を失わぬとは見事! その姿に敬意を表し、苦しまぬよう一瞬で灰にしてやろうぞ!」
実に楽しそうな高笑いを見せたあと、牙が並ぶその口をガバッと開いたダガヤツヴァ。
その喉の奥からは、赤と黒が入り混じる炎が見える。しかし、熱どころか寒気すら感じるのは、それが魔法の炎だからだろう。
竜の咆哮だ――というのは、モンスターとの戦いを眺めたことすらない国王でも分かったこと。
だが分かったところで、もうどうしようもない。
肌で感じ取れるほどの膨大な魔力量は、この教会はおろか、この辺り一帯の土地を焼き尽くすことさえ容易いに違いない。
自身の終わりと、世界の終わり。
そんな言葉が全員の頭に浮かび、恐怖のあまり瞑ることすら叶わない目は、槍を逆手に持ち替える勇者の姿を見た。
投擲のフォームだ。
と、かろうじて理解できた次の瞬間、軽やかなステップから放たれた槍は、光の矢となっていた。
「無明の煉黒え――
今まさに竜の咆哮を吐き出そうとしていたダガヤツヴァの頭部が、針で突かれた泡のように弾け飛び、黒い血飛沫が宙を舞う。
インクの雨のようなそれは、パラパラと音を立てて大地を濡らし、そのあとに続くは、余韻のような静寂。
そして少し遅れて、支えるべきものを失った首が重力に負け、地響きを起こした。
「…………」
ズズンと地面が揺れる中、目の前の光景は、またも全員の理解を超えていた。
何が起きたのか、まったく分からない。
だが、何かが起きたのだけは分かる。そして、それを誰が起こしたのかも。
そんな視線が静かに注がれる中心。
その男は空気を吸い込めるだけ吸い込むと、それで天を貫こうとするかのごとく、腹の底からの雄叫びを上げた。
「――ま・た・か・よぉぉぉぉぉぉおおおお!!!」