序章「始まりのいつかの交通事故」
いつからだっただろうか。何もかもが満たされなくなってしまったのは。人間、未知に対しては誰しも様々な感情を抱く。恐怖、期待、何でもいい。俺、岬 彼方にもそれくらいの感受性は確かにある。ただ、問題はその後だ。未知が既知に変わった瞬間、冷める。飽きる。何を見ても、知っても、「ああ、こんなものか」と。それから先が何もない。
高校生三年生になった今もそれは変わらない。それどころか、孤立している。それもそうだろう。何事も淡々としている為か、周りから見てもさぞつまらない人間に見えることだろう。周りが感動感激するような事が起きても無表情で立ち尽くす姿は滑稽だ。影が薄くなり、周りから避けられるようになるにはそう時間はかからない。
満たされない日々。今死んでも後悔のないくだらない人生。これからも変わらない生き地獄。それでも何処かでこの狂った現実に期待している。いつか、この満たされない世界が、満たしてくれる事を。だから、早く。少しでも早く、この満たされない時を加速させてくれ。相対性理論すらも振り切って。それがこの世界に生きる俺の細やかな願い、であった。
が、それも叶う事はなくなった。誰よりも早く学校を出たある日の事。それがいつだったのかもう覚えていないが、ドラマや映画で何度も見た光景だ。道路に転がるボール。それがサッカーボールだとかバスケットボールだとかはどうでもいい。次に来る展開は俺じゃあなくても予想が出来る。加速する車両、飛び出して来る子供。何もかもに飽いている俺だったから動くのは早かった。子供よりも若干早く道路に飛び出して、ボールを子供の方に蹴飛ばす。車上に子供が飛び出す前にボールが子供の方へ戻っていく。受け取った子供の御礼を掻き消すブレーキ音、そして強い衝撃。宙を浮いた俺が最後に見たのは、涙を溜めてこちらに手を伸ばす子供の姿だった。この頃は素直に泣けたのかな、とか、俺なんか他人に涙を流せるなんて羨ましいとか、なんかくだらない事を考えているうちに視界が暗くなって。
「次の俺は満たされてると良いなあ」
なんて、叶う訳のない願いを呟いて。俺の意識は消滅した。
それからどれくらい時間がたったのかは解らない。次に眼が覚めると、夜空が見えた。しかし、それは見覚えのない景色であった。ただの夜空ならば違いなんて解らない。けれど、その夜空に届きそうなくらい天高く伸びるビル群の摩天楼。何処かの国の写真とかで見たかも知れない。だとしても、俺がいた場所にはない建物。事故にあった事は確かに覚えていた。だからこそ、眼が覚めて、もし生きていたのならそれは病院でなければならないはずなのだ。寝転んだまま考えを巡らせていると、
「酔っ払い?」
一人の女性がこちらを覗き込み、おかしなものを見ているような表情で呟いた。よく見なくとも歩道のど真ん中だ。俺は慌てて起き上がり、「ここは何処ですか」と女性に問い掛けた。腰まで伸びる長い黒髪に、 胸元が大きく開いた黒いドレス。キャバ嬢にしては少し清楚に見える。整った顔立ちにモデルのようなスラッとした体型。普通の男ならば間違いなく視界を奪われることだろう。
「ああ、また一人迷い込んでしまったのね。ここは閉鎖異空都市、轆轤市よ。ご愁傷様、少年君」
「閉鎖異空都市、だって?」
この時、俺はまだ知らなかった。
これまで満たされなかった世界が、まだマシだったという事を。
この轆轤市が恐ろしい都市だという事を。