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店を開けてからはお客は押し寄せるほどではなかったが、途切れることなくやってきた。だいたいどの客も声をかければ肩を震わせ、お会計を済ませて花を渡せば逃げるように帰っていくのは、フィオナが魔女だという例の噂のせいなのだが、そんな怖い思いをしてまで<魔女の花屋>にやってくるのも、やはり例の噂のせいなのだ。
最後にやってきた青年など、フィオナを前に始終膝を震わせていた。見るからに気弱そうな背がひょろりと高い彼は余程の怖がりなのだろうが、かなり時間をかけて真剣に花を選んでいたのが印象的だった。
(人を好きになるって、そんなに強い気持ちなのね)
怯えるように自分から花束を受け取っていく客たちを見て、フィオナは例年と同じ感想を抱いた。それはあくまで感想であり、共感でや羨望ではなかった。フィオナは今年で二十四歳になるが、そういった感情や出来事とは一切縁のない人生を送ってきたから共感のしようがないし、そういったことも含めて意図的に人との深い関わりを避けているため羨望の抱きようもなかった。フィオナはただ怯えながらも花を買っていく客たちに噂の<魔女>らしく振舞って、花を売っていった。
三時を過ぎてからはぱったりと人がこなくなった。例年の人の動きを知っているフィオナは見切りをつけてさっさと閉店作業に取り掛かかる。
人が途切れた理由はフィオナにもわかっていた。もうすぐこの豊饒祭最大のイベントであるダンスパーティが始まるからだ。午後から噴水広場で行われるダンスパーディは、毎年オーケストラの生演奏に合わせて公園を埋め尽くしたカップルが夜が更けるまで踊り続ける。多くの老若男女がこのダンスパーティで好きな相手と踊りたいと願い、そして意中の相手を仕留めるべく、このダンスパーティの前にフィオナの店の花を買っていくのである。
店仕舞いが終わると母屋に戻ったフィオナは出かける準備を始めた。髪を高い位置でお団子にし、その上からキャペリンハットを被るというのは、出かける時のいつものフィオナのスタイルだ。こうして髪の色を隠せば、彼女が噂の<花屋の魔女>だと気付く者はいない。さすがに噂の<魔女>が街を歩いていれば騒ぎなるだろうから、それを避けるための対処だった。
フィオナが家を出る時、スバルもひらりと母屋の玄関口から外に出ていく。フィオナはその背を見送ってから、戸締りをきちんと確認して街の中心を目指して出かけた。
豊饒祭の日に妹のルビオナに会いに行くのは毎年恒例のこととなっていた。それはこの豊饒祭の慣例に則って、ただ一人大切に思っている妹に花束を渡しに行くためだった。そのルビオナは街のど真ん中のカフェで働いている。人ごみも大嫌いなフィオナだったが、それを推し量ってもルビオナに会いに行くほど、彼女にとって妹の存在は大きなものだった。
フィオナの店がある街外れから街の中心までは路面電車が走っている。店から最寄りの駅までは歩かなければならないが、平常であれば四十分ほどで町の中心まで行ける。今日はカフェの最寄駅のそ二つ手前の駅で降りた。もうすでにダンスが始まっている時間なので、カフェの最寄駅の周辺は人でごった返しており、まともに歩くのに無駄な労力を使うことになるのをフィオナは知っていたからだ。二つ手前で降りたとはいえ、いつもとは比べ物にならない数の人々が道を行き交っていた。
人混みを避けるため、フィオナは細い路地を選んでルビオナの店を目指す。そこは表通りとは打って変わって静かだった。日がだいぶ落ちたせいで薄暗くはあったが、家々の裏口を照らすランプのおかげで歩くのには困らない。たまに地元の人が同じ目的で姿を見せるが、フィオナには気にも留めずに急ぎ足で表通りを目指していく。フィオナは大通りの喧騒などには目もくれず、まっすぐとルビオナの店を目指した。
路地を歩くこと数分、二つ先の角を曲がればルビオナの働くカフェに着く、という所まで来た時だった。
フィオナの前方に人の輪が見えた。
フィオナは咄嗟に足を止め、彼らから姿が見えないように身を隠す。近くにくるまで気付かなかったのは、彼らがちょうど壁に立てかけられた木材の陰になっていたからだろう。彼らが立っている場所は家の大きさが疎なためにできた路地にしては広い場所で、すぐそばの家の壁に灯っているランプに照らされていた。
十人ほどいるその集団は二十歳前後くらいの青年たちだった。持っている瓶はアルコールを含む飲料で、騒ぐ声から酔いが回っていることが伺える。酔いの回った年頃の青年たちが、こんな時間に路地を一人で歩いている女性を見かけて声をかけない、という可能性は一般的に考えて低かった。そして声を掛けられれば多かれ少なかれ面倒ごとになるところまで容易に想像できたフィオナは、少し引き返して他の道から遠回りすることに決めた。
方向転換しようと一歩足を踏み出す、が二歩目は出なかった。視界の端に、見覚えのあるものが映ったからだ。視線を酔っ払いの青年たちに戻してその中の一人、堅いの良い青年の手元を注視する。
淡いランプの光に照らされていたのは、フィオナが売ったブーケだった。
フィオナは自分が売ったもの全てを覚えているわけではないが、そのブーケのことはたまたま記憶に残っていた。そのブーケを買っていったのが、特に怯えていた見るからに気弱そうな背がひょろりと高い青年だったからだ。しかし、そのひょろい青年の姿は彼らの中にはなかった。そのことがなんとなく気になってしまったフィオナは、彼らの会話に耳を傾けてみることにした。
「せっかくジョルジに<魔女>の店まで買いに行かせたのに、無駄足になったな」
酔っ払いの青年たちの中の一人がそう言った。その言葉でフィオナはだいたい状況を飲み込む。話の流れからして、ジョルジというのはフィオナの店にあのブーケを買いに来たひょろい青年のことだろう。彼は二つブーケを買っていった。その一つを堅い良い青年が持っている。さしずめ、ひょろい青年は彼らのパシリだったのだ。
「やっぱ噂は噂だな」
そういった堅いの良い青年が、ブーケを持っている腕を振り上げた。
そして、まっすぐと地面に叩きつけて、足で擦り付けるように踏みつける。
それを見た途端、耳の奥がキンッとなって、腹の底が熱くなるのをフィオナは感じた。それは間違いなく憤り。花を心から愛しているフィオナにとって、その光景は腹立たしくて仕方がなかった。
堅いの良い青年は花を踏みつぶしたことで少し苛立ちが収まったのか、持っていた瓶を大きく傾けてアルコールを飲む。そんな彼に酔っ払いの仲間が言った。
「でも、ジョルジはディアナからOKもらえたみたいだよ」
「あいつが!?」
周りでも大きな声が上がる。堅いの良い青年は怒りに任せて、今度は瓶を地面に投げつけた。
「なんであいつがよくて、俺がダメなんだよ!」
「やっぱ本人が買いに行かなきゃいけなかったんじゃない?」
ケラケラとからかうように笑う他の青年たち。そんな彼らの様子に悔しそうに喚く堅いの良い青年。見た目には体も大きくて強そうだったが、きっと<魔女>の店に来るのが怖かったのだろう。だからあのひょろい青年を脅して花を買いに行かせたということが推測できた。
フィオナは真剣に花を選ぶひょろい青年の顔を思い出していた。
「自分で花を買いに来る勇気もないくせに、その程度の思いが伝わるはずないじゃない」
フィオナは声に出して呟いた。花を踏みつけられた憤りで思わず口をついていたのだが、幸いにもそれが酔っ払いの青年たちに届くことはなかった。
フィオナは冷静になろうと、湧き出る憤りを吐き出そうとするかのように深く息を吐く。ここでフィオナが彼らに何を言ったって踏みつけられた花が元に戻るわけでもない。彼らにこの憤りをぶつけてみたところで、ただ面倒ごとになるだけだということをフィオナはよくわかっていた。だからフィオナはぐっと唇を引き結んで、今度こそ、その場を去ろうとした。
「ったく、おもしろくねぇな」
そんなフィオナを再度引き止とめるのは、堅いの良い青年の苛立った声。
「どうせやることねぇし、<魔女の花屋>でもぶっ壊しに行くか?」
フィオナの足がピタリと止まった。笑みを含んだその声色にフィオナの顔が青くなる。一瞬にして、全身に寒気が走った。堅いの良い青年の言葉に、仲間たちも驚いている声が聞こえてくる。
「マジで言ってんの?」
「変な魔法かけられるぜ?」
「どうせ噂だって」
仲間の忠告にも堅いの良い青年は耳を貸そうとしない。酔いもあるせいか、そこにいた全員が目当ての相手から振られてダンスパーティに出れず暇を持て余していたせいか、次第に他の青年たちも堅いの良い青年に賛同する声を上げ始めた。酔っ払いの青年たちの笑う声が聞こえる。
それに呼応するかのように、フィオナの耳の奥がキンキンと音を立てている。それは警告音のようだった。先ほどとは打って変わって、今度は腹の底が冷える感覚がフィオナを襲う。
彼らは酔っている。しかも街の人々はほとんど街の中心にいて、街外れで一つの店が破壊されることなど、気付く者はいないだろう。二十歳前後の男性十人の手にかかれば、フィオナのガラスハウスはあっという間に壊されてしまうだろう。フィオナはその光景を容易に想像することができた。
『何か起こってからじゃ遅いんだからな!』
今朝、ロイドに言われた言葉がフィオナの頭の中で児玉する。ロイドの忠告が現実のものとなったことに苛立ちと後悔が押し寄せる。奥歯を噛み締め、自分を抱きしめるように縮こまった。彼らを止めなれけば、そう思うのに体は思うように動かなかった。動いたところでフィオナにできることなんて、何もなかった。
自分が無力だということをフィオナはよく知っていた。自分だけの力では彼らを止めることはできない。そして致命的なことに、人付き合いを避け続けてきたフィオナにはこんな時に助けを請えるような存在が一人も思い浮かばなかった。
酔っ払った青年たちが移動を始めようとするのが視界の端に映る。彼らの会話はもう耳に入ってこなかった。身体中の血管が脈打ってるような感覚に陥った。結局、大切なあの店を失うかもしれないという恐怖がフィオナを突き動かす。
フィオナは物陰から酔っ払いの青年たちの前に飛び出した。
いきなり現れたフィオナに青年たちは全員訝しげな表情を浮かべる。
「なんだ、お前?」
「……」
青年たちの一人が誰何するが、下を俯いたフィオナは何も答えなかった。
「おい」
痺れを切らしたように他の一人がフィオナに近づく。
「あの店を壊すのは、やめて」
なんとか振り絞るように言った。それだけを口にするのに、息が上がり、脈が更に早くなる。フィオナのおかしな言動に、酔っ払った青年たちは顔を見合わせて首を傾げる。が、勘のいい一人がハッとして、フィオナを指差す。
「お前……もしかして!?」
フィオナの耳の奥で、一層大きく高い音が響き渡った。
その時、空が異様な光を放った。
20150601 改行を増やしました、20150417 誤字修正
20150414 長かったので二つに分けました、微修正