プロローグ
「いらっしゃいませ」
かなり遠慮がちにかけられたその声に、店頭で花を選んでいた男性客二人は、大袈裟すぎるだろうと言いたくなるほど激しく肩を震わせて、花に向けていた視線を上げた。
視線の先に立っているのは灰色の硬そうな髪をおさげにした二十代半ばと見える女性。真っ黒いビニール性のエプロンの下に着てるのもこれまた真っ黒いワンピース。その瞳は虹彩とほとんど色の識別がない鉛色で、まるで魂が宿っていないように見えた。
店内の奥からやってきたその女性は、紛れもなく二人組の男性が訪れた花屋の関係者であることは伺えたが、彼らにはその女性が間違いなくこの花屋の店主であることがわかっていた。彼女の形容が噂に違わぬものだったからだ。街外れに佇むガラスハウスをそのまま店にした、街で一番有名な花屋。
ここは、<魔女>が営むという噂の花屋だった。
噂の真相を確かめようと、時間を持て余していた彼らは興味本位にこの店にやってきた。そして、現れた女性が聞き及んでいたものと全く同じだったことと、瞳に宿る薄い生気からこの世のものとは思えないような雰囲気を感じ取り、体の底の方からふつふつと湧いてきた恐怖に動けないでいた。
「どんな花をお探しですか?」
女性は薄く笑う。その笑みを見た瞬間、「<魔女>だ」と二人の男性は同時に心の中でその確信を得た。そして、全く同じタイミングで「ひぃぃぃ!」と怯えるような声を上げ、振り返り、足を踏み出し、彼らの全速力と思われる速度で逃げ去っていった。
彼らが走り去る勢いで店頭に置いてあったハクサンチドリがわずかに揺れた。その揺れが収まる頃、<花屋の魔女>はガラスハウスからゆっくりと歩き出し、男性たちが逃げていった道を眺める。そして呆れ返ったように溜め息を吐いた。
「まったく……。最近は冷やかしも減ったと思ってたけど、やっぱり人は噂好きよね」
「にゃあ」
街の中心に視線を向けたまま呟いた<魔女>の言葉に足元から猫の鳴き声が返ってきた。声が聞こえてきた足元を見ると、そこには全身真っ黒な猫が行儀よく座っていた。ゆらゆらと揺れる尻尾の先まで真っ黒で、<魔女>を見上げる双眸は赤味の強いオレンジ色をしていた。猫の姿を認めた<魔女>は優しげな表情を向ける。先ほどの出来事を忘れることにしたのか、短く息を吐くと気を取り直したように橙色に染まり始めた空を見上げて、
「さて、明日は稼ぐわよ」
非常に現実的な掛け声とともに両手に拳を握って気合を入れると、店内に戻って閉店作業を再開した。
20150601 改行を増やしました
20140421 誤字修正