6 やっぱり彼氏を守るのは、彼女の役目だよね
校内を一周して、そろそろツキミの担当の理科室の掃除も終わり戻って来ている頃だろうと、教室へ戻ろうとしたとき、とっくに飲村と一緒に下校したものだと思っていた樹里さんが、おれを見つけて駆け寄ってきた。
「あれぇ、囃子くんじゃない。こんなところで何してるのぉ?」
それはこっちの台詞である。
「あ、もしかして、わたしのこと探しに来てくれたのかなぁ?」
「いいえ、時間潰しに少し歩いていただけですよ」
ここは二年の教室があるフロアで、三年生は特別用事がないかぎり来ることはなく、というかめったに訪れることはない。
つまり何をしているのか、とききたいのはこっちの方だ。
「なーんだ。わたしと一緒に帰るために、樹里のこと探しに来てくれたのかと思ったのにぃー」
樹里さんは頬をぷくっと、ふくらませた。
その仕草におれは一瞬ドキとする。
「ねえ、熱彦はもう帰ったの?」
ああ、そういうことか。
飲村を探しに来たのか。それなら納得だ。
「あいつなら、昨日録画したアニメを早く観たいからって、さっさと教室をとび出して、帰っていきましたよ」
と教えてあげると、樹里さんの顔はなぜか、はっと明るくなって、
「そっかあ、よかったあ。じゃあ見られる心配はないわね。ねぇ、囃子くぅん、お昼休みわたしが帰るときに、あなたのこと可愛いって言ったこと覚えてるぅ? あれ嘘じゃないんだよ。わたし本当はねぇ、熱彦なんかよりあなたの方がタイプなのぉ」
そして、いきなりおれの腕にしがみついた。
その反動で腕にぶつかる柔らかい物体の感触がはっきりと感じられた。
む、胸が……。
「ねぇ、囃子くぅん。わたしのこと、どお? 好き? 嫌いじゃないでしょう? だったら、今からわたしと遊びましょうよ?」
これが本音かどうかは置いておいて、飲村がこれを聞いたらどんな風に思うだろう。
明日あいつに何と報告すればいい。
「樹里さん……そ、そんなこと言ってたら飲村のやつ怒りますよ。あいつけっこう本気で樹里さんに惚れていたみたいなんで……」
飲村と友達じゃなかったら、たぶんおれはこの人に誘惑され昼間の飲村みたいになっていただろう。
それほど樹里さんはおれを惑わした。
「えぇ、いいじゃん。熱彦のことなんか放っておいてさあ、今から一緒に帰って遊ぼうよ。そうだ、わたしの家に来てもいいんだよぅ。ねぇ、いいでしょう、囃子くぅーん」
甘く生あたたかい吐息がおれの鼻にかかった。
目をそらそうと視線を下げると、大きく開いた胸元から柔らかそうな二つの膨らみが見える。
おれはあわてて目をそらした。
「どうしたの? 見たかったら、見てもいいんだよ。ただし、わたしと遊んでくれるって約束してから。ねえ、かおりちゃんにはダメって言われていたんだけど、やっぱりわたしは、囃子くんのことが好きみたいなの。ねえ、みんなに内緒で付き合っちゃおうよう。だめえ?
」
なんて人だ、いいわけないじゃないか。
たとえおれが今からツキミと別れなくちゃならないとはいえ、飲村を裏切ってまでこの人と付き合うなんて、とてもじゃないが考えられないし、考えたくもない。
この人はおれみたいな凡人が近づいてはいけない人だ。
「樹里さん、ごめんなさい」
おれは頭を下げて、彼女から目を逸らした。
「えぇー、なんでえ? 何でだめなのぉ? ほかに好きな人がいるのぉ?」
「はい。おれ、今から、か……彼女と……一緒に帰らなきゃいけないんで……。だからこれで失礼します。飲村には、適当に言っておきますんで、じゃあっ!」
彼女といっても、これから別れることになるだろう相手。
だが、いまはこの場から逃れるための口実につかわせてもらう。許してくれツキミ。
樹里さんは悪い意味で魅力的な人で、とてもおれの手に負えるような人じゃない。関わらないのが一番だ。
急いでおれは、走りだそうとしたとき、
「だめ、逃がさない!」
樹里さんがおれの手をつかんだ。
「そんな彼女なんてほうっておいて、わたしと一緒に遊びましょ」
「えっ……?」
もうツキミの掃除は終わっているはず。早く教室に戻らなくてはならない。
だが樹里さんはおれの手を掴んだまま離さず、行かせてもらえなかった。
「ねえ、いいでしょ?」
ふたたび接近樹里さんはおれの耳もとで、甘くつぶやき、熱い息がおれの顔面にかかった。
「うっ。じゅ、樹里さん……」
艶めかしく体をくねらせ、おれへと擦りつけてくる。
「ちょっ、駄目ですよ。それに、みんな見てますって……」
「見せつければいいのよ、さあ、わたしに理君の唇をちょうだい?」
首に巻きつく腕に力がはいる。
引きよせらる。
樹里さんの顔面が近づく。
――ダメだ、おれこの人に喰われちまう……。
すまん、飲村!
おれは覚悟して目を閉じた。そのとき、
「理っ!」
声がして、後ろをふり向いた。
そこには刀を握ってこちらを見つめる仁王立ちのツキミがいた。
「何してるの理?」
「ツキミ!」
「んん? この娘だあれ?」
と樹里さんは、体を密着させたまま、顔だけツキミに向けて言った。
「いま、わたしたち熱い抱擁をかわしてるところなの。邪魔しないでくれるかな?」
ツキミはこっちを見たままピクリともせず、じっとただ見つめている。
「……理? どうしてこんなことしてるの?」
と、つぶやくように言う。
「もしかして、わたしに見せつけるためにわざとやってるの?」
「ち、ちがう!」
「わたしと付き合うのが嫌だから、わざとそんなエロい女と密着して――」
樹里さんの表情にニヤリを笑みがうかんだ。
「うふふっ。そうよ。わたしたちが愛し合っている姿をみんなに見せつけているの」
ツキミが目を細めて、軽蔑したような目でおれを見る。
「理がそういう気なら……わたし……」
ぷいっとそっぽを向いて、踵を返していった。
去ってゆくツキミを、樹里さんは嬉しそうに見つめている。
そんな……ツキミ、待ってくれ……。行かないでくれ……。
舌を出した樹里さんの顔が、おれの唇へ接近する。
「た、助けてくれ、ツキミっ!」
おれは叫んだ。
「樹里さんがおれを離してくれないんだ! 彼女と帰るからと言ったのに、樹里さんが……っ! 頼む、助けてくれ!」
すると、遠ざかって行くツキミが足を止めた。
くるりと体を反転させ、こちらを向いた。
にこっと微笑み、
「やっぱり彼氏を守るのは、彼女の役目だよね」
ツキミは駆け出した。こちらへ向かって走ってくる。片手には鞘に収まる刀を握っている。
「わたしの彼氏に、何ちょっかいかけてるのよ!」
おれたちがいた少し手前で跳躍した。
空中で両足をあげ、体を水平にした。そのまま勢いよくドロップキック。
樹里さんに命中。
ズサーッと廊下をすべるようにして、樹里さんはふき飛ばされた。
ツキミはドンッと刀で床をついた。
「人のものに手を出すなんて信じられない!」
ツキミは横たわる樹里さんをにらみつけて言った。
「このエロエロ女ッ!」
樹里さんはスカートがまくれてパンツまる出し状態になっている。
そんなこと気にする間もなく、怒るツキミを見上げて恐怖におびえて顔を引きつらせている。
「帰ろう、理」
「う、うん……」
ツキミは歩きだした。
あわてておれは、その後を追いかける。
そうしてその日は、おれはツキミと一緒に下校した。